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あまり知られていない自由の女神の真実

自由の女神のモデルが誰かご存じでしょうか?

実は自由の女神をデザインしたアーティストの兄弟という説が有力視されています。この説は、作者の持ち歩いていた彼の兄弟の写真と、自由の女神の顔が瓜二つであることから来ているもので、確かに像と写真の顔がよく似ています。まさか、男性がモデルだったとは。。。

顔のモデルとされる作者の兄弟

今回は、あまり知られていない自由の女神の真実について書きたいと思います。

誰が作った?

新鋭のフランス人彫刻家、Frederic Auguste Bartholdi(フレデリック・オーギュスト・バルトルディ)が作者です。1865年当時31歳であったバルトルディは、有名なフランス作家であるEdouard Rene de laboulaye(エドアルド・ド・ラブライエ)のディナーパーティーに参加します。ラブライエはアメリカの民主主義と奴隷解放をサポートしており、フランスとアメリカの絆を示すモニュメントの制作を計画。当時あまり有名でなかったバルトルディに制作を依頼することに。
1871年、バルトルディは歴史に名を残す作品の制作を夢見て、ほぼノープラン・ノーマネーの状態でアメリカへ渡ります。

制作に至るまでの過程

フランスからボートでアメリカへ渡ったバルトルディ。ボートの上で最高のロケーションを見つけます。Liberty Island(当時はBedloe’s islandと呼ばれた)です。当時は誰も気にかけない小さい島で、既に使用されていない軍事要塞でした。
バルトルディはラブライエの紹介状を持って、ラブライエの知り合いを訪問。そのつてで当時の大統領、Ulysses S. Grant(ユリシーズ・グラント)と面談し、「フランスがお金をだすならば」ということで像の建築の許可を得ました。
許可は得たものの、まだデザインすら決まっていません。当時、最大の像、Greek Colossus of Rhodes(ロドス島の巨像)の約3倍である93mの像を作ることを計画。それには今の価値で$10 millions (約14億円)の予算が必要でしたが、募金で得たお金だけでは全く足りませんでした。ここで、バルトルディは名案を思い付きます。1875 - 1876年にアメリカが最初のWorld’s Fairをフィラデルフィアで開催することを知り、そこで作成途中の像の一部(右手とトーチの部分)を展示し、トーチを登れるチケットを販売することで収益を得ることを考えたのです(彼は、お土産ショップの先駆けをつくったことでも知られており、像の写真や、ミニチュアの像も売ったそうです)。

建築技法

お金の問題も目途がついたことで、本格的な建築にとりかかります。バルトルディは師匠のEugene Viollet-le-Duc(Notre Dameのガーゴイルの彫像を手掛けた人物)に協力を要請。
当時の典型的な建築は、壁を作って、その壁が建築物を支えるつくりでした。一方、自由の女神はCurtain wallという技法を使っている初の建造物の1つで、まず強固なフレームを作り、その後で外壁を取り付ける手法を採用しています。
内部のフレーム材料として鉄、それをプラスター(漆喰)でカバーし、外壁に銅を使用(軽く、入手が容易な金属で、きれいな色だったため)。現在の自由の女神は銅が錆びたため緑色ですが、完成時はピカピカの銅の色でした(そのため最初はcopper ladyとも呼ばれていた)。フレームが像の重さに耐えれるよう、銅の厚さを最低限にする必要があり、アメリカの硬貨であるペニーを2枚合わせたくらいの厚さで作られています。
なお、1881年に師匠が脳出血で死んでしまい、バルトルディは新しいエンジニアとしてGustave Eiffel(ギュスターヴ・エッフェル)に声をかけます。名前からお分かりのように、数年後の1889年にエッフェル塔を作った人物で、当時はヨーロッパ最高の橋の建築家として知られていました。エンジニアが同じため、自由の女神の内部はエッフェル塔と似ており、エッフェル塔の周りを女神の形をした銅で覆ったような構造となっています。
完成した自由の女神は、350の小さなピースに解体され、NYに運ばれました。そして1884年に全体の像が完成、1886年10月にお披露目セレモニーが開催されました。

自由の女神の内部(from Flickr uploaded by Eddie~S)

トーチの逆の手には何を持っているのか?

トーチを持っていない、左手に何を持たせるか?バルトルディは、最初のモデルでは、壊れたチェーンを握るデザインを考えました(奴隷の開放がモチーフ)。ただ、アメリカ国内のメイントピックは、奴隷問題から既に前進していたため、表紙にJuly 4, 1776(建国日)と記載した本を持つデザインを採用しました。ただ、チェーンのアイデアは残し、像の足に壊れたチェーンを付けることしました(これは像を上から見ないと気付かない)。

copyright by The Statue of Liberty - Ellis Island Foundation

顔のモデルは誰?

バルトルディの母という説もありますが、彼が敬愛していた兄弟という説が有力です。彼の兄弟は精神病のため保護施設の中で暮らしていました。そのため、自由な生活を送ることが出来ず、バルトルディの中で奴隷解放運動と重なるところがあったのかもしれません。

自由の女神の存在意義

アメリカと聞いたときにまず自由の女神を想像する人も多いのではないだろうか?私自身、初めてアメリカに旅行した20歳前半、自由の女神を見て説明できないゾクゾク感を感じた。そして、そのゾクゾク感が忘れられず、30歳半ばでアメリカへの移住を決意した。
このゾクゾク感に魅せられた移民がどれだけ多く存在し、アメリカを支えてきたのだろう。一人の無謀な彫刻家が、その夢をかなえ、夢見る人々を引き付けてきた。その意味で、自由の女神はただの「像」ではなく、「アメリカ」そのものの象徴なのであろう。

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