異色レスラーの知られざる話
――by Drifter(Koji Shiraishi)
Tokyo Sports Press Newspaperに約20年在籍。アマチュア・レスリングは重点取材種目の一つだった。
【日大に凄いヤツがいた】
1976年1月下旬、Sデスクに呼ばれた。
「江古田へ行って、ルスカをマークしてくれ」
アントニオ・猪木の格闘技世界一決定戦、第一弾の相手、"オランダの赤鬼"ウィリエム・ルスカが来日した。1972年、ミュンヘン・オリンピックの柔道、重量級、無差別級の二階級金メダリスト。日本のお家芸に立ちはだかった男。猪木が"仇討ち"、そんな期待感を持った人も少なくなかったのではないだろうか。
「江古田ですか?」
「日本大学のレスリング道場で、ルスカが公開練習をやるそうだ」
Sデスクは言った。なぜ日大なのか? 後になって分かったことだが、ルスカに白羽の矢を立てて、試合への橋渡しをしたのは、日大のレスリングOBで、レスリング界のドン、JOCも仕切った、T.F.氏だったようだ。
もちろん、話題性のある興行を模索していた新日本プロレスからのアプローチはあったはずだ。
柔道の金メダリストであるが、公開練習を神聖な講道館というわけにもいかず、スパーリング・パートナーにはレスラー系が必要。そこで日大のレスリング道場、となったのではないだろうか。
道場は西武池袋線の江古田駅から北へ向かい、武蔵野音楽大学の西側の住宅街の中にあった。
道場に着くと、ルスカはすでにストレッチを始めたいた。傍らで、時々アドバイスを与えているような、いかつい男がいた。仁義を切った。
「俺はクリス・ドールマン。トレーナー。試合でセコンドをやるつもりだ」
後で調べてみると、オランダ格闘技界では伝説的存在のようだった。
「レスリング、サンボ、柔術……いざとなったら、戦うつもりだ」
ドールマンは、ちょっと物騒な雰囲気を持っていた。
「猪木は大丈夫なのか? 俺は今からでもいいんだぜ」
ルスカも時折、口をはさんできた。おッ!? アムステルダムで警備関係の仕事をしていた……と。歓楽街の用心棒をやってたってことなのか? 鋼のような体、荒っぽい言動。異種格闘技戦のルールはどうなっているんだろう? 少々心配になった。
「さてスパーリングやろうか? 誰がやってくれるのかな?」とルスカはにやりと笑った。
「私です。よろしくお願いします」と、一人の学生が現れた。身長は185くらいあったかもしれないが、細い。ヘビー級というわけではない。思わず訊いた。
「何キロ?」
「今、95くらいですかね。ライト・ヘビーってとこですか」
日本大学レスリング部三年の谷津嘉章だった。
そうか。ルスカは110キロくらいはあるだろう、鋼の体をした"オランダの赤鬼"……練習相手は学生? アマチュア? ……さて?
少々心配にもなった。スパーリングが始まった。
すると、ぇッ!? えッ!? なんだ!? 素早くバックを取って責め立てたのは、日大三年の谷津だった。20キロくらいの体重ハンディは全く関係ない。そうなのか?
