斜陽地域の没落を看取る 精神科専攻医の徒然草3

〇無限の精神力で以て臨むしかない地域の現状
 いくつかの病院で勤務経験のある医師ならわかるように、「地域性」とでも言うのかその地域ごとによって様々な特徴がある。それは産業だったり歴史だったり人柄だったりと様々で、各地域も精一杯PRに励んでいる。
 現在関東圏では医師の供給過多を危惧されているようだが、ほとんどの都道府県においてはやはり医師は慢性的に不足しており、私もそのような慢性的な医師不足の環境で身を粉にして働いているつもりだ(ちなみにR5年度の休日を数えてみると40日/年だった)。どの病院も常に人手不足で喘いでおり、科の閉鎖、病床の縮小はよく聞くところである。
 医師の経験年数としてはたった数年でしかないが、この数年間は世間知らずで理想家だった当時の自分の価値観を大きく変えさせるには十分な期間であったのは間違いない。

〇精神科から見える地域の惨状
 診療科の中でも精神科から見える地域性はまた独特の視点にある。精神科患者というのは現代でも社会的に弱い立場におかれやすく、精神科医はそういった人々の視点を介してその地域というものを見つめることになるのだ。
 地域の病院は誰しもが疲弊しており、人的資源を筆頭に医療・福祉資源がとにかく不足している。各医療従事者が無限の精神力で勤務して何とか体裁を保っているに過ぎないとあえてうそぶいたのは前項の通りである。しかし、かつての大日本帝国や現代の自殺死亡者数が示すように、人間の精神力は有限である。つまり、無理な状況を何とか生きながらえさせているのは医療従事者の精神力の賜物ではない。私自身、地域医療に従事するまでその恐るべき実態は全く知らなかった。

〇良心を明け渡さないと回らない地域の日常
 では、何を犠牲にしているのかというと人間の良心というべきものではないだろうか。より具体的に言えば医療安全の質を落とすことや、診療上必要な適正手続きを省略すること、人権保護の観点上必要な措置を実施しないことなどで実際の業務量を減らし、なんとか医療の体裁を保持しようとするほかないようだ。
 精神科に限らず、医療は診断と治療のみで成立しているわけではない。診断のための検査一つ取っても侵襲性の評価、リスク・ベネフィットの勘案から本人への説明・合意形成が必要だし、一見非効率のように見えても事故防止の観点からは省略してはいけない行為というのも存在する。不幸にも事故等が発生した場合にも、適切な振り返りがなされ再発予防策というものが検討される。医療という人間の生命を扱う職種の特性上、これらの行為を適切に実施することの積み重ねが求められる。当然ながら、これらの診療行為は非常に時間を取られることは間違いない。特に地域の患者層は年齢層も高く、合意形成一つ取るにも苦労である。私は愚かにも、犯罪者を裁くに必ず裁判を行う必要があるように、これらは適正手続きとして当然実施されるべきという発想しか持っていなかった。
 私が従事した病院ではこれらのことはしばしば軽視された。

〇適正手続きを担保し、恣意を抑制する必要性ここにあり
 このように医療者側の事情で必要な適正手続きを省略する文化土壌が形成されると、診療のみならず全てのことにおいて恣意的な判断が跋扈することになる。もはや正義は無く声の大きな人物の気分で物事が進んでいくことになるのだ。この仮説を支持するように、長年勤務する人物こそ話の通じない人物は多かったように思う。
 そのような文化土壌のなかで、常に業務過多の研修医や専攻医らは自らの過労死を避けるために、上司のやり方を学んでいくようになる。つまり、精神障害者や病院に対して言い返すことができないような患者を選んでは、適切な医療を提供しないで済む方法を取るようになっていく。もちろん事後的にカルテ開示となり然るべき訴えがなされれば民事・行政上の責任や、時に刑事責任も免れないのだが、訴え出る能力が無い人物を巧妙に選んで自分の業務を減らす方法を学んでいく。私はそのような場面に精神科医の立場で何度も遭遇し、そのたびに強い言葉で非難し改善を求めていたが、ただ面倒な厄介者の人権派気取りのように扱われてしまい、具体的な改善がみられることはついぞ無かった。今思えば、専攻医らの行為もまた圧倒的な過労状態のなかで獲得していった必死の生存策だったのだろうが、被害者としての一面があれば全て免責されるわけではないということは、プーチンの被害者たるロシア徴集兵が侵略行為の加担責任を自らの命で支払っていることと等しいだろう。

