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【親友回顧録】幸運なり我が人生②

アパートのポストはドアに直接開いた穴で、手紙が投函されれば玄関の三和土にハラリと落ちるようになっていた。

そこにすべり落ちたジヨンからの手紙は、何通あったのだろう。旅先からハガキをくれることも多かったが、異国の香りをそのまま染め付けたような、味のあるハガキを選ぶ人だった。ある時はベルリンから、ある時はパリから、またある時は帰郷したソウルから。何度も何度も手紙をもらった。

わたしもまた、ジヨンに宛てた手紙に書くことを考えながら日常を過ごしていた。すでにスカイプやライン、フェイスブックといった、eメールをも凌駕する技術があるというのに。わたしたちはクラシックな手紙人間だった。

二度目の来日は、ジヨンがオペア留学先のベルリンからソウルへ一時帰国する途中のこと。鎌倉へ行こうと誘い、仏像を目指してコロッケをかじりながら歩いたのだが、おしゃべりに夢中で仏像をきちんと拝んだ記憶がない。「なぜこうも、ウマが合うのだろう」「話題が尽きないね」「好きな人いる?」「男女の友情ってあると思う?」と大学院生がよくもまあ…と周りが呆れそうな話題ばかり。知性のかけらもなく、純粋にペラペラとお喋りを楽しんだ記憶だけが鮮明に残っている。それと、揚げたてコロッケのおいしかったこと。

ある日届いた手紙は、わたしが最後にジヨン宛に送った封筒と同じだった。
戻ってきてしまったのだと思いよくよく眺めると、それは同じレターセットでジヨンが書いた手紙だった。わたしたちは、別のタイミングで別の店で、全く同じデザイナーによる同じ絵柄のレターセットを購入していたのだっ
た。ジヨンもわたしの手紙を受け取った際に困惑し「わたし、もうこの便箋を使ったんだっけ…」と、わたし同様それが戻ってきてしまったと錯覚したらしい。これはわたしたちだけでなく、後にジヨンのお母さんも「What a coincidence…」と驚いたエピソードの一つだ。

数年後、わたしの新しい住所は大阪の豊中へ、ジヨンの新たな住所はドイツのコンスタンツという町へ移った。こちらもまた、印象深い偶然だった。コンスタンツは、ジヨンが暮らし始める数年前にわたしが暮らした町だ。親しい友だちがまだ多くその町に暮している、と紹介するとジヨンは快くその友だちの元へ足を運んだそうで、共通の友だちが何人かできた。

その友だちが共通で語るのが、ジヨンの温和な人柄ともう一つ。
「自分と似ている」ということ。類は友を呼ぶ―――

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