谷津は足をからめて、ルスカの首を決めて責め立てた。ルスカがタップして終了。もう一度やったが、ルスカは分が悪かった。書けないじゃないか。今度は柔道着で。谷津も上着を羽織ってスパーリング。今度はルスカが寄せ付けなかった。続いてドールマンも谷津とアマレス・スタイルのスパーリングを行ったが、あしらわれた。書けるのは、柔道着の部分だけか。
しかし……日大のレスリング部に逸材がいた。これは大収穫だった。スパーリング後、名刺を渡して、「また話を聞かせて」とくさびを打った。
【ルスカが散って……】
1976年2月6日、日本武道館。20分35秒。バックドロップ三連発で猪木のTKO勝ち。ルスカは額を切って流血。途中で柔道着を脱ぎ捨てて……何だか、江古田で見た風景が浮かんだ。柔道着を脱いだルスカはレスリンでは勝てないのでは。侍が決闘時に、刀を抜いて鞘を捨てると、勝負を捨てた……と言われるように。
谷津はこの年のモントリオール五輪100kg級で8位に入賞した。重量級のホープとして表に出てきたのだ。谷津はそれまでのヘビー級選手と違っていたのは、体が大きくなるのに合わせて階級を上げてきた。だから、スピードと技を持っていた。
1976年(昭和51年)=90kg級
1977年(昭和52年)=100kg級
1978年(昭和53年)=100kg超級
1979年(昭和54年)=100kg級
1980年(昭和55年)=100kg級
全日本選手権5連覇でモスクワ五輪代表確定。谷津は世界の舞台でベスト3以内に評価されていた。
この頃になると、私と谷津は時々、食事をするような付き合いにもなっていた。
谷津は本番でのメダルを少しでも高いレベルを目指すべく、ソ連(当時)のナショナル・チームの合宿に単身参加していた。時々、電話をかけてきては、現状を報告してくれた。
「こっちの選手とやってますが、手ごたえ十分ですね。本番もいけますよ」
【幻のモスクワ五輪からプロの舞台へ】
日本のレスリングは柔道ともども、本番ではかなりのメダルが期待されていた。五輪は選手にとっては4年に一度のチャンス。最後まで出場の道を探ったが、アメリカに追随する日本。独自の道は歩めずで、断念。私も初の五輪取材の予定で、宿泊代の半分を現地に払い込んだりして準備してもいたので、残念・無念の出来事であった。やり切れない……フリー52kg級の高田裕司(現・山梨学院大学教授), 57kg級の富山英明(現・日本大学教授)、そして谷津などのメンバーで、残念会をやり、飲みまくって憂さを晴らしたのである。
所属先のなかった谷津は、「足利で先生やりますか? 似合わないですね」と。
そんな時、新日本プロレス営業本部長の新間寿氏から、非公式に打診があった。
「谷津選手、プロレスに興味ありませんかねぇ? その気があれば、支度金用意しますよ」
私は内緒で谷津に伝えた。この話が進めばニュースになるのである。
「プロレスはどこまでやるんですかねぇ? 興味がないこともないですが、そっちへ行ったら、戻れませんよね?」
「いや、そうとも言えない。オリンピックもプロとアマの垣根が崩れ出しているし……」
「やるのはこっちですよ。簡単に言わないでください」
しかし、あれこれ雑談しているうちに、結局谷津は、「プロでやってみますか」と言った。私は新日本プロレスの新間氏に連絡して、伝えた。
「谷津はプロレスに興味があると言ってます。モスクワがなくなって、ということもあるので、契約金を考えてください。500万円以上で」
新間氏が了承したので、私はニュースを打った。
「谷津嘉章、新日本プロレス入り。契約金500万円」
一説には契約金は、1500万円ともあるが、私は知らない。
間もなくして、谷津は新日本プロレスに入団した。新人研修はプロレスのイロハを身に付けることである。谷津は連日、世田谷上野毛の道場に通い詰めていた。
ある日、電話をかけてきて言った。
「練習してますよ。なかなか大変ですよ。この前、猪木さんとスパーリングして、"遠慮しないで来い”と言うんで、バックをとって責め立てたら、怒ってました。そんなものですか」
やっちまったか。私は苦笑しながら、言った。
「プロレスでは、誰の支配下のマットに上がるのか、誰がギャランティーしているのか、が力関係のポイント。だから、新日本プロレスでは猪木が一番なんだよ」
江古田でルスカに勝って、上野毛で猪木に勝った!? 谷津が最強ってことか? 何だかおかしくなってきた。もちろん、原稿に書いて新聞に載せるわけにはいかなかった。強いね、全日本五連覇は伊達ではないのである。
