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プロレス、サッカー、アジア大会……お隣の韓国へは何度も取材に行った。"独裁大統領"の戒厳令下では、危険を感じたことも何度かあった。今やアジアの観光スポットの一つである韓国の知られざる一面である。

――by Drifter(Koji Shiraishi) Tokyo Sports Press NewsPaperに約20年在籍した。海外取材としては、韓国が一番多かった。今、取材メモをめくってみることにしよう。

【戒厳令下のプロレス】

「お客さん、これ八百長です‼ 大熊が約束を破った‼ セメント‼ セメント‼」 
 1965年(昭和40年)11月28日、蚕室(チャムシル)体育館。満員の会場に、"異声"が響き渡った。お客さんの表情に「?」が浮かんだ。
 韓国ヘビー級王者の張永哲(チョー・ヨンチョル)は日本の大熊元司の挑戦を受けて、戦っていたが大苦戦。張の言い分は「大熊が約束通りやらない」であったようだ。さらに試合後、大熊を何人かでリンチにするというおまけまでついた。これで燃え上がっていた韓国のプロレス人気は、一気に下降線をたどることになった。私見と断って述べれば、民族的に熱しやすくて冷めやすい。また、「スポーツに八百長はだめだ」の感覚もある。
 プロレスの試合は鍛え上げた肉体をぶつけて、お互いのすごみを引き立て合うエンタテイメントである。八百長か、というと一概には言い切れない。互いにリスペクトしているからこそ、成立するし、観客の望んでいるスリルと興奮が提供される。
 張と大熊の間には、そうした要素が欠けていたのではないだろうか。

【反日感情にご用心】

 70年前半だったか、大韓プロレスを率いる大木金太郎は韓国のプロレスの再興を目指して、ソウルを中心にシリーズを打ったことがあった。私は取材に招待された。ソウル、仁川(インチョン)、大邱(テグ)と大木の後を追った。
 その一日。ソウルの宿舎、文化ホテル(文化放送系列=今は無い)に泊まり、ホテル関連のタクシーをチャーターして、仁川の試合を取材して戻った。街中の空車でも行くのだろうが、走り出して、日本人と分かると、降ろされたことが2、3度あった。反日感情である。ソウル→仁川の道中で降ろされたら、アウトだ。
 片道1時間。試合は夜9時前に終わって、一時間でソウルへ戻って10時過ぎ。食べて軽く飲んで、12時の戒厳令となった。観光客はパスポートを持って、行先が明白であればOKとの情報もあったが、日本語の釈明がどこまで通用するやら。出ない方が無難であろう。

 昼間、ぶらぶらしていても気が抜けなかった。間違いなく尾行があった。さりげなく付いてくる場合、堂々と声をかけてきて、「お茶でも飲みましょうか?」と。たまに、年端のいかない子どもが、「街を案内しますよ」と言って、付きまとうこともあった。子どもに気の利いた観光案内は無理。ジュースをご馳走して、早めにお引き取り願った。

 原稿送りにも神経を使った。急がない物は、封筒に入れて"原稿"と明記して空港から飛行機便に乗せた。しかし、これも一度南山(ナムサン)のKCIA本部に持ち込まれて検閲を受けた。印があった。写真はAP、UPIの支局へ持ち込んで紙焼きにしてもらって、電送となった。これにしても、一度南山を経由して、検閲を受けたようだった。
 では生のフィルムは到底無理? これには抜け道があった。空港で”候補者”を探した。話の分かりそうな観光客(日本人)をつかまえてアルバイトを頼んだ。名刺を渡し、わけを話した。
「羽田でTokyo Sportsの人間が待っているので渡してくれませんか。ギャラは払います」
 90パーセント強でOKだった。
 部屋の電話では、原稿の読み上げはできなかった。本社に毎日、連絡の電話を入れるのだが、1分くらいでトーンが落ちた。盗聴は明かだった。原稿の読み上げはできただろうが、ほとんど観光ビザで入っているで、万が一、咎められれば、言われ放題の上に、身柄はどうなることやら。
 夜中にも部屋の電話が鳴った。東京の新聞社の人間であることは、とっくに調べがついているだろうから、「戒厳令で、おとなしく部屋にいるだろうな」ということだろう。
 ホテルの男性スタッフも、どういう役割なのか、要注意だった。
「お酒の相手はいかがですか? 呼びますか?」
 迂闊な行動は報告されるはずだから、弱みを握られないために、慎重、控え目がベターであった。

