結局カルテって結局何書けばいいのよ!? 精神科専攻医の徒然草5

◯カルテの書き方なんか決まっちょらんばい
 その精神科医の臨床能力がどの程度かを知るにはカルテを見るのも一つのようだ。人の精神症状という曖昧なものをどう言語化して捉えられるか、そこからどのような治療方針を立てるのか、精神科臨床は意外にも非常に論理的な思考プロセスを経て行われるため、効果的な診療ができていれば自ずと説得力のある論理的なカルテを記載することができる。
 とはいえ具体的にどのようにカルテを書けば良いのかというのは常に悩ましい。しっかり書こうとすると冗長で読みにくくなってしまうし、簡潔に書くと何が何だかわからない。イレギュラーが生じたときも、訴訟リスクからは書かないほうがいい表現があるかと思えば、きちんと検討していた記録として書かなきゃいけない事柄もある。その線引はよくわからず、結局上級医やその職場の雰囲気の中で何となく「カルテってこういうこと書けばいいんだよね?」という認識で記載していることは多いのだろう。
 しかし精神科医にとってはカルテとは外科医のメスに等しいように思う。少なくとも診療行為に付随するものではなく、診療行為そのものではないか。何となく書くのではなく、修練を積んでより適切なカルテ記載を目指していきたいものだ。

◯カルテって何なのよ
 適切なカルテ記載について検討するにあたり、まずカルテとは何なのかを考えてみようと思う。
・医師法で義務付けられた業務文書としてのカルテ
 医師は診療を行ったときは診療に関する事項を遅滞なく診療録に記載しないといけない、と医師法は定めている。「診療に関する事項」とは要するに診療で扱う事柄を書けばいいんだろう。(「業務文書」と同じ意義で「公文書」と表現する人もいるが、微妙に定義が異なる。今回はそういう話をしたいわけじゃないのでどうでもいいが)法律上の義務だから書いているという側面である。
・主治医の備忘録としてのカルテ
 備忘録という表現は危ういが、要するに患者全員の細かい病状を覚えきれないので記録に残して毎度の診療に活かすことである。外来カルテのわかりやすいところに診断名を書いておいたり、アセスメントを見やすく書いておくなど、普段の外来診療業務においてはこの側面の比重が最も大きいだろう。
・チーム医療、多職種連携のツールとしてのカルテ
 今書くカルテは誰が読むものか、という視点も重要である。自分一人しか読まないのであれば旧twitterのように自分だけがわかる内容で書いてもいいかもしれないが、医療は全て医師の方針のもとで行われる。職種間でコミュニケーションを取り合ってすり合わせるのが前提だが、医師の記載を見て多職種がどのように患者と接すれば良いのか考えやすいカルテが望ましいのだろう。
・上級医からの指導を受けるための素材としてのカルテ
 前述した通りカルテを見ればその精神科医の実力がわかるので指導も専攻医や研修医が実際に書いたカルテをベースに行われることが多い。指導されやすい書き方というのは専攻医の私にはまだよくわからないが、漫然と書かずに手術に臨むつもりで万全の準備の上で書くくらいが良さそうだ。
・紛争回避、解決としてのカルテ
 「何かあったときのために」というやつで、訴訟や本人らからのカルテ開示請求に耐えうる記載をしようということである。ただし訴訟リスクばかりが強調され、医療者の免責に有利になるようなカルテ作成に注力され本質的に重要な部分が軽んじられてしまうリスクをはらんでいる点で危うい。とはいえ、開示請求や法曹からの検討に耐えうるカルテ記載をする必要があるのは確かだ。後段で更に考察する。

