快い絶望


若さとは何か?
ここ最近厄介な問いかけばかりをしている。日々、音も立てずに感覚が鈍くなっていくのだけがなんとなくわかり、しかし逃げ出す光は見つからない。あらゆる感覚はナイフのようだ。変化に敏感で新しいものはよく切れて、飽きた途端に錆びていく。自我さえ内包して、研げども研げども元に戻ることはない。あらかた切り終わった後は捨てるしか仕様がない。

二人目の男(あるいは三人目、四人目かもしれない)と矛盾した愛の上にセックスしたその足で、カフェテリアに行きランチを食べている女。インスタグラムでToday's lunch❣️だとか言って、目に写るそれよりさらに大袈裟に加工して、ノロノロモサモサ野菜食ってる女。気持ち悪くて仕方がない。その余裕な感じが、すごく安っぽい。隣に座っている男はコーヒーを音を立ててすすり、音を立ててキーを叩き、音を立ててジャケットを脱いで腕まくりをした。無精髭はさて誰の真似だろうか。説明ばかりだ。1から10まで説明している。わかりやすいものが共感され、いや、わかりやすいものしか共感できないのだろう。なにせ大事なことはいつも周りから自分に向けられるもので、視線、評価、嫉妬、憎悪、好意ばかりを食べている。自分が興味を向けることは必ず食べるために戻ってくるもののみによって与えられている。鈍感に。人と被りたくないのは服装や化粧ばかりで、お揃いのマインドでお揃いの色を見せている。
「不平を訴えることほど、意味がないものはない。頭の中には頭には、やりきれなさを咎めるような痛みばかりが残るのに。」
苦悩に満足した時、僕は立ち止まってみせる。