 知り合いの、コーディネートを頼りにしているSさんに"尾行"などの事を話すと、
「木っ端役人なんかほっておきましょう」と一蹴していた。そんなものか。

【同胞にも〆られる?】

 韓国のプロレスの招待取材は、私の他、プロレス・マスコミ他社もいた。新聞ではD SportsのY.Iさん、雑誌では月間PのH.Fさん、週間GのM.T.さんといったメンバーだった。
 この人たちはプロレス・オンリーの取材なので、同じようなスケジュールで行動していたようだった。私は韓国のサッカー、バスケットにも興味があったので、知り合いのS.さんに相談してあれこれ取材していた。日本が国際的な大会に出ようとした時、まずアジア予選があって、韓国は一つの高いハードルであった。だから、ライバル国、目標国の状態を知っておく必要があったのだ。
 サッカーでは高麗大学で頭角を現しつつあった、FWの車範根(チャ・ブンクン)のインタビューも。車は代表チームのエース、後に代表監督にもなっている。
 私は"韓国時間"を有効に使って、歩き回った。時として、メンバーの集まっている夕食の時間に遅れた。あれこれ言い訳しながら、席に着くと、
「粋がって取材してんじゃねえよ‼ 先輩を待たせて、え~‼」ときた。
 発言の主は派遣団の長老、D SportsのI.さん。こちらも素直に謝ったので、収まったが、少々面白くなさそうに酒を飲んでいる感じだった。
 難しい場面だ。元々、韓国のプロレスを取材して日本のファンに伝えるために招待を受けた。暇な時間はぶらぶらしていても、文句を言われるわけではない。しかし、同じ韓国にいて、他社が何かのニュースを抜いたとなると、「うちの特派員は何をしているんだ?」となる。だから、年長の記者からすれば、「粋がって取材してるんじゃねぇよ」「余計な事するんじゃねぇよ」となったわけである。
 後で分かったことだが、I.さんは独特のキャラクターだったようだ。韓国でモテ過ぎて、重婚騒動が起きたことがあったとか。日本に家庭があったのがばれた。また、D Sportsは女子プロレス報道に力を入れていたが、団体のスター選手と噂になったこともあった。お近づきにならなくて良かったのである。

【韓国社会は人脈とコネの世界】

 あらかじめ、私見を含むとお断りして話を進める。韓国は学歴社会である。"チマチョゴリの風"の諺もあるように、秋から猛烈な受験戦争が始まる。母親が子どもを連れて動き回るから、風が起こる。
 というのも、韓国社会で政治・経済・法律などのジャンルで中枢へのし上がって行こうとするなら、国立のソウル大学、日本の早稲田に例えられる高麗大学、同慶応の延世大学……この三つでほぼ決まり。当然、コネを作りやすいし、見つけやすい。同期、先輩、後輩が政治、経済、マスコミ、警察……どこかにいるのである。だから、韓国の大統領周辺には利権が集まり、退陣後に事件化されて裁かれるケースが繰り返されているのだ。

【アントニオ・猪木vs大木金太郎 死闘 in ソウル】

 75年(昭和50年)3月27日、ソウル蚕室(チャムシル)体育館。猪木は大木のインターナショナル王座に挑戦したが、両者リングアウトで引き分け。大木の防衛は成った。8割がた埋まった観客席は、そこそこ沸いた。"韓国の英雄"大木の人気はまだ捨てたものではなかった。
 そして、観客席上段のひな壇席には、当時の朴大統領がいた。肝入りの試合だったようだ。道理で、一階の観客席後方の空間にはそこここに、胸のあたりが膨らんだ黒服が目についた。猪木と大木が乱戦になりかけた時、興奮した一人の観客が口から泡を飛ばしながら、リングサイドへ駆け寄ろうとした。あっという間に黒服が集まり、その男を後方へ連れ去ると、トイレへ押し込んだ。何度か鈍い音を聞いた。〆られたか……。
 

