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自虐史観の鎖を断ち切れ! 対C国編

序文

日本帝国海軍が真珠湾を奇襲して開戦した12月8日から80年が経ち、当時を知る生き証人もいなくなりつつあります。私たちが教わり語り継がれてきた過去は、どんな過去だったのでしょうか。また先人たちが描いた未来は、どのようなものだったのでしょうか。そして今を生きる私たちが、それにどう答えていくべきなのでしょうか。

学校で習ってきた内容だけでは不十分であり、正しいかどうかでさえ疑わしいのが歴史です。少なくとも私はそう思っています。

過去に起きた1つの出来事を”点”とするならば、”点”と”点”をつないで”線”にして行く作業が研究であり学門なのです。そしてその”点”の中にいた登場人物の(his)物語(story)が歴史(history)です。その歴史は他の人を巻き込むことで、思想を作り、人を動かし、国を作ってきたのだと私は考えています。

特に世界大戦となると、関係国のそれぞれの思惑が入り乱れて、正義すら失われ、戦争の意義は残酷無慈悲なものとして片づけられてしまいます。戦争は悪であり愚かであると誰もが思うのに、なぜか人類は争いをやめようとはしません。そんなループが繰り返されるという、人類に課せられた永遠のテーマを、その発端や経緯を知ることで、簡単に片づけられないものと理解し、現実と向き合っていくべきではないでしょうか。

【満州事変】

日本の中学校で最も多く使われている「新しい社会 歴史」(東京書籍)は、満州事変と満州国の建国について、次のように書かれています。

 《満州の日本権益を確保するため、満州を中国から分離することを主張していた現地の軍部(関東軍)は、1931(昭和6)年9月18日、奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、それを機に軍事行動を開始しました(満州事変)。満州の主要部を占領した関東軍は、1932年3月、清朝最後の皇帝溥儀を元首とする満州国を建国させ、実質的に支配しました》

さて、教科書の文から何が伝わるでしょうか?ただの”点”が並んでるだけです。どんな”線”だったのかよく分かりませんね。

日本は1931年の満州事変以後、孤立してしまいます。その経緯をみていきましょう。

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日本政府は治安維持のために陸軍所属の関東軍を派遣していたのですが、1928年石原莞爾や板垣征四郎らは軍による列車(正しくは線路)の爆破事件を起こし、元親日派の奉天軍・張作霖が死亡しました。彼の息子である張学良は、のちに裏切って蒋介石率いる国民党軍と連動します。

満州の地は、先の戦争(日露戦争~第1次大戦)で得た利権ですが、直接統治できる領土ではなく、奉天軍閥を用いた間接統治でした。そこに日本は資金と人材を投入し、未開の地に鉄道などのインフラを整え、発展させました。現地の生活も豊かになり、漢民族の難民流入などもあり人口も増えました。(20万人以上の日本人がいたという記述もあります。)

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孫文が樹立した中華民国の崩壊後のこの時の中国大陸は、多くの軍閥が割拠する内紛状態でした。無政府状態なので、各地で略奪強盗をする無法集団がいたのです。軍事力という面で見るなら中国内の各勢力は非力でしたが、ソ連が共産党にアメリカが国民党にそれぞれ支援を行うようになりました。その時広まったのが不買運動や邦人排斥の反日プロパガンダです。

張学良

ここで、なぜ張学良は裏切って日本と戦うようになったのでしょうか?

『私は、一生を日本によって台なしにされました。私は日本に父親を殺され、家庭を破壊され、財産も奪われたのです。・・・・私は日本の若者にぜひとも言いたいことがあります。日本の過去の過ちををまずよく知ってください。そして過去のように武力に訴えることを考えてはいけません。(・・・孔子の言う「忠恕」の忠は国に対する忠誠で、恕とは他人を許す心です。)日本は忠のほうはありますが、恕が少なすぎます。つまり思いやりが少ないのです。日本政府は外国に対しても、また国民に対しても、恕がないのです。』<NHK取材班『張学良昭和史最後の証言』1991 角川書店 p.241~、p.260>

これは1990年の言葉です。教科書に載る満州事変の(柳条湖での爆破事件)1点のみから見ればそれらしい(同情を誘うような)ことを言ってると思えます。果たしてその言葉通り、本当に悲劇の英雄なのでしょうか?

父の死後、27歳で巨大な財産と権力を継承し、楊宇霆ら旧臣たちを反逆者として処刑しています。30歳の時ヨーロッパへ訪れた際には、正妻と3人の子を帯同していました。張学良と親交があった関東軍の本庄繁が、事変後、奉天に残された張学良の財産を2両の貨車に積み、北京に逃れていた張のもとに送り届けました。けれども、張は「この荷物は受け取れません。」と送り返したそうです。抗日活動としては、満州における在留日本人に残虐な仕打ちを行ってます。満鉄を経営的に自滅枯渇させるために、新しい鉄道路線などを建設し、安価な輸送単価で南満洲鉄道と経営競争をしかけました。結果満鉄は赤字となり、従業員の処遇は悪化、大量解雇、車両などの補修は中止になったりしています。また、「盗売国土懲罰令」を制定し、日本人や朝鮮人に土地を貸したり売ったりした者を、国土盗売者として処罰しました。多数の朝鮮人農民が土地を奪われ、抵抗した者は監獄に入れられました。満洲事変直後、奉天監獄には530人の朝鮮人が入れられていたといいます。

どうですか?彼の言葉全てが真実とは言い切れませんね。いかに日本を悪者に仕立てるか、それこそが自虐史観を植え付ける真意だからです。

治安維持部隊の関東軍が軍事行動に出たことを、(当時)本国日本にどう伝えられどう解釈されたのでしょうか?