〇虐待、虐待、虐待、虐待
 そのような環境においては、職員から患者に対する院内虐待が発生することもある。実際、私も自身の担当患者が院内で職員からの虐待被害に遭った経験は残念ながら一度ではない。一度目の遭遇のときは、腹の底から怒りに震えてしまった一方で、ごく特殊な事例が発生してしまったのだという呑気な見立ても持っていた。しかし、その後開催された委員会では明らかに気だるそうに参加する医師らが大半で、私のような考えは少数派であったことを痛感させられた。そもそもその委員会も、当初は開催される予定はなく私の強い要望でようやく開催される運びとなったのだ。「精神科の若いやつがなんか熱くなって面倒なこと言っているな」という風に思われているように当時感じた(今でもそうだったとしか思えない)。あまつさえ、鼻で笑いながら「結局先生は何がしたかったんですか?」と嘲笑するものもいた。結局、論点は適当なところにすりかえられてしまい、「重大な違法行為、虐待行為が発生した」という私の主張は聞き入れられず当院での対応は問題が無かったという結論になり強引に閉会させられてしまった。(私のみの見解だったが)虐待の絶望と恐怖のなかで晩年を過ごし、ついに亡くなってしまった被害患者の無念や、私に「話を聞いてほしい」と懇願した彼の瞳を思うと怒りの炎が消えることはない。
 二度目以降の院内虐待に遭遇した際は私は極めて冷静だった。一度目から少しの期間が経過していたため、私は様々なことへの「分別」がつくようになっていた。前回の検討会から、同様の事例が早晩発生するだろうことは十二分に予想できていたからだ。この時は被害患者がまたも私の担当患者であったにも関わらず、検討会には私の参加は認められなかった。重大事例であるため、相応の役職者のみで実施するという建前のようだった。私が多少利口になったように彼らも私の厄介さについての理解が深まったということだったのだろう。ただ、今回の事例よりも前回の事例のほうが悪質だったように思えていたが、加害者の院内政治力の無さを反映したのか一定の制裁処分は下ったようだった。ようだった、というのも結局どう判断されたのかは私に知らされることはなく、私もあえて確認することはしなかった。保健所等への届け出はなされなかったところからは、虐待行為であるとは判断されなかったようだった。一貫性があってよろしい。

〇共犯者としての地域
 このようなことのみでも恐ろしい環境であったのだが、更に驚くべきことにこのような虐待行為は院内のみで完結せず、まれに院外にも共犯関係になるものはあった。それも虐待の通報先となるべき機関が関与していることもあった。
 どうやら慢性的な人手不足に陥っているのは医療機関だけでなく地方自治体職員も同様らしい。地域保健を担う部署も業務過多に苦しんでいるため、先述の適正手続きを欠いて業務を減らす考えが同様に蔓延している。そのため、地域保健・福祉として支えるべき被支援者の数を何とか減らすべく、多少強引にでも医療機関を利用して、地域の困った人物をなんとか看取りを前提とした長期入院につなげようとするのだ。
 福祉支援職の間では常識らしいが、それぞれ医療機関ごとの入院のハードルの高低は地域で共有されている。その中でどのようにすれば入院の判断がされるか、ある種の技術が継承されているようである。
 ところで、我々精神科医は患者本人と同伴者の述べる事実が食い違う場合、慎重に客観的な事実を確認しようとする。それは別の家族に聞いたり、家族がいない場合は地域の支援者に確認することも多い。では、倫理観をかなぐり捨てた地域の支援者が、身寄りのない患者について事実と異なることを述べた場合、我々精神科医はその嘘を見破ることができるのだろうか。残念ながらできない。支援者が必要以上に大げさにとらえているのでは、という可能性を思っても、錯誤を起こそうという明確な意図を持たれていた場合はかなり難しい。なぜなら家族関係ならともかく、地域の支援者がそのような態度をとることはない、という前提がそもそもあるからだ。なので迷う。医師が患者について判断に迷った場合は、入院でよく評価しようとする。こうして、最初の目標は達成されることになった。
 しかし、ただの症状評価・経過観察目的での入院は短期間が通常であるので、すぐにまた地域に戻ってきてしまう。そこで次にどうしたか。私が出会って驚愕した方法の一つが、入院中に自宅を理由を付けて処分しようとする工作を働くことであった。本当にそんなことができるのか?協力してくれる血縁者が一人でもいれば、地域ではできる。協力者が書類を準備・偽造し、解体業者に依頼してしまえば空き地が完成する。もちろんここまでのことは、地域支援者の方から提案することはない。ただ、患者所有の古家つきの土地が単なる空き地になることを望む血縁者との利害関係の一致さえあればいいようだ。後から本人がなにか言ったところで、単なる高齢者のせん妄か認知症による発言としか見えない。まして、自宅が無くなったあとに怒り出す元気がある高齢者はどれほどいるものか、いっそ施設・病院暮らしに覚悟を決めさせるために善意からやったんだと言い張られてしまっては患者も折れるしかない。
 このケースは地域でも特殊であったが、地域の困った人物は何とか病院で収容できないか画策しているのが地域保健の現状である。地域包括ケアシステムというのも、一定の福祉資源が保たれていることが絶対条件なのだ。岡田更生館事件の再現になりはしまいか。げに恐ろしい。