【逃亡犯との一夜】

 猪木vs大木戦の取材後、清心洞(チョンジンドン)のソウル観光ホテル(今は無い)へ戻った。試合は9時過ぎに終わった。12時の戒厳令がある。ぐずぐずはできない。10時過ぎ、フロントでルームキーを受け取っていると、ちょっと目の鋭い、肩幅が少し広くて、粋な感じの男性が近づいて来た。
「お兄さん、仕事帰り?」
「今、プロレスの試合を取材して戻ったところです」
「ブン屋さんかい。もう時間も少ないかも知れんが、この近くで飲める所ないかね?」
 私は以前、大木金太郎に招待された割烹が近くにあるのを思い出した。
「近い所に知っている所がありますけど……」
「あッ、そう‼ 頼むよ、連れて行って。払いは任せといて。あッ、私はI.T.です。よろしく」
 タコの踊り食いとか、海鮮が売り物の割烹だった。ホテルから歩いて5分。着いた時は11時を少し回っていた。
「時間が無いけど、飲ませてもらえますか?」
「アンジュセヨ」
 チマチョゴリの仲居さんに案内されて、座敷に入って座った。
「お兄さん、ブン屋だって言ったよね。書かないでね」
「えッ!? 何をですか?」
「実はね、私は北九州のK組に関係しているんだけど、日本である事があって、出頭しなければいけないんだけど、その前にこっちで遊ばせてもらってんだ。勘定はこの通り、幾らでも」
 T.さんはごそっと札束を出した。
「いやいや、そんなに見せちゃいけませんよ」
「ねぇさんたち、ちゃんと払うから、嘘だけはアカンよ」
 Tさんは"素人"ではなかった。しかし、こちらも怖いとも思わず、一緒に飲んで食べて、鐘・太鼓。12時ちょっと前、慌てて切り上げて、ホテルへ走って帰った。勘定は二人で10万円強だったようだ。当時としては、結構な御大尽遊びになった。
「もうちょい、どうですか? 部屋でやりましょう」
 T.さんのリクエスト。断れない。部屋で"出前"を頼んだ。スコッチ、ステーキ……。
「良かった。しばらく自由が無くなるから、最後のどんちゃん。サンキュー‼」
 日本で何があったのか? "別荘”行きは確かなようで、それも長めになるようだった。この夜の立ち振る舞いから、義理が立つ・立たないの、本筋案件で間違いなさそうだった。
 飲んで、食べて、聞いて、しゃべった。空が白みかけてきたところで、お開きになった。
「何か困った事があったら、連絡ください」
 九州へ行くこともあるし、プロレスの取材では摩擦の起きる時もある。実力者の知り合いは心強いじゃないか。

【Y組の戦闘隊長がいた】

 猪木Vs大木戦の後、不思議な体験をしたせいか、8時頃に目覚めた。アルコールが少し残っていたが、猪木を取材するために、コーヒーを飲んでホテルを出た。猪木一行は当時としては韓国一のロッテ・ホテルに泊まっていた。清心洞からタクシーで20分ほどだった。
 ロビーに入ると、中央の喫茶スペースで一行は歓談していた。総勢10人くらいだったか。
「Tokyo Sportsさん‼ こっち‼ こっち‼」
 渉外部長のH.S.さんが大声と手招きで私を呼んだ。小走りに近づくと、
「お疲れさん‼」と猪木の声が飛んできた。
 そしてS.さん、間髪を入れずに、
「紹介しときますよ。今回も大変世話になったYanagawaさん」
 テレビや雑誌で見覚えおある、関西Y組の重鎮である。
「初めまして」
 私は名刺を出して"仁義"を切った。
「先生、この人はTokyo Sportsの若手No.1のShiraishiさん」
「いやいや、ご苦労様でした。試合も良かったし、新聞も売れるでしょう」
 白髪が少し混じったスポーツ刈り。金縁の薄めのサングラス。がしっとした体つき。凄い貫禄が漂っていた。
「ありがとうございました」
「まぁ、よろしく、何か困った事があったら、何でも言ってください」
 未明にも同じフレーズを聞いた。
 Yanagawaさんも名刺を出してくれた。Yanagawa Jirou。韓国名はYam Uonsokuとあった。昨夜も本物だったが、今日は本物で大物、泣く子も黙るY組の戦闘隊長と言われた人であった。
 実は朴大統領はプロレスの大ファンで、大木の支援者。国民のガス抜きのメニューの一つとして、プロレス・イベント開催の協力をY.さんに仰いだ、ということのようだった。
 Y.さんは別件でも韓国に力を注いでたようだった。Mitsubishiを動かして、ソウル⇔釜山(プサン)を結ぶ高速道路、ソウル市内の地下鉄建設に縁の下の力持ちになったという話もあった。もちろん、政治家も動いたはずである。Yanagawaさんとは、これが最初で最後だった。1991年12月12日に他界されている。

