球団ヒストリー1.それは、欽ちゃんから始まった。
2004年の年末、鹿児島で野球イベントの話が持ち上がった。
当時全国でも話題になっていた茨城ゴールデンゴールズ、通称『欽ちゃん球団』の九州ツアーを、鹿児島でもできないかと。
プロ野球再編などで野球界に大きな衝撃が走った年。
そんな中で「野球はプロ野球だけじゃない」とばかりに、野球界を盛り上げようと萩本欽一さんが(たぶん)一念発起した年だ。
とはいえ、鹿児島には欽ちゃん球団と対戦できるような社会人チームはない。まずはチームをどうするか。
大学選抜チームか、軟式野球の選抜チームをつくるか、それとも予選のようなものを開催して優勝チームが対戦権を勝ち取るか。
いくつかの案があった中で、「どうせなら公募してチームをつくらないか?」ということに。
欽ちゃん球団を迎え撃つための硬式野球クラブチームを、イチからつくってしまおうという企画はこうして動き出した。
選手募集のCMが流れ始める。同時に応募者のFAXが止まらず、「こりゃ大変だな」と担当者は青ざめたんだそう。
最終的に、20人の募集枠に約130人が殺到。
きっと、グラウンドになにか忘れ物をした野球少年たちの胸に「もう一度」の灯がともったんだろうな。
最終選考は、2005年7月17日。
のちにチームの本拠地となる伊集院球場に、62人の野球バカ(失礼)たちが集まっての熱い入団テストが行われた。
選手たちの中には、甲子園経験者や140キロを超える本格派投手もいて、予想以上にレベルが高い。
その場限りの入団テストでは、技術だけではなくメンタルも運も強くなくては勝ち抜けない。
元プロ野球選手でもあるコーチ陣の厳しい選考を経て、晴れて選ばれた25人の選手たち。
こうして、鹿児島ドリームウェーブの前身である『鹿児島ホワイトウェーブ』は船出した。
合同練習は3回。
欽ちゃん球団はすでにチームとして始動しているのに、はじめましてのメンバーと1か月間でたった3回の練習。
野球を知っていればなおのこと、不安要素たっぷりなのに、当時の映像や新聞を見ても、そんな雰囲気はちっとも感じられない。
むしろ「また野球ができる」「また硬球を打てる」そんな喜びが選手たちを包んでいたんだろう。
監督は定岡正二さん。
鹿児島で野球と言えば、鹿児島実業を県勢初の甲子園ベスト4に導いたあと巨人に入団し、多摩川グラウンドに2万人の女性ファンを集めたという伝説を持つこの人の名前が、まずは浮かぶのです。
欽ちゃんと、定岡さん。両監督の知名度は抜群。
当時テレビでがんがん流れていた告知CMは私もよく覚えていて。
「へー、鹿児島にこんな野球チームがあったんだ」
と素人目にもかなーり興味を覚えた。彼氏がいたら強引にでも誘っていったのに、友達の少ない私は一人で行く勇気はありませんでした…泣
そして迎えた8月16日。
欽ちゃん球団・茨城ゴールデンゴールズと、鹿児島ホワイトウエーブの試合の日。
会場となった鹿児島のメインスタジアム県立鴨池球場には夕暮れ時から長い行列ができ、9200人の観衆で埋め尽くされた。
鴨池球場にこれほどの人が集まるのは、数年に一度のプロ野球のときだけ。
鹿児島に久しぶりに誕生した、本格的硬式野球クラブチームのデビュー戦は大成功と言えただろう。
つい数か月前まで、もしかしたらグラウンドに忘れ物をしていたことすら、気づいていない選手もいたかもしれない。
そんな、ちょっぴり歳を重ねた野球少年たちは「もう一度」の夢を叶え、それを見守り続けた家族もまた格別の想いで大歓声の鴨池の照明に照らされていたのだろうと思います。
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