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球団ヒストリー42.誕生『鹿児島ドリームウェーブ』!!そしてチーム名の切実な理由

『ホワイトウェーブ』の由来

『鹿児島ホワイトウェーブ』というチーム名の由来は、欽ちゃん球団茨城ゴールデンゴールズとのイベント時のスポンサーが”さつま白波”の薩摩酒造さんだったから。
白波=ホワイトウェーブ。
これはイベント時にはすでに決まっていた。

一晩限りの予定だったのに、思いがけずそれから6年後の2012年も存続していたことになる。

『白波』を脱ぐ

2012年ごろのことを、当時の監督である末廣昭博さんが教えてくださった。
「國本代表が、スポンサーの枠を広げたいと話してましたよ」。

当時の財源は、選手からの部費とスポンサー企業や自販機からの収入。でもスポンサーはまだまだ数えるほどだし自販機も10円20円の積み重ねだ。

一晩限りの予定だったのは、薩摩酒造さんとしても同じだったのだろう。その後のスポンサー料は、まだまだ少なかった他スポンサー様よりも少額だったという。

球団としてはそれでもありがたいが、胸に白波を冠するのはもう卒業していいのかもしれない。代表の胸にはそんな想いもあったのかもしれない。
それは、"欽ちゃん球団に勝った"ホワイトウェーブを脱ぐ、という一つの宣言だったのではないかしら。
過去を脱ぎ、ゼロから出発しようという決意だったのではないかしら。

誕生!『鹿児島ドリームウェーブ』

こうして、鹿児島ホワイトウェーブは『鹿児島ドリームウェーブ』とチーム名を変更することになった。

当時の記事によると”都市対抗出場の「夢」に向かい、感動の「波」を起こそうとの意味を込めた”そうだ。

鹿児島市の社会人野球チーム「鹿児島ホワイトウェーブ」が、チーム名を「鹿児島ドリームウェーブ」に変更し、新たなスタートを切った。國本正樹代表は「本気で都市対抗野球本戦出場を目指す。鹿児島の子どもたちが野球を続ける受け皿になりたい」と決意を語った。ホワイトウェーブは2005年、地元民放の企画でタレントの萩本欽一さんが創った茨城ゴールデンゴールズと対戦するため結成されたチームが母体。06年には日本野球連盟に加盟し、鹿児島県では鹿児島鉄道管理局以来19年ぶりの社会人野球チームとなった。だが、次第に活動が停滞したため、心機一転を図ることにした。新チーム名は都市対抗出場の「夢」に向かい、感動の「波」を起こそうとの意味を込めた。ユニホームもチームカラーの青を基調に一新した。選手は18歳から32歳まで20人。独立リーグや企業チームの経験者もいる。5月12日に鹿児島市である都市対抗野球鹿児島・宮崎予選がデビュー戦になる。19日には同士でチームの後援会が発足パーティを開いた。後援会では個人と法人のサポーターを募集中で、仕事をしながら野球をする選手を支える協力企業も求めている。

毎日新聞2012.4.20

『ドリームウェーブ』命名の切実な理由

表向き、そんな美しい意味もあるのだが…実はもうひとつ切実な理由が。

「"W"を残せば、ビジター用ユニフォームはこのまま使えるな」

経済的にも自転車操業だった鹿児島ホワイトウェーブ。
チーム名を変えれば、当然ユニフォームも変えなければならない。
そうするにはお金がかかる。

でも、ビジター用ユニフォームは、胸に”W”の一文字。
『W』を残せば、作り替えるのはホーム用ユニフォームだけでいい。
國本代表、実はそんな考えがあったんだとか。

つまり、『ウエーブ』ありき。

もちろん、これだけが理由ではない。
飽くなき夢を追う、という意味はあまりにも大きい。
けれども、その裏にある現実もまた大きかったんだなと。

ここはケチるところではない、という人もいるかもしれない。
でも本当に切実。
発足してまだ数年、大きな結果も出していない地方の一球団に、簡単に何十枚ものユニフォームを作り替える余裕なんてあるはずがないのだ。

このお話をお聞きしたとき、そうそう、そういう話を聴きたかったの!とニンマリしたのはここだけの秘密にしてください。

欽ちゃん球団をきっかけに白波に漕ぎだした小さな船は、より小さくなりながらも色濃く夢を引き継ぎ、大海原へと舵を切ったのでした。


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