◯全てのカルテ記載は治療的であるべきだ
 前項のように、カルテには様々な側面がある。それらの要求にすべてに適う記載をしようとすると非常に難しくてややこしいが、これらはあくまで枝葉であって、より本質的なことがあるはずだ。思うにそれは「全ての記載は治療のためにある」ということに尽きる。つまり患者の利益に、患者の幸福に繋がるような記載、表現を心掛けるべきであるように思う。もちろん聖人君子だけが患者では無いし、「この患者は酷い人物だな」と思いながら接することももちろんある。それでも常に本当にこのカルテ記載が治療に役立つのだろうか、より治療的な表現は無いだろうかと吟味をする習慣はつけておくに越したことはない。
 その習慣を持つようにすると、同じエピソードを記載するのでも細かい日本語の表現が変わり、読んだ人の患者への印象は大きく変わることになる。自分の記載一つでスタッフの患者への先入観が変わり、精神科診療の結果が大きく変わることには自覚的であるべきだろう。
 またこのような視点を心掛けると、患者の中のポジティブな面やわずかな善性というのにもよく気が付くようになる。精神療法は患者のこのわずかなポジティブな側面に注目を当て押し広げていくことを促すため、常に治療的な記載を心掛けると精神療法の技量も自然に上がっていくと思う。

◯医師と法知識
 更に具体的なカルテ記載の方法について考察するにあたり、訴訟リスクをどう扱うかは避けて通れない話だ。我々医師は医療の高度な専門性を持っているにも関わらず、法知識は全く何ら持っていない。診療業務の複雑さ、責任の重さと医師の法知識の乏しさはかなり不釣り合いな水準にあるだろう。医療と訴訟は切っても切り離せない関係にあるにも関わらず、医師は法知識について体系的に学ぶ機会が無い。結果として「〇〇歳窒息で死亡、〇〇万円の賠償請求」といった民事訴訟のニュースを見て、司法の無理解に憤ったり、得体の知れない不安に怯えるばかりではなってしまっている。
 医師の法知識の無さからくる漠然とした訴訟への不安が、診療行為やカルテ記載内容を萎縮させてしまっているのは事実だろう。やはり我々医師も一般教養や、診療周辺知識レベルであっても法学習はした方が良いと思う。何も法律資格受験レベルまで仕上げなくとも、慣れない疾患を治療するときにガイドラインや論文を調べるのと同じように学んだり、患者が医師に質問するように専門家に意見をうかがうべきではないか。
 閑話休題、我々医師がおびえる訴訟というのは主に民事訴訟のことである。刑事訴訟と異なり、民事訴訟とは究極的には「普通の人同士の揉め事が当事者間で解決できないので裁判所に落としどころを決めてもらう」という紛争解決手段に他ならない。刑事訴訟のような真実の解明や社会正義の実現という側面よりも、小学生の喧嘩の仲裁のような「文句があってもこれで握手しておしまいにしなさい」という役割が大きい。大きいというか、まさにそういう役割であるのだが、その違いを理解している医師は少ない。「学校の先生が仲裁してくれたおかげで上手く納得して解決した」という経験が無いように、民事訴訟も納得できる結果になることはないのではなかろうか。全面勝訴となったとしても、そもそも訴訟になった時点で骨折り損であるのでまずは訴訟が起きないような診療・記載を心掛ける必要がある。
 
〇訴訟リスクを考慮した診療
 民事訴訟は対人トラブルの成れの果てであるので、ごく主観的な感情論で起こされることが多いようだが、我々は意外とそこを見落としている。どれだけ代理人が理論を構築しようとも結局のところ「医者のあのときの態度が気に食わない」「あのときの言葉が許せない」ということが原動力になっているのではないか。医師からすると無理筋のように見える訴えは要するに「許せない」という感情から来ているため、カルテには当事者の感情を逆撫でするような記載は厳に慎むべきである。
 また医事紛争の判例を見ると、裁判官は医療者の有責であると判断する根拠を説明義務違反に求める場合が多い。治療行為と結果の因果関係については高度に専門的であるとして直接的な判断を避ける傾向にある。
 以上から訴訟リスクの視点からは「患者家族の感情」と「説明義務を尽くす」の二点に配慮した記載が必要だろう。そこで治療方針の合意形成の場面においては説明の内容だけではなく、それを聞いた患者の反応も記載する必要がある。すんなり了承した場合でもこちらから何か質問や不安なことは無いか、後になって質問が出た場合は誰にいつ言えば良いかなども伝えたことを記載するほうが望ましい。また、合意形成をした翌日以降も心変わりがないかや、看護師やスタッフに漏らした不安についても主治医からよく取り上げて確認しカルテに記載するほうがよい。
 つまり、他人が見て「この先生はよく患者のことを考えて一生懸命話し合っているな」という印象を与えるカルテ記載が望ましい。そのような診療を心掛けていると患者の感情にもよく配慮がされることになる。誠実で真摯な診療の姿勢が訴訟リスクの回避には最も有用である。

