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自由と平等の強制

こんばんは、Dr FJです。
今日は、私が普段感じているなんとなくの息苦しさについて書きたいと思います。

 最近いろんなことが自由であるべきだという話をよく聞きます。性別についてもLGBTQを認めていこうという話がありますし、食事についてもヴィーガンなど、これまでいわゆる"普通"とされてきたこと以外の選択肢を排除しないという動きがあります。子供の教育などについてもこれまでは『君たちはこれを学ぶんだ!!』と頭ごなしに学ぶことを強いられて来たわけですが、これが『何でも自分の興味があることは大事にしていきましょう。ただ、こっちも大事だから学校の勉強もしてね』くらいな感じになっています。そもそも、学校に時間どおりに登校して下校することすら『できないなら少しずつできる範囲でやろうね』となっていますからね。簡単に言えば、何かやらなければいけない義務というものの多くが努力義務のようになり、"普通にやること"以外の考えを周囲の人間が、社会が受け入れて応援することが求められるようになりました。

 こんな自由と平等を重視する価値観が市民権を得てきている現代社会なんですが、実は私は逆にこういう社会に生きづらさを感じてしまいます。というのは、本質的には世の中は自由で平等なんかじゃ全くないことを知っていて、こういう考えが絵空事のように感じてしまうのです。

 例えば誰でも自由に職業を選ぶ、職業選択の自由なんてものがありますが、実際にはそれに見合う能力がなければなりたいものにはなれません。医者になるなら医学部に入れるくらい勉強ができないといけないし、サッカーでワールドカップに出たければ、何万人に一人の才能を持って生まれ、適切な環境でトレーニングを受けなければ無理です。資産形成についても、投資手法の一つとして不動産投資をやりたくても親からの遺産や自分の与信や資産がなければできないし、そもそもうまくやる能力と適切な知識を得る環境がなければ成功はおぼつかないでしょう。まぁ、結局誰もがやろうと思えばできるなんてことはないし、今あるポジションには残念ながら高低差がある時点で平等ではないのです。

 …なんてことを考えてしまうのですが、残念ながらこういった意見を大声で発表することは世間的にはタブーとされています。こんなことを言っていたら間違いなく老害扱いされますし、twitterなんかで発信しようものならリベラル界隈からの攻撃がダース単位で飛んできそうです。『やる気さえあればキミにもできる』『誰にでも夢を見る権利はある』『いつから始めたって遅くない』…。こういう話に水を指すのは社会の中で空気が読めてない感が出てしまい、非常に言いづらいですね。

 ただ、現実問題としてはこれは真実ではないので、こういった誤った話をもとに人生を進めてしまうと残念な結末を迎えてしまいますよね。現状では他者に対して自分の考えを強いることはしませんが、少なくとも自分の子供達と周囲の気心がしれた人たちに対しては、こういった現実を示してその中でどう生き抜いていくのかという話ができたらいいなと思います。

 にしても…自由と平等を推し進める人たち自体が、それと違った意見に対しては全く自由に発言することを許さず、それを言う人たちに対しては何を言っても良いというような差別的な扱いをするという一部の過激派リベラルの方々には勘弁してもらいたいですね。率直に感じたことや思ったことを言ってはいけない、表現してはいけないというポリコレの興隆を見るにつけ、真の自由とは何か、平等とは何かを深く考えさせられます。

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