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多分、人生の転機の一つ。。。

初めてのnoteに書いてみた内容だが、
私の母は、私が手術室看護師3年目の時に術後脳梗塞になった。

とにかく、目を開けることもなく、言葉のない母の手を握って毎日毎日泣いていたわけだが。
そんなある日、多分、それは、私のその後の
人生を明るい方向へ導いてくれた、、、
転機がやってきた。

いつものように、仕事が終わって、母の入院している病棟へ上がって、母のベッドの横に座り、涙が溢れて、疲れて眠って。。。

多分、トイレに行った時だったと思う。

当時のその病棟の主任さんが、私に声をかけてくれた。
「いつまで泣いてるの。それこそ、これから、あなたがキーパーソンになるのよ‼︎」と。
昨年度で定年を迎え、3月に退職された
元気でパワフルな師長さんで、今でも紀子姉様と慕っている。その当時は、母の入院する病棟の主任さんだった。

私は、本当に、ハッとした。
「キーパーソン。。。」
そうだ。父や弟ではなく、
私にしかできないことだった。

その時から、泣くのはたまにになって、母のところに帰りに寄っては、清拭をしたり、少しずつ目が開き、表情が出てきた母をストレッチャーで入れるお風呂に入れさせてもらったり、母のリハビリについて行ったりした。リハビリ室で涙が止まらなくなって、驚かれた時もあったけど、
とにかく、母を家に連れて帰らなきゃ。と思った。

母の入院している病棟のスタッフが、わざわざ私のいる手術室まで来てくれ、
「今日、お母さんから言葉が出たんです‼︎」って教えてくれて、一緒に泣いてくれた日のことも、その初めての言葉が、手術前日まで同じ病室で母が仲良くしていた脳腫瘍で入院していた「るりちゃん」だったことも、
なんだか、母っぽくて、
私の名前「葉子」じゃないんだ、、って
泣き笑いになったことも本当にありがたかったと思い出す。

私が泣かなくなって、、、

母は、右半身麻痺で失語があったし、まだご飯は食べれず、お鼻からの経鼻栄養だったけど、同じ大学のリハビリ病棟のある病院に転院できるほど、元気になった。
もちろん、病棟の看護師さん、先生達、リハビリのスタッフの方々、多くの人達にお世話になったおかげだったって本当に思う。

だから、私も、患者さんや、そのご家族にできる限り寄り添った看護をしたいと、より、思うようになった。

もし、あの時、主任さん、紀子姉様が私に
「いつまで泣いてるの‼︎それこそ、これから、あなたがキーパーソンになるのよ‼︎」と声をかけてくれなかったら、
ずっと、ただ泣いているだけの人になってたかもしれない。。。

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