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全員に適用される真理なんてないよ

 こんばんは、Dr FJです。
今日は、TwitterなどのSNSや討論番組などで見られる議論がなぜ平行線を辿ってしまうのか、答えが出ないのかについて私が思うことを書いてみようと思います。

 議論というのは、意見が違う複数の人間がお互いに正しいと考えている意見を主張しあうことです。古代ギリシャや中国といった何千年も前から行われていることであり、昨今ではSNSやネット上などでも盛んに行われています。活発な議論をされる西村ひろゆきさんなんかもその流れで論破王なんて呼ばれたりしていて、議論は視聴者が楽しむコンテンツとしてもいまだに健在です。また、こういった娯楽的な側面だけでなく、もちろん我々国民が国家を運営していく上で非常に大切にしている国会でも与野党の討論は行われており、まぁ全く同じ意見だということはありえない人同士が群れをなして生きていく以上、これは永遠になくならないものでしょう。ただ、不思議なことに議論は論理的な人間同士が相手の言うことにしっかり耳を傾けても、一つの答えにたどり着くことはなかなかありません。お互いに相手の言い分をよく聞こう、わかり合おうと本気で考えていてもです。これはなぜなのでしょうか?

 私はこれは、正しいこと=真実=真理があるという前提自体が間違っているからそうなるんだろうなと考えています。正しいことは、前提条件によって変わります。例えば人を殺すことは犯罪であるし倫理的にも悪であるとされていますが、一方で戦争で敵をたくさん殺せばその人は英雄視されますよね。投資などでもどのくらいリスクを冒すのか、目的がなんなのか、どういう立場なのかということによって、当然最適解は変わってきます。現在の状況が恵まれていない人であればある程度のリスクを負った投資行動を取ると思いますし、それは既に持っている人からすれば『危険で無謀な行動』に見えるかもしれません。表題の通り、全員に適用される真理なんてないんです。

 では、そんな中でどうするのが結局正しいのか。私がまず大事だと思うのは、何でも最終的には人のせいにせず自分が責任を取ることです。間違っても投資がうまくいかなかったからって逆恨みでお金を貸してくれた銀行を訴えたりしてはいけない。また、一国民として生きていく以上、最低限法律は守りましょう。法律はみんなが共有しなければならないルールです。そして、人にされて嫌なことは相手にしない、胸を張って人に言えないことはしないことです。もちろんこのあたりの価値観は人によって違うので、あくまで『その人なりに』ではありますし、そうして選んだ結果不幸な結末を迎えることもありますが。こういう最低限のルールを守った上であれば、誰がどんな主張をしていようとも、それはその人の自由なのでそっと見守るのみなのです。そう、たとえはたから見ると残念だなという考え方で生きている人がいても、それはその人の自由。人から見たらありえんなと思うようなクソみたいな神様を信じて破産するほど寄付をする人もいれば、ソクラテスにはならずに満足した豚のままで死んでいきたい人もいるのです。それは人それぞれ。周囲に迷惑をかけない範囲での選択であればそれは尊重していくのが現代なので、間違っても『それは間違っている!!』と法律を超えたルールみたいなもので社会全体でリンチするような誹謗中傷やバッシングはあってはならないものだと思います。

まとめ

  • 議論は古来より行われてきた人の営み。

  • 議論は時にたとえ相手の意見をしっかり聞いて思いやった上でやっても意見が平行線で真理にたどり着かないことがあるが、これは『真理や真実は1つではない』から。

  • それぞれの前提条件によって答えは変わるものなのだから、人に迷惑をかけず、自分で責任が取れる限りにおいてはどんな答えもありうる。

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