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アメリカ横断鉄道の黒歴史

今でこそNYからサンフランシスコに旅行しようと思えば、飛行機で6時間で行けます。でも、飛行機も鉄道もない時代はどのように移動していたのでしょう?

1つは、馬車に乗って陸地を6カ月進む方法で、現在の価値で数万ドルかかったそうです。他にも船で、NYから南米をぐるっと回って東海岸に行くルート、NYからパナマまで行ってそこから陸地を移動するルートがありました。どちらにせよすごい遠回りなので6カ月くらいかかったようです。

その移動を劇的に変えたのがアメリカ横断鉄道でした。歴史的に大変意義のある大偉業ですが、調べるとなかなか黒い歴史が関わっていました。

2社の熾烈な競争

アメリカ横断鉄道は、セントラル・パシフィック鉄道とユニオン・パシフィックの競争抜きでは語れません。
セントラルは、1860年代、カリフォルニア州サクラメントでエンジニアのセオドア・ジュッダが大陸横断鉄道を構想したところから始まります。その構想は、シエラネバダ山脈にトンネルを掘って、西海岸から東を目指すものでした。ジュッダは、投資家からお金を募り、プロジェクトの指揮は、商人のCharles Crockerと政治家のLeland Stanford(スタンフォード大の創設者)がとることに。
一方、ユニオンは、ネブラスカ州オマハで、元外科医のトーマス・デュランが鉄道産業に参入するところから始まります。デュランはお金に汚い人物で、所有していたローカル鉄道会社の株価を吊り上げ、それを売却したお金で最も力のある鉄道会社ユニオン・パシフィックに投資、副社長まで成り上ります。そして、更なる金儲けのため大陸横断鉄道の建設(オマハから西海岸へ)に乗り出します。
当時の大統領リンカーンは、大陸横断鉄道建設を承認したものの、片方を選ぶのではなく、両社によって追加された1マイル1マイルについて、$16,000の利益(荒い地形の場合にはその3倍)を付与することに。両者を競争させることによって、より早く鉄道が完成すると考えたのです。

こうして2社の線路建築競争が始まりました。

赤がセントラル、青がユニオンのルート(from Wikipedia)

セントラルの困難

開始早々、ジュッダがクビになります。荒い地形の場合3倍の利益が得られることに触れました。セントラルの投資家たちは「荒い地形じゃない所を荒い地形と申告してしまえ」と考えたのですが、嘘を嫌うジュッダが反対したことが理由です。後任として、鉄道を何も知らない、商人のCrockerが選ばれました。
Crockerも就任早々、壁にぶち当たります。シエラネバダ山脈の石が固すぎて1日に30cmくらいしか進まなかったのです。そこで、太平天国の乱の後、中国から逃げてきた中国人移民を大量導入します(10,000以上の中国人移民が働いていたそうです)。非常に過酷な建築現場で200人の中国人が死んだと言われていますが、実際には、正確な数字さえ公表されておらず、移民がどれだけぞんざいに扱われていたかが想像されます。

ユニオンの困難

こちらも金儲けのため、わざとくねくねした長いルートを考え、利益を稼ぐ作戦を思い付きます。辛抱耐えられなくなったリンカーンは、デュランに期限(2年で200マイル)を作り、できなければ契約を打ち切ることを決めました。
お尻に火の付いたデュランは、建築作業員がいちいち家に帰らなくて済むように、線路の上に生活に必要な全てを積んだモバイル・ワークステーション(City of Wheelsと呼ばれた)を考案。この仕組みにより作業は3倍の速さで進み、期限に間に合いました。ただ、City of Wheelsには欠点も。City of Wheelsで働く労働者をお客とするサロン、売春宿、ギャンブル店など、1,000件ほどの店が、city of wheelsについて回ったのです。これらの店は、Hell on Wheelsと呼ばれ、過剰な飲酒等で多くの人が亡くなりました。建築現場での死亡者数の約4倍がHell on Wheelsで死んだと言われています。

ネイティブアメリカンとの対立

ユニオンが西に行けば行くほど、ネイティブアメリカンとの衝突が増えるようになります。その中で陸軍が何千ものネイティブアメリカンを殺害し、それよりももっと多くの者をインディアン居留地へと追いやりました。
陸軍は完全にネイティブアメリカンを排除する目的で、彼らが生活の糧としていたアメリカンバイソンをも殺害します。5百万頭のアメリカンバイソンが殺害させたと言われ、ほぼ絶滅にいたるまでに追いやりました。

積み上げられたバイソンの頭蓋骨 (from Smithsonian Magazine)

利益競争の成れの果て

1869年、両者の線路が繋がる距離に来たのですが、中間地点を決めないで始めたプロジェクトなので、少しでも利益を稼ぐため両者ともレールを作り続けるという始末に。最終的には、当時の大統領ユリシーズ・グラントが到達地点について合意に至るように命令し決着しました。
この鉄道の完成により、人々は1週間と200-300ドルで西と東を行き来できるように。多くの貨物も運ばれ、今まで取引されていなかったものが西海岸からアジアへ、東海岸からヨーロッパへ運ばれるようになりました。
(その後、ユニオンはセントラルを買収し、ユニオン・パシフィックは現在でもアメリカ第2位の貨物専用大陸横断鉄道の運営会社として君臨しています)

アメリカ横断鉄道の歴史的な意義

世界の人とモノを繋いだという意味で、一見、美談にできそうな偉業である。しかし、その偉業は、一部のお金持ちの金儲けの上に成り立っており、そのために多くの弱者(移民、低賃金労働者、ネイティブアメリカン、もちろんアメリカン・バイソンも)の命が犠牲になったことを忘れてはいけない。
完成から150年、この状況は果たして変わったのだろうか。アメリカを繋いだ大陸横断鉄道は、持つ者と持たざる者の距離を繋ぐことはできなかった。


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