〇地域医療の崩壊
 地域医療に従事する医師の確保は都道府県の重要な課題であるのは疑いが無い。そのため我々のような医師や医学生は様々な方法で地域医療に従事するよう働きかけられる。時に地域の魅力をPRされたり、時に正義感をくすぐったり、時に専門医受験資格や学位を人質にしたりと様々である。
 私自身はそれらの複合的な理由で地域医療に従事することになった。多少の期待と責任感を抱いて。しかし、私を出迎えてくれた「地域医療の洗礼」は上述の通りだった。これまで受けた医学教育のなかで何度も地域医療の必要性を聞いて膨らませていった地域医療の漠然としたイメージと、現実の惨状とのギャップに強い怒りと絶望をおぼえたものである。ある意味要請されて赴いたつもりの職場でまさか院内虐待の黙認を強要されるようになるとは。
 しかし、現在これらの状況を思うに、本邦の地域医療は既に崩壊していたのだということを実感した。地域医療は崩壊の危機に瀕している、という言葉は単なる大本営発表に過ぎなかったことがよくわかった。確かに歴史に学ぼうとするならば大日本帝国が負けたのは決して玉音放送で初めて負けたわけではない。二発の原発投下の時点で負けていたし、東京大空襲の時点で負けていたし、開戦に踏み切った時点で既に負けていた。地域医療ではただ玉音放送が無かっただけに過ぎない。ただ、地域医療の崩壊が患者の人権の蹂躙という形であらわれることは露とも想像していなかった。

◯抜き身の刀
 このようにして私は地域医療というものに絶望してしまった。医学という人類の財産を、患者への人権侵害的行為の正当性を主張するために用いられていることが心底許せなかった。当時私は物言えぬ精神障害者の怒りの代弁者たらんとしていたつもりだ。優越的な立場から恣意的な振る舞いをする者らに対する、社会的弱者たちの抜き身の刀たらんとしていたつもりだ。
 しかし、幸いその環境から離れることができ、刀である必要性が無くなった。改めて当時を振り返ると異常な環境であったし、そこでの私もまた異常になっていった。渦中にいるとまるでわからなくなってしまう。

◯精神科医の役割とは
 精神科医は日常の診療の特性上、温和で冷静な振る舞いがよく好まれる。しかし、精神保健福祉法の理念が示す通り、精神科医には精神障害者の人権保護の最後の砦となることも期待されていると考える。世の中の全員が良しとしたものであっても、精神科医だけは否定しなければいけないものは必ずあるはずだ。更に拡張して考えると、世の中の全員が理解や共感を示さない苦悩であっても、精神科医だけは理解を示してほしいともいえる。
 ただ、正義感(私の立場ではこれは攻撃性との表裏である)にあふれる若い人物は神輿としてしばしば担がれることはよく知っているので、刀は胸の奥にそっとしまうことにした。 

◯地域医療へのリベンジ
 地域医療という魔物に私は敗退してしまった。しかし、あくまで初戦敗退のつもりだ。権力の無い立場では、当時の私のように刃物を振り回すしか方法が思いつかなかった。あの怒りと絶望の刃は胸の中で暖め続けてみようと思う。数十年経っても地域医療というものに、絶望しきっていなかったときには過去の刀を懐かしみながら大いに助勢しよう。
 その日が来るまでは、時にその外から、時にその内側から、斜陽にある地域医療を見つめ続け、その没落を看取り続けようと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?