【プロも五輪へ】
1980年のモスクワ五輪はソ連のアフガニスタン侵攻をめぐって、アメリカを筆頭にした多くの自由主義国が抗議の意思を表明しての不参加。次の84年のロサンゼルス五輪はその報復で、ソ連をはじめとする共産圏の国々が不参加となった。
五輪はこの報復合戦の裏側で、もう一つの問題が起きていた。それは、プロの参加を認める"オープン化"であった。1984年のロサンゼルス五輪の後くらいから、議論が活発になっていた。
そもそもサッカーなどは、プロとアマを分ける考え方はない。テニスも人気を支え、普及の力となっているのはプロの選手たちなのである。
まずテニスが次のソウルでプロ解禁となりそうだった。
私は「猪木vsルスカ戦」から距離の近くなった、日大OB、レスリング協会NO.2のT.F.さんの事務所を訪問した。」
「テニスが五輪でプロ出場を容認、という動きのようですね。だったら、レスリングもいけるんじゃないですか?」
「そうだねぇ。川は流れ出したら止めるのは容易ではないからね。レスリングも今度の国際連盟の理事会で議題になるはずだ。しかし、誰か候補がいるのかな?」
「アマチュアで実績があって、プロで活動している選手ですね」
「君は谷津の事を言ってるんだな?」
「そうです」
「しかし、どっぷりプロとなっているんだ。あえてリスキーな挑戦をするかな? 五輪のオープン化が議論されている今、挑戦して勝てば面白いけどね」
「では本人の気持ちを訊いてみましょう」
私は早速、世田谷にあった、谷津宅を訪問した。この時は、長州ともども新日本を退団して、ジャパンプロレスの所属となっていた。中心選手で経営の柱も支えていた。ちょうどオフでごろごろしているところだった。
「五輪のオープン化が今話題になっているんだけど、どう思う?」
「そうねぇ、プロで人気がある選手が五輪に出れば、テレビの視聴率に跳ね返るでしょう。選手についているスポンサーだって、メリットありますよね。でも、プロとしてアマに負けたらどうする、というリスクもあるでしょう」
「もしもだよ……国際レスリング連盟がオープン化へ踏み切ったら、どうする? もう一度五輪を目指したいと思うかな?」
「何言ってるんですか。アマチュアのマットは神聖なものなんですよ。プロが汚れているとは言わないけれど、土足で上がるようなものですよ」
しかし、言葉ではそう言いながら、何か"答え"を探っているような表情に見えた。”幻のモスクワ代表"の悔しさは。そう簡単に忘れることはできないだろう。
この直後に、国際レスリング連盟の理事会があった。日本からは、S.S.会長が出席した。「議題になるはずだ。経過と結果を知らせますよ」と言ってくれた。
約束通り、S会長から国際電話があった。
「五輪への道がオープンにはならなかった。しかし、日本がそういう"案件”を抱えているなら、反対する理由はない、というのが会長(エル・セガン=2011年に95歳で他界)の方針表明だった」とS会長。
要するに、日本国内で、プロとアマチュアが公式戦を行っても良い、ということだ。一部オープン化である。これで谷津は、その意思があれば、ロサンゼルス五輪代表選考会を兼ねる、日本選手権に出場することが可能になった。
【谷津が全日本復帰‼】
世田谷の谷津宅で、主人公と向かい合った。
「全日本へ出場できる道ができた。国際連盟の方針が出た。さて?」
「俺は今すぐ出たって負けるわけないでしょ」
「じゃ、谷津復帰出場で書いても良いかな? 後でいろいろ問題が出てきたら、取り止めもあるし」
「だったら、良いですよ。プロレスの盛り上げにもなりそうだから、復帰の路線で行きましょうか?」
特ダネである。もちろん、Tokyo Sportsの一面を飾った。さあ大変なことになった。まずはアマチュア・レスリング界の知り合いの理事から探りが入った。
「谷津は本当にやる気なのかね? プロレスに利用されちゃかなわんからな」
お次は谷津の所属する、ジャパンプロレスの幹部からの電話は強烈だった。
「プロレスをただで利用するつもりか‼ 負けでもしたら、どう責任を取ってくれんだ‼ え~ッ‼」
反社ではないが、知らない人が聞いたら、110番したくなるようなボリュウームとトーンであった。レスリング協会No.2のT.F.氏と谷津のアマチュア練習を見に行った時も、ジャパンプロレスの幹部に張り込まれていて、怒声を浴びた。
乱暴な企画取材をさんざんやって来た私だが、反社まがいの"口撃"には閉口した。自宅で家族との、たまの夕食……容赦なく、電話を鳴らされた。それだけ、大きな事だったのかもしれないが。
