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グラースのイメージ

#みんなの文藝春秋
#ゲンロンカフェ

『ニジェールの若い女性が/トラに乗って微笑んでいた/女性とトラが戻ってくると/女性が内側に入り/トラの顔が微笑んだ/
コスモ・モンクハウス五行詩より』

ホー・ツーニェンHo Tzu Nyen〈One or Several Tiger〉太陽のコロナ(王冠)の前を跳ぶトラの解釈は様々で、強さと勇気のシンボル。/「虎よ、夜の森の中で燃えるように輝く虎よ/ウィリアム・ブレイク」
ゲンロン12のテーマ:無料とはなにか?


Social media アップデート

昨日からゲンロン総会が開催中でつぎは会員になって参加したい。

テーマは「反SNS戦争」
どうも無料のSNSからリアル充実にシフトしよう?みたいな、たぶんテーマだと思う。
「今ッごろ?」みたいな感じもするけどバーチャルに満足していたはずの時代はコロナ禍で終わりを告げた。

バーチャルリアリティな質感のゲームソフト。
良くも悪くも生きたコメントは無料でそして、出尽くした感が出てきた。

だけど戦争とはなに?

私はSNSを利用し始めたのが遅かったけれどとくにtwitterは1日だって開けない日はない。

ふと、思うのは
このままいくと人生最期の日もtwitterをやっていたりして。
正直、イーロン・マスクが買収してどのようなメディアになるのか少し期待している。

有料コンテンツがなにか益をもたらすか?私はそれも疑問でやってみたからわかるけどこれは一種の契約だっていう感覚がある。

だけどそれも悪くない。

ところでコロナ禍で私には無料のSNSとそしてできれば、ほぼ無料であることが(自分的には)よしとされるいろんな楽しいことをみつけることができた。
そのぐらいいったいどれほど日々の生活に時間を忙殺されているのかがわかってこわくなったほどだった。

たぶん一生気づかないで終わったかもしれない、知らないで人生を終えてしまう。

それが本当の貧しさではないかと思った。

あふれる薔薇の咲く中でローズティーをのむ幸せ
「All in the goldenafternoon……」
シェードの落とす影の中の薔薇
薔薇の落とす影がすき。
だけど一瞬たりともおなじ瞬間はない。


エレガンスの哲学/Elegant Philosophy

無料のSNSのメディアを自分の趣味や仕事に有効に利用するのは構わない。
もちろん私にもお金をかけたモノもあるし、もとをたどれば完全にタダ(無料)のものはないと思う。


無料のSNSに最初の頃は高級なホテルやレストランでのパーティーの食事や有名人とのツーショット写真などを載せたりした。
セレブな先生のサロンの写真や贅沢なたくさんの高価な花を使ったフラワーアレンジメントのレッスンの内容や貴重な講座の内容などをがんばって載せるのがいいと思っていた。ずっとそれが続けばそれなりにいいと思うけどそういうワケにもいかないし、わりとすぐに自分でも飽きるのでSNSはほとんどやらないでいた。払った金額にたいしてSNSはどこまでも無料だし、もっとゴージャスな内容でもそれが一般人ならやっぱり誰もが無関心に通り過ぎるものだということに薄々気づいてはいた。

そのぐらいインパクトが薄い。

無料のSNSを利用するならできれば投資は¥0に近いほど雄弁で、そこからどのように世界観をつくるか?が私のソーシャルメディアのアップデートの課題になる。

それなりにお金をかけたモノは見栄もいいし、だけどなぜすぐに飽きられるのか?

朝日にとける。まるでアニックグタールの香水
こんな風にたくさんの花を見上げる時間
お気に入りの薔薇と花に囲まれるベンチ❤️でもおなじ瞬間はない。
朝日にとけるこれもベンチのシーン
花弁がはらはら散る中にいる幸せ
プロヴァンスとグラースの街のイメージ


雄弁に物語る無料の美のアーカイブ

「何度も見たい、読みたい」と思わせるパーソナルなレベルで選ばれるメディアにするにはスタートラインは平等であってもわたしにしか表現できない、見つけられないものを提示することだと
ハッキリとわかった時代になった。

私にはガンコに信じていることがあって
「タダ(無料=おもに公共)のものはよくない」という理論はいまや打ち破られた気もする。
だけどこれは無料のSNSにかんしてだけは有効だと思っておこう。
なぜかわからないけど
ここまでくると
貨幣の持つ意味が変化して有料で他者を遮断するのか、無料によって(¥0に近いほど差をつける=競争でもない)遮断するのか?

たとえばあの人はお金を使わないでやる人なのでコスパがどうとか、という話にもならない。比類なき前例がない。
最近そうありたいと真剣に思っている。

たぶん無料FREEについて書く多くの作家が書きたいユートピア論と私の考える楽園とは違うのではないかと思う。
どう考えてもふと、アタマをよぎるのは
結局は社会主義的な方向性への誘導ではないかと感じてしまう。私はきっと永遠北風的反依存なのだろう。

それはたぶん合理的というひと言で片づけられてしまうことだとわかっていても。

「俺の札束、ヤオ・ミン(=NBA選手身長226cm)水準“アイス“を見てみろ
指輪にはめたダイアのデカさ
まるでバスケボール

旧套はぶち破られ、法則がつくりだされた。
ディープな着想
絶妙なブループリント  俺のシワザ
/Party People by FERGIE“the duchess“」

closet freak