精神科の勉強のしにくさ 精神科専攻医の徒然草1

◯初学者が躓くポイントなんか決まってらぁ
 学生や初期研修医にとって精神科は非常に勉強がしにくい。医局の専攻医においてはとにかく上から与えられた業務に食らいついていけば自然に知識がまとまっていくので良いが、学生が自分らだけで学ぼうとしてもこれはなかなか難しい。例えば「気分の落ち込み」一つ取ってもうつ病なのか適応障害なのか情緒障害なのかそれぞれの違いがよくわからない。実習場面でも、学生が感じた見立てと実際の診断が大きく異なる。慌てて教科書や国家試験対策の精神科講座を見てもそれぞれの診断基準はわかったが、結局区別や見分け方がわからない。
 このように初学者は目の前の患者の困りごとはわかってもそれがどのように診断され、どう治療方針に反映されてるのがわからない。勉強しても実臨床上どう判断、区別して評価されるのかがわからない。つまり精神科診療の理論体系がどのように実臨床にあらわれているのがわからず、乖離した知識しか掴めないことが初学者の一番最初の躓きとなる。

◯教科書を最初から通読するしかないんだなこれが
 初学者が知識と臨床の理解がバラバラになってしまうのは精神科診断の歴史が他の身体疾患の診断と方法論からして大きく異なるという点を理解できていないことに由来する場合が多い。身体疾患の場合はとにかく病態生理を基準に診断、治療がなされ、医学生はこのような方法論を前提に診療を学び知識として詰め込んでいく。
 しかし、悲しいかな精神科はそのような解明された病態生理をベースにした診療体系は取られていない。そこの大きな前提・文化の違いを認識していないままに学習してしまうと前段のような落とし穴にはまり込んでしまうのだろう。
 これを理解するためには精神医学の歴史を学ぶのが最短ではないか。つまり厚い教科書の一番最初のほうに書いてある部分をよく読むことで今後の理解が早まる。寝転んでなんか読めないし、実習着のポケットなんかにも入らないし、予備校も教えてくれないところが一番重要だったりするのは、コスパ、タイパ重視を持て囃す昨今の風潮を精神医学が嘲笑っているようにも感じる。
 その次に学ぶべきは症候学、つまり患者の精神医学的所見を適切に捉えることだ。所見を適切に捉えることで患者の状態がわかり適切な診断、治療につながるというわけだがこれは一生青春一生勉強というやつだ。難しい。

◯とはいえやっぱり理論通りにゃいかねえわ
 教科書的な知識、理解が深まったとしてもやっぱり精神科領域はなかなか理屈通りにはいかないことばかりだ。ある心理療法を学んだとしてもそもそも導入するまでが難しいし、「虐待のおそれがある場合は通報の義務がある」という国家試験の通りの対応ができたとしても結局通報したあとで児相や地域包括は「先生が診てくれるなら安心なので病院で方針をお願いいたします」なんて言われてしまう。
 幸せの形はだいたい似通っているが、不幸の形は千差万別であるように精神科医が接する相手は様々な不幸や苦悩、苦痛を抱えている。定型化した介入方法なんかないので内心勘弁してくれと思ったりもする。「この人どうすればいいかまじでわからん」ということが多いが、それでも何とか一歩前に進める方法を決めるのが精神科実臨床なので、普通にガイドライン通りの診療や、教科書通りの判断は精神科医なら当然わかっていることを期待される。その養成が専門医制度の狙いなんだろう。

◯精神科医の面白さ
 専門職である以上当然なのだが、精神科医の業務は非常に難しい。幸い、自分はこの仕事がよく向いていると感じているが、やはり判断に悩むことは多いし、絶対に失敗できない判断を求められているなと感じることは多い。それでも精神科臨床は面白い。
 症候から診断、治療方針の決定には論理的思考力を求められ(具体的な事情を抽象的な基準に当てはめて診断、判断していくという点においては、法学の特に刑法学に近いように思う)知的労働として非常にやりがいがある。
 患者の人生から学ばされることも非常に多い点も精神科特有かもしれない。でもこれは自分のトラウマと向き合うために患者を利用して無自覚な精神科医も同じことを言うだろうな。

◯なんでこんなに小さいときから勉強ばかりしてるんだ我々は
 意外と自分らではわからないんだけど医師ってやっぱり頭が良い。自分は卒業してから心理士さんの練習でWAIS取ってもらうまで気づかなかったけど。努力よりも才能と環境の賜物でしょう。けどなんでこんなにずっと勉強してるんだ我々は。
 なぜ勉強ばかりするのか、これはそれぞれ好きに考えていいと思うが、間違いない真理として知識が増えると生活は楽になる。生活が楽になれば心理的にも余裕が生まれ面白おかしく生きることができるようになる。勉強や修練の真の目的はそこだ。亀仙人がそう言ってたもん。
 また、知識が増えると他者にも寛容になる。例えば自殺が追い込まれた末の死だということを理解していれば、自殺死亡者に鞭打つような考えは生まれない。このように我々が学ぶのは自分等がこれまでの固定された考えから開放され寛容に生きやすくなるためであって、その副次効果として医師として働き医療貢献をしているに過ぎない。
 自分は精神科医としては年次相応に真面目な部類だと思うが、自分や自分の家族が不幸になってまで医師を続けるつもりはさらさらない。ただこれも昨今の勤務医師の過労自殺の状況や、人が心理的にどのように追い詰められていき心理的視野狭窄に陥っていくか精神科医の立場で知識があるからだ。かつて迫害下にあった人々のように、個人の最も重要な財産の一つは自分の頭の中身であるというのが私の信仰だ。


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