谷津は1986年の全日本選手権、フリー130kg級にエントリーした。協会は国際連盟に打診をしたようだったが、理事会で打ち出した方針通り、"日本の課題は日本で判断"で、S会長はその方向の立場を取った。要するに、谷津が出場したいなら、その門を開いている、ということである。
NHKの夜7時のニュースで、"日本のアマチュア。レスリングがオープン化"と。私の書いたニュースを、NHKが後追いして、報じてくれたのであった。これほど痛快なことはなかった。
この頃、我が新聞の売れ行きに陰りが見え始めていた。新聞も雑誌も紙離れが始まり出した時期でもあったのかもしれないが、編集部の空気も淀みだしたような気もする。他紙を圧倒するようなニュースを抜いて、サラリーマンの購買意欲を煽る紙面づくりを怠った、いや、ご機嫌取りがまかり通るようでは、何をかいわんや。マスコミに限らず、サラリーマンの世界では珍しいことではない。
ニュースを抜く感覚、社外に人脈を持っている人材が次々とスカウトされていなくなった。巨人担当の名物記者、スポニチに移って編集局長になったM.M.、中日新聞へ移って編集局長、ドラゴンズの球団代表も務めたM.N.などなど……。
私はTokyo Sportsの黄金時代に少なからず貢献した、と自負していた。だから、編集部に漂い始めた"ご注進イズム"に染まるつもりはなかった。プライドがある。私はマイペースでネタを追っていたが、社内の誰かが私の行動をマークしていたようだった。私は見張られていたのである。なんて会社だ。
1986年6月27日からレスリング全日本選手権が始まった。駒沢体育館。注目は"プロレスラー"谷津である。フリー130kg級にエントリーしていた。「一体どんな技で勝つんだろう?」「バックドロップなんてありかな?」。そこそこの観客が入った。報道カメラマンの数も目立って多かった。
「プロレスラーを出場させるなんて、若いやつは何考えてるんだ」
協会の古参理事は不満をあらわにしていた。
試合前、日本体育大学のコーチが私の所に来て、言った。
「あのさぁ~、プロレスの試合じゃないんだぜ。うちの選手は重いから、知らんぜ」
最初の相手は日本体育大学のI.A.だった。確かに重そうだった。しかし、試合が始まると谷津のスピードが勝り、あっという間にバックを取って、ポイントを重ねて楽勝だった。「何だ、バックドロップとかなかったね」と観客席から、そんな声も聞かれた。マットサイドのカメラマンの数が目立った。ある意味、谷津の出場を認めたことで大会的には成功したのだ。
谷津はあと一つ、あと一つ勝てば、雑音をはね返して、通算六度目の日本最強の座に着く。
決勝の相手は、山梨県スポーツ協会のM.S.。谷津のスピードはやはり勝って、手堅くポイントを取って判定勝ちした。やったぜ‼ 本音では負けなくて良かった、である。万万が一、負けでもしたら、居場所が無いと思っていた。マットから引き揚げてきた谷津に近寄って、声をかけた。
「お疲れさん。良かった」
「疲れましたよ。みんな重いから」
谷津もほっとしたようだった。フラッシュが光っていた。私とのツーショットを狙っているカメラも少なくなかった。事実、この後に出た写真週刊誌に、"仕掛け人"と紹介されていた。いいよ、いいよ、勝ったから。
会社に戻って原稿を書いた。もちろん、大きなスペースを割いた。「本誌既報の通り」もうたって、谷津の偉業を称えた。一部では、「谷津は勝ちましたが、大技は出なかったようです」などと、馬鹿な事を言っている者もいた。相手にするレベルではない。Sデスクは、社長の所へ報告に行き、"祝い金"を持ってきた。「少ないけど、谷津に渡そう」と。
【谷津の直談判】
谷津がアマのマットに復帰して、見事六度目の王座に着いた。それから3ヵ月後にソウルでアジア大会が開幕した。九月下旬、谷津の姿はレスリング会場にあった。
アジア大会は五輪のテスト版である。IOC、各競技の国際連盟理事以上が視察を兼ねてひな壇に座る。レスリング会場には国際連盟会長のエル・セガン会長もいた。
谷津は記者席の私の所にやって来て、言った。
「これから勝負しに行きますから、証人になってくれませんか?」
勝負とは? 尋常でない話である。
「一体、何をしようと言うんだ?」
「せっかく、あのひな壇にエル・セガンがいるんですから、仁義を切ってきますよ」
この頃の警備は緩いものだったので、谷津と私は簡単に貴賓席に接近できた。ここから、私が先陣を切って、エル・セガン会長に言葉を振った。
