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第1章 マルクス人物伝(2)

ヘーゲル哲学への傾倒

その一方でマルクスが貪欲に勉強したのは哲学でした.特に当時ドイツ哲学界の第一人者だったヘーゲルに傾倒しました.ただ,ヘーゲルはベルリン大学で教鞭をとっていましたが,マルクスが入学する5年前に,当時流行していたコレラに罹って急遽しており,マルクスが直接ヘーゲルから学んだということはありませんでした.しかし,ヘーゲル哲学は,マルクスが自己の思想を確立していく上で,非常に重要な役割を果たしています.

彼の哲学の主要なテーマは,世界の成り立ちや人類の発展の過程を哲学によって解明することです.具体的に言うとヘーゲルの考えでは,世界が運動し発展していくプロセスとは,絶対的な「精神」が世界を自由で完全なものに仕上げていく過程であるとされます.そしてその発展の方法は,弁証法と呼ばれるものですが,これについては後の章で詳しく述べたいと思います.

マルクスは当初,独学でヘーゲル哲学を学んでいたのですが,ベルリン大学に来て1年後に「青年ヘーゲル派」と呼ばれる哲学者が参加する集い「ドクトル・クラブ」に入会します.

なお,青年ヘーゲル派とはヘーゲルの死後,3つの学派に分裂したうちの一つです.この3つのグループとは,ヘーゲルの理論を忠実に伝承する老ヘーゲル派と呼ばれるグループと,それとは逆に,ヘーゲル哲学を批判的に継承,発展させた青年ヘーゲル派,さらに両派の中道をいくグループです(老ヘーゲル派と青年ヘーゲル派は,その思想からそれぞれヘーゲル右派,ヘーゲル左派とも呼ばれます).

ちなみに「老」,「青年」と名前がついているのは,両学派の年齢層の違いによるもので,老ヘーゲル派にはヘーゲル存命中に直接師事していた年配の研究者が多く,逆に青年ヘーゲル派は若手を中心に構成されていました.

青年ヘーゲル派がどのような哲学的主張を行ったかについても簡単にふれておきます.先に青年ヘーゲル派はヘーゲル哲学を批判的に発展させたと述べましたが,その批判の矛先はヘーゲル哲学の中にある宗教性でした.というのもヘーゲル哲学にはキリスト教の思想が色濃く反映されており,特にヘーゲル哲学の中心的概念である「精神」とは,キリスト教の神を意図したものだたからです.

つまり「精神が世界を仕上げていく過程」とは陰に「神が世界を仕上げていく過程」のことであり,神が世界や人類を支配しているという世界観が,ヘーゲル哲学の背後に隠れていました.これに対して青年ヘーゲル派は「哲学から宗教色を排除し,真に人間中心の哲学にすべきである」と批判しました.

また,青年ヘーゲル派は,ヘーゲルの国家感に対しても批判を行いました.ヘーゲルは『法の哲学』において社会のあるべき姿について考察しているですが,その中で「国家という社会形態が最終的な理想の形態である」と説いています.これは当時ヨーロッパの中で立ち遅れていたプロイセン国家を正当化するものでもありました.

先に述べたように,イギリスやフランスでは既に資本主義社会へと移行し,市民は多くの自由を手にしていましたが,プロイセンではいまだ封建的な古い体制が続いていました.またプロイセン政府はヨーロッパで吹き荒れる政治革命の嵐を恐れ,急進的な思想や政治運動を取り締まるために言論弾圧などを行っていました.

青年ヘーゲル派は,このように立ち遅れたプロイセン国家を最高の形態であるとするヘーゲル哲学を批判します.さらにはプロイセン国家そのものに対しても,批判の矛先を向けるようになります.

この状況も幕末の日本に喩えると分かり易いでしょう.プロイセンと同じく江戸時代の日本も幕府による封建制が敷かれていたわけですが,そこに欧米の進んだ文化が到来しました.それによって,封建制を廃止して新しい社会を構築しようという討幕派と,幕府の間で対立が起きました.

ここで,ヘーゲルと青年ヘーゲル派の立ち位置を幕末に喩えるならば,「幕府の統制のもとで平和を維持・継続するのがよい」とする幕府側の老臣がヘーゲルの立場であり,逆に「幕府の支配をなくし,自由で民主的な社会にすべき」と考えた倒幕側の若獅子たちが青年ヘーゲル派,といったイメージになります.

もっとも青年ヘーゲル派は哲学者の集まりなので,討幕派の武士のように自ら武器を持って戦うわけではありません.中には,マルクスの親友エンゲルスのように,実際に革命軍に参加して戦うような思想家もいますが,多くの場合,実践的な運動としては政府の弾圧に抗議するデモを行う程度です.

むしろ活動の中心となるのは,哲学的な議論を通して「よりよい社会とは何か」,「現状の矛盾に満ちた世界をどうすれば克服できるのか」などについて考え,それを社会に向けて発信していくことです.マルクスも青年ヘーゲル派との交流を通して,哲学によって啓蒙的に社会を変革していくということに関心を持つようになります.

なお,現在ではインターネットを使えば簡単に情報発信できますが,当時はテレビもない時代なので,新聞や雑誌,機関誌などを使って啓蒙的な活動を行っていました.実際,当時のマルクスも青年ヘーゲル派の仲間ブルーノ・バウアーと,雑誌の発刊を考えていました.

しかし,このような行為はプロイセン政府による弾圧の対象となります.青年ヘーゲル派の仲間も大学の職を追われたり,発行していた機関紙が廃刊の圧力を受けたり,といったことが起きるようになってきます.

マルクスのベルリン大学での生活はこのように哲学を中心としたものとなり,二十三歳のときにギリシャ哲学の論文を書いて博士号を取得し,大学を卒業します.その後,大学で教鞭をとる道も考えていたのですが,政府の弾圧行為が強まってきている状況の中で,その道を断念せざるを得ませんでした.


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