死にたいんじゃない。生きていたくないんだ。


あるコメンテーターがワイドショーでこうコメントしていた。
「彼は死にたかったわけじゃなくて、生きていたくなかったのではないだろうか」

この言葉に私の何かが反応した。
心のずっと奥の方に仕舞い込んで、自分でもその存在を忘れていた何かが。


15年前、パニック障害になり、そのまま進行して鬱になった。
友達とも遊べない、デートもできない、ましてや仕事にも行けない。
いつ治るのか、このまま治らないのかもわからないなんて、
どうすればいいんだろう。

そんな日々を送っているうちに、一つの考えが私の頭を占領するようになった。

「私という存在を消してしまいたい。」

そう、希死念慮だ。

決して死にたいと思ったわけではない。
死にたいというより、手にすくった砂にふっと息をかけてなくすみたいに
私がいなくなればいい。
そう思った。


私はこの時、なぜ自らを死を選択することがいけないことなのかわからなかった。
人のものを奪うことはよくない。
だから人の命を奪うことをしてはいけないのはわかるけれど、
なぜ自分のものを自分で手放すことを選択するのがいけないのか。
友達に話を聞いてもらっても、家族と話しても、心理療法士のカウンセリングを受けても、この答えはわからなかった。
今もその答えは何なのか聞かれても、答えることはできない。

私の前に生きる希望をなくした人が現れても、何も言ってあげられないかもしれない。
何も言ってあげられないけれど、その気持ちをわかってあげることはできる。
何も言ってあげられないけど、何かを教えてあげられるかもしれない。
自分のエゴ(死ぬなんてダメだ!とか)を押し付けることなく、そっとそばにいてあげることはできるかもしれない。
そしてただ愛だけをその人に与えることはできるかもしれない。


こんなふうに書いたら冷たいとかひどいとか言われそうだけど、
生と死、どちらを選択するのかはその人次第だ。
私は愛を送ることはできるけれど、それを受け取るかどうかはその人次第なのだ。

人は絶望の中にいると、まわりが見えなくなる。
ひとりっきりになってしまったかのような寂しさと、
ひとりっきりになりたい悲しさで心が占領されている。

その閉ざされた心を開くのは、愛しかない。
ただし無理にこじ開けようとしないでほしい。
その重い扉を開くのはその人のタイミングに任せてあげてほしいのだ。


あれから15年。
辛いこともあったけど、楽しいことの方が断然多かった。
あの時消えていたら経験できないこともたくさんあった。

私はあの時自分の存在を消すことができず、今もこうして生きている。

それが自分にとって良かったのか悪かったのか。
その答えはきっと寿命を全うする時にわかるのかもしれない。


自分のものを自分で手放すことを決めたとはいえ、
才能ある若者が突然いなくなってしまうのは、悲しいことだ。
彼が何を思い何を考えていたのかは、もう知るよしがないけれど、
もう何にも苦しまず、ただ安らかな世界にいることを願うばかりだ。



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