「Tokyo Sports Pressです。今年の全日本にプロレスラーで復帰出場して、六度目の優勝した谷津嘉章を連れてきました」
「そうか。報告を受けている。よくやったな」とエル・セガン会長は谷津を招いて、手を握った。
「国内は出られるようになりました。次はやっぱり五輪に出たいと思ってます」
「もう、アマだプロだという時代ではなくなった。一番強い者が金メダルを取るんだ」とエル・セガン会長。
「ありがとうございます。頑張ります」と谷津。
国際レスリング連盟も、そもそもプロとアマを線引きする規約は無かった。五輪の舞台がオープン化に流れれば、自然に……。
1988年する五輪、1992年バルセロナ五輪……プロ出場の道はどんどん明確になっていった。
【谷津おまけの話】
ジャパンプロレはそう長続きしなかった。選手と経営の二刀流は簡単なものではない。谷津は全日本プロレスのマットに上がって、ジャンボ・鶴田と"五輪コンビ"を組んで、ファンを沸かせた。
その後、弱小団体で、またしても、運営と中心選手の二刀流の道へ踏み込んだ。これが一番大変なのだ。興行には"売り"と"手打ち"の二つがある。前者はイベントをやりたい人が、その団体のone nightを買い取る。団体はギャラを受け取って試合をする。話題を呼べば、"お代わり"がある。後者はすべて団体でイベントを仕切る。チケットが売れなければ赤字。だから、あらかじめ、支援者のような人たちにサポートをお願いする。しかし、そのサポーターも時々、"良い思い"が無ければ、長続きしない。
2011年頃か、谷津はなかなか"良い思い"ができなかったのだろう。引退して、高田の馬場に"鳥専門の居酒屋"壱鉄を開いた。開店当初は連日満員。独特の調理法で、鳥刺しとか美味なる物を提供して、話題になった。
私が訪ねたのは2013年くらいだったか。Tokyo Sports Pressの後輩と、家族と二回ほど訪問した。昔話にも花を咲かせることができた。酒も料理も美味しかった。
三回目だったか、台風が来そうな悪天候をついて、知り合いを連れて高田の馬場の谷津の店に向かった。ン⁉ 確かここだった、と見覚えのあるビルに着いた。壱鉄。あれッ!? 台風で休んじゃったのか? 店にはシャッターが下りていた。そして、閉店・お詫びの張り紙があった。またか!? 谷津は飽きっぽいところがある。リングに未練が残っていたのか、マットに戻ったようだった。
確か、社会人プロレスだったか。スポーツ新聞の片隅に時々、谷津の名前を見ることはあった。"ああ、まだ現役でやっているんだな"と受け止める程度であった。
2019年の秋――ある日、知り合いから、「谷津が緊急入院して手術したらしいです」と連絡をもらった。えッ!? なんで!? レスラーは裸で試合する。傷を作りながら戦ったりで、破傷風などの可能性がないでもなかった。
知り合いに情報を流してもらった、入院しているという栃木の病院を訪ねた。谷津はリハビリ病棟にいた。
受付の案内通りに進むと、廊下で松葉杖姿の谷津を発見した。
「よぉ~元気そうじゃないですか?」
「おッSさんじゃありませか。こんな遠くへ来てくれたんですか」
三年ぶりに会う谷津は、少し瘦せていた。右膝の下が無かった。手術、入院で筋肉も落ちて当然だ。
「一体どうしちゃったの?」
「それがねぇ、元々、遺伝で糖尿病を持っていたんですよ。それが疲れとかが蓄積して、悪化したようです。一ヵ月くらい前から試合後に右膝が痛くて。それがすぐ我慢しきれないものになって、病院へ行ったんです。そしたら、すぐ切りましょうと言われて」
「えッ!? 考える時間もなく?」
「そうなんですよ、時間を置けば膝上もダメになると……仕方なく決断でした。それでねぇ、レスラーだから部分麻酔でいきましょうと」
「えッ!? 足の切断で部分麻酔?」
「そうなんですよ。手術中、のこぎりの音がゴリゴリ。肉の焦げる匂いがしたり、参りました」
「そりゃ、そうだろ」
――多分に強がりも入っていただろうが、こんな時、それも大事だ。精力的にリハビリ取り組んでいたようだった。
谷津は今、義足のレスラーとして活動している。彼がリングに上がることによって、多くのハンディキャッパーに勇気を与えている。最強のレスラーは健在だ。
「江古田の鳥忠で飲みましょうか」
「いいですねぇ、良い響きです」
見舞いの時、別れ際にこんなやり取りをした。
今年こそ、と思っているが、まだ実現していない。
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