◯寿司屋でハンバーガーを注文するようなもんだ
 医者をやってれば診察室で揉め事が起きるのはよくあることで、私のわずかな経験でも次第に鼻が効くようになって年々揉め事が起きにくくなったり上手く対応できるようになってくる。しかし、それでもイレギュラーな出来事は必ず起きる。それをカルテに書くときにどうしているかを考えてみよう。
 教科書的にはまず記載者の主観が入りにくい事実について時系列に沿って書き、その上で患者とのやり取りを重要な部分だけでも逐語録(実際の会話のやり取り)で記載するのが望ましい。(というのが正しい姿勢だが、これはその病院の風土に従ったほうが仕事はしやすいと思われる。医師として適切な記載をしているつもりが「病院に不利な内容を書きやがって」と目を付けられる可能性は大いにある。長い物に巻かれ専門職としての尊厳を切り売りするようなものではあるが、地域医療は既に崩壊し正しさが通用しない環境なので上手く立ち回らないとかえって地域の患者の不利益になることがある。)
 揉め事になったことのカルテでよく見かけるものに「説明しているが理解せず怒っている。意味不明」というようなものがあるが非常に危うい。残念ながら精神科以外のカルテでは本当によく見かける。医師としては医療で提供できることできないことをきちんと説明しているがそれが通じないことで辟易としているに過ぎないのだろう。ただ、これはかなり突き放した姿勢である。納得できなかった患者が開示請求をしたときに自分のことを「意味不明」と書かれていたら激昂しないだろうか?そのような人物にたまたま訴訟を起こすだけの金銭と時間があればどうなるだろうか?また、裁判官がそのカルテを見たときに「説明が尽くされている」と判断するだろうか?「医師の説明義務とはただ治療契約の内容を提示しその諾否を迫るものではなく、専門知識の非対称性から患者の従前の理解力やその時の感情などに配慮し適切に場面設定を行うべきであって、日を改めて説明しなおすなどがなされなかった本件において十分な説明義務が尽くされていたとはいえない」なんて言われてしまうのではないか?
 思うに、普通の診療をしていてトラブルになるケースというのは患者の医療に対する誤解がベースにある。つまり寿司屋に来ておいて「ハンバーガーを出してくれ!料理人ですよね!?料理人なら客が食べたいものを出してくれるんじゃないですか!?」と言っているようなものなのだが、クレーマー患者は本気でそう思い込んでいる。つまるところ我々は接客業の寿司職人としてどう対応するか考えないといけない。「出てってくれ!」「寿司屋なんでできないですね」では余計に揉めることになるので、もっとホスピタリティに溢れる対応が求められるだろう。例えばディズニーランドでゲストが同じような無茶な注文をしたときにはどういう対応がされるのだろうか?「できません」ということを伝えるだろうが、その伝え方はかなりの配慮や技術が施されているのだろう。人間を相手にする以上、我々は専門職、技術職でありながらサービス業、接客業であることに自覚しないといけない。それを否定するのは患者の人間性への無配慮であって驕りのように感じる。
 「頼むから医療をさせてくれ」「下らんことで時間を取らせないでくれ」と嘆く医師らが容易に想像できるが、そういうこともまさに医師の業務である。

◯結局カルテはどう書けばいいのよ
 結局のところ小手先のテクニックで良いカルテ記載ができる訳では無い。カルテはその精神科医の実力や診療の姿勢など医師としての全てが如実に反映されるため、日々修練を積む必要があるようだ。
 精神科では読むだけでその患者がどのような病状でどのような人物でどんな治療がなされ、今後どのように経過していくかの予後などがよくわかる記載が良いカルテである。読み応えのある良い記載ができるように修練を積んでいきたい。

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