――何だか浮世離れした二日間だったような気がする。

【韓国大使館に拉致!?】

 86年の8月上旬、私とT.H.カメラマンは港区南麻布の韓国大使館にいた。ソウル・アジア大会を控え、早めに.選手村に潜入して話題となっている選手の前取材をやろうと考えていた。やはり連日、○○特派員発の原稿で紙面を
飾るわけだから、報道ビザを押さえておくべきだろう。しかし、戦争状態が継続されている朝鮮半島で"取材ビザ"という響きは、デリケートな感じがしないでもない。
 行くだけ行ってみるか。韓国大使館に連絡すると、「ともかく企画書を持って来てくれ‼」とちょっと高飛車な対応であった。
 少々不安な気持ちなったが、企画書ぐらいなんてことはない。選手村に入って選手のインタビュー、選手村での食事など10項目くらい書き出して、持って行った。
 受け付けで来訪の中身と担当の人の名前を告げると、少し待たされて、体格の良い、目つきの鋭い男性が出てきて、「こっちへ」と。お愛想なんて微塵もない。部屋に入ると、入り口の重そうな扉……よく銀行の金庫室に出てきそうな分厚いやつ……を締めた。いや、締められた感じだった。おい、おい、まさか帰れなくなるわけじゃないだろうな。
 椅子に座るように促され、矢継ぎ早に質問された。まるで取り調べのようである。
「選手村で、とあるが、大会を控えて取材は受けつけていない。一体、どうするつもりだ?」
「私の知り合いがいます。KG新聞の元運動部長で、T.S.さんという人がコーディネートしてくれることになっているんです」
「だから、もう誰だろうと、時期的に部外者は選手村に入れないんだよ」
 押し問答が20分も続いたろうか、先方がニュアンスを変えてきた。
「もっとも、取材を断っているわけじゃないんだ。オリンピックの前哨戦だし、日本にも記事を書いてもらいたいんだよ。そこで、食事でもしながら、もう少し詳しい打ち合わせをしようじゃないか。希望通り、ビザは発行してあげるから……」
 要するに、魚心に水心……ってやつだった。私の出した知り合いの名前もひょっとすると、調べ出したのかもしれない。実はこの私のコーディネーター、79年10月26日、朴正熈大統領がKCIA部長、金載圭によって射殺されたが、この時一緒に射殺された車智澈と同窓生だったのである。
 もう時効だろうが、事件後、S.さんに24時間の尾行が付いたという話だった。身の危険を感じたS.さんはしばらく身を隠していたそうだ。日本から連絡をが取れなくなった"期間”があったことは確かだ。

 S.さんは我々には見えないパイプを持っていた。韓国の取材が決まると、私は必ずこの人を頼った。これができたら面白いけど……と言うと、
「大丈夫だから、すぐ来られたらどうですか?」
 いつもあっさりと言われたものだった。空振りは一度もなく、+アルファが何度もあった。前述のように、大木のプロレスの顧問的な立ち位置にもいたのである。

 手強い韓国大使館員。私とHカメラマンは、その場から早く逃れるために、笑顔を作りながら、大使館員と杯を交わした。麻布の割烹で。大使館員は次第に上機嫌になり、
「時々、情報交換を兼ねて一杯やりましょうよ」と。
「それは良いですね。願ってもない」
 心にも無い事を言って、切り上げに成功した。二度と御免だ‼ と思った。しかし、Hカメラマンの所には後日、その大使館員から電話が入って、再び杯を交えた、ことを聞いた。なんてこった。
 選手村での事前取材はスムーズにいった。アーチェリーとか、ハードルとか、今ならすぐアイドル扱いしそうな"美形"を集めた。寮長も出迎えてくれて、選手村の食事情も取材できた。韓国選手団のエネルギー源として、面白い記事を書くことができた。
 他社からは、
「一体、どんな手を使って潜り込んだんだ」と。
 しかし、ネタ元をばらすわけにはいかなかった。

