夏とわたしとS theme : 麺

S。私の夏の思い出。
いつも、Sのことを考えていた。
今年の夏はそばが食べたくて仕方なかった。なぜかはわからない。
そして、そばの中でもSが食べたかった。
Sを食べたことがない。これまで食べたいと思ったこともなかったのだが、今年の夏は暑すぎたからかずっとSが食べたかった。
毎日、うどん屋とそば屋の前を通るのだが、うどん屋の出汁の香りを嗅いだ後、そば屋でうまそうにそばを掻きこむサラリーマンたちを見るから余計に食べたくなっていたのかもしれない。そのそば屋の立て看板にSがないことも余計にSへの欲望を掻き立てた。


一度、そば屋に行った。

お腹をすかせて梅田の阪急三番街に迷い込んだときのことだ。Sの写真が大きく載ったそば屋のポスターを見て、その日の私の昼食は決まった。
「そば…そば…」とうめきながらせまく複雑な地下街をさまよう。昼のピークはすぎているのに人通りは多い。
そば屋をみつけた。ポスターと同じ店かはわからないが、のれんをくぐる。
メニューをみて、気づいたら鴨せいろを頼んでいた。不覚。あまりにもお腹がすいていて、Sの軟弱な構成ではお腹を満たせないと思ってしまったのだろう。己の意思の弱さたるや。
その日は鴨せいろ単品を頼んでいたはずだったが、違和感があった。
店員がもってきたお盆にはかやくご飯がのっていたのだ。伝票に「鴨定」とあったので、どうも注文をとるときに鴨せいろ定食ときき間違えられたらしい。お腹はたしかにすいていたが、胃袋が大きいわけではないので食べ切るのに時間がかかった。Sの神様に裏切ったことがばれたのかもしれない。はちきれそうな腹を抱えて店をでた。


私はいったい何をしていたのだろう。
結局、8月を終えても私はSとの邂逅を果たせていなかった。

連日、家でSが食べたいと嘆いていると、家族旅行先でそば屋に行ってもらえることになった。
その店は人気店で、数十分待ったあと、ようやく店内に案内された。

届いたそばを見て私は感動した。
美しい。これぞ私が求めていたS、そう、すだちそばである。

木のすこしぽったりした椀がやわらかく、手の収まりが良い。
この椀を池とするならば、池に浮かんだ睡蓮のように青々とすだちの輪切りがきらめき、重なってつゆの水面を覆っている。
見た目のみならず、味もおいしい。出汁にすだちの酸味が溶けて非常にさっぱりとしている。そばも硬すぎず柔らかすぎず、ちょうどよい硬さでのどごしもよい。
えぐみが出る前にすだちを取り出す。そうそうこの味が飲みたかったのだ。椀をかかえてつゆをすする。ああ、満足。


ところがすだちそばだけでも十分に満足していたところを、その満足を突き抜ける美味しいサプライズがあった。
それはそばとセットで注文した牛めしである。

メニューを見た時には、なぜこれがすだちそばとセットなのかと不思議に思ったが、納得の組み合わせだった。

すだちそばは、さっぱりとした酸味に出汁のうまみ、そばの軽やかな食べ応えがうまい。
ところが牛めしは薄切りの牛肉のとろけるような脂の甘さ、甘辛いタレが染みたご飯と合わさってこれまたうまい。このタレの甘辛い醤油味と牛肉の脂のコッテリ感が、すだちそばと真逆の味わいなのだ。

だからこそ互いをひきたてている。このすだちそばと牛めしがあれば、この世の美味しさの五角形の全ステータスがカンストする。
要するにこれはサウナである。サウナの温冷交代浴が口で行われているのだ。
アツい牛めしでたっぷり汗をかいてから、冷たいすだちそばで冷ます。それを繰り返すうちに、わたしは、うまさの全てを悟った。

店を出たとき、あまりに完璧な食を目の当たりにしたわたしの口は完全に「ととのう」になっていた。

(文 ひものみた)

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