【ソウル・アジア大会でテロは起きた】

 86年9月20日、ソウル・オリンピックの前哨戦、アジア競技大会は開幕した。その前日、私は早朝より、マラソン・コースを"体験取材"していた。生で走るなんてできないので、ロードバイクを借りて、要所要所を調べる、というもの。”金メダル候補の中山竹通に徹底アドバイス"なる企画だった。
 この企画のために、自転車協会から中野浩一さんの日の丸入りのヘルメット、ユニフォームを借りた。S.さんに駐車橙を点けながら、車で先導してもらった。誰が見ても、アジア大会に出る選手が練習をしている、絵であった。
 42.195kmは自転車でも楽ではなかった。大汗をかいたので宿舎に戻ってシャワーを浴びて、11時くらいにプレス・ルームに顔を出した。
 マラソン・コースの体験取材は、他社を出し抜くための企画。悟られてはいけないので、できるだけ冷静を装って、席に着いた。
 H新聞のY.Y.記者が近づいて来た。スポーツ新聞系では唯一の東京大学出身の変わり種。
「忙しいですか? 時間があったら、付き合いませんか?」
 小声だった。何かありそうだった。
「いいですよ。どこかへ行くんですか?」
「タクシーをつかまえましょう。今のうちかもしれません」
 ただ事ではない何かが起こったのか?
「東京から連絡をもらったんですが、金浦空港で爆発があったらしいんです」
「えッ!?」
 空港が近づくと、警察官が目立ってきた。まだ封鎖されていなかったので、ターミナルビルに乗りつけてしまった。入り口近くには血が飛び散ってティッシュ・ペーパーも散乱していた。まだ"dont cross”テープも張られていなかったので、手持ちのカメラで生々しい現場を撮りまくった。ようやく警察官がガードに入ってきた。
「プレスだ」
「だめだ、離れてくれ」
 我々は市内へ帰るタクシーに乗った。封鎖が始まっていた。
 プレス・ルームに戻って、会社に連絡した。
「写真もあるのか、原稿を頼む」
 私はS.さんに電話を入れた。
「ほ~、そんな事があったんですか。ちょっと聞いてみましょう」
 S.さんは、それほど驚いた風でもなかった。5分ほどでリターンが来た。
「爆発前、夫婦者がラーメンを食べていたという話があるそうです。しかし、この人たちが何者なのか……爆薬はコンポジション4だそうです」
 コンポジション4は米軍使用で知られる。ということは、韓国軍も。アジア大会の開幕前日のテロは、真っ先に北の蛮行、その次に、使用された爆薬から、南の"自作自演"がささやかれた。
 死者5名、29名の負傷者。さすがに、Tokyo Sports流に料理するわけにはいかなかった。写真にしても、蛮行を物語るものにはなっていなかった。現場は見た目は凶行直後の生々しいものだったが、写真になると雑然とした風景にしか写らなかった。
「この件はあまり深入りしない方がよさそうです」
 S.さんはいつになく、冷めた感じだった。国の各方面にパイプを持っていそうな人のコメントだけに、何か裏があるのかもしれないと思ってしまった。
 またいつ何時……オリンピックの前哨戦、アジア大会はもやもやと緊張感を抱えて開幕した。マラソンの中山竹通は私の体を張った"徹底アドバイス"もあって? 期待通り、金メダルを獲得した。
 
――後日、東ドイツである報告書が出てきた。ソウル・アジア大会の爆弾テロについてである。それには北の国が韓国のオリンピック開催を阻止するため、中東のオサマ・ビンラディン系のテロ組織、アブー・ニダールというグループに500万ドルで依頼した、とあったそうだ。ビンラディンは米国の支援を受けて仕事をしていた時期もある。爆薬のコンポジション4も辻褄があう。


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