関東軍は国際法上、警備や治安維持のために駐在しており、当初は2万人規模の軍隊のようで軍隊のような権限は無かったのです。しかし、奉天軍は30万人規模の軍閥です。中東鉄道をめぐり、ソ連と国境付近で戦った経験(1929年)もあります。

日本政府の幣原喜重郎外相の場合は、不干渉を決め込み、満州における日本人を救済しませんでした。国としては宣戦しない、あくまで国際協調の姿勢を貫いたみたいです。暴動や迫害の末、満州国にいた約27万邦人のうち約8万人が命を落としたそうです。そんな中で関東軍は立ち上がったのです。それを報道したのが、ラジオや朝日新聞等です。戦争を煽り、世論を味方につけ、発行部数を伸ばしたのです。ただ、真実が報じられたかというと、そうではありません。朝日新聞『社史』によると、「日本国内では、爆破事件の犯人が関東軍であると報じることは禁圧」されていたようです。「中国側が線路を爆破し、関東軍が自衛権を行使して応戦した」という関東軍の主張をそのままに報道したのです。情報源の乏しい時代なので、読者=国民が、「軍の行動が正しい」という印象を強めてしまう結果になりました。以後メディアは軍部の意向に従うような形で、国民の洗脳を始めることになります。こうして、軍国主義に加速していったのでしょう。

東京日日新聞

清の皇帝を擁立し満州国を建国した後に、国際連盟にて「日本が侵略している」と中華民国は世界に訴えました。リットン調査団による報告では、「法的に中華領ではあるが独立性も高く、自治を有するとし、日本の権益は認める」という結論に至りました。松岡洋右外相は満州国独立の正当性を訴えましたが、却下されたのです。日本は実益より名目を重んじてしまったのか、1933年3月、国際連盟を脱退することになりました。

松岡洋右

以後 日本は苦境に立たされていきます。軍事的・経済的孤立を招きますが、おそらく政府は満州国が承認されないことは、予測済みだったのでしょう。2月から熱河作戦を開始していて、4月には関東軍は河北省まで侵攻しています。連盟からの勧告案を無視して、侵攻したことは諸外国からの反感を買うことになりました。そして5月31日塘沽(タンクー)協定を結び、結果「満州国」を中国側に黙認させています。

【植民地支配(利権)拡大を目指す国VSアジアの安定(独立)を目指す国】

紛争・戦争は、利害やら民族意識やら宗教やら、なにかしらの思想が根底にありますよね。でも、それらは結局奪い合いなのです。お金なのか土地なのか命なのか等の違いがあるだけです。

舞台となった中国大陸では、国民党VS共産党の抗争が続いていましたが、1936年 西安事変で張学良によって監禁された国民党蒋介石は、共産党毛沢東に命乞いをしました。結果、毛沢東の条件をのみ、日本軍と敵対するようになって日中戦争へと向かいます(第2次国共合作)。毛沢東の思惑は、国民党の戦力を削ることであり、漁夫の利を狙っていたわけです。ただ、その毛沢東ですらソ連コミンテルンの計画に踊らされていた、だけかもしれません。いずれにせよ当時の共産主義の権勢が増していったのは事実でしょう。中国での闘争の背後には、共産主義ソ連と資本主義アメリカの闘争もあったと考えられます。しかし、両者から同一の敵とされてしまったのは、紛れもない日本だったのです。

もう少し、歴史を見ていきましょう。

蔣中正總統玉照

1937年7月 停戦を求める声があるにも関わらず、蒋介石は日本軍を襲撃し宣戦の声明を出しています。

廊坊事件(25日、北平・天津間で切断された電線を修復直後の日本軍が国民党軍から銃撃を受けた)

広安門事件(26日、北平在住の日本人を保護するために事前通告ののち日本軍の一部が城内に入ったところ城門が閉ざされ、国民党軍第29軍が北平城内外の日本軍に手榴弾と機銃を浴びせた)

通州事件(29日、北京東方の通州には新日政権がつくられていたが、日本の駐屯軍不在の間に、その政権の中国人部隊は日本人居留区を襲い、日本人居留民385人のうち子供や女性を含む223人が惨殺された)

これがきっかけで、日本軍は各地を転戦していくことになります。

1937年11月 南京事件

南京大虐殺ともいわれる事件。当時南京市民は約30万人(50万とも100万とも言われている)のうち、国民党は略奪のため殺戮をも平気で行うので、それを恐れて疎開した者が多数いました。なので、軍が迫ってきたときには20~25万人だろうとされてます。そして市民の多くは安全区に避難しており、日本軍による大虐殺が起きたなんて、中国側の捏造としか思えません。殺害方法においても、規律を重んじる日本兵では考えられないような残虐な内容の証言(火あぶりにして内臓を食したとか、蝙蝠のように縛って吊るしたとか)もあり、信憑性に乏しいと思わざるを得ません。

12月8日に南京攻略を開始し、13日に日本軍が入城しました。住民を保護して食料を配っている写真も現存していて、住民は歓迎すらしている様子です。しかし、20万人分の食糧があるはずもなく、全員には配られてはいないだろうと思います。

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蒋介石軍の兵は6万~10万だったらしいが、当の本人は重慶に逃げており、副将クラスの唐智生らは南京に火を放ち、夜に船で逃げていました。残された部下の兵士たちは揚子江で溺れたり、離散逃亡したり、また逃亡者を阻止しようと同士討ちをしたり、まさに地獄絵図でした。12月、日本軍が入城すると投降兵となった一部を南京政府軍に編入したり、または故郷に帰省させたりしました。市民を襲い便衣兵と化してテロを続けた兵士は、捕まって処断されてます。日本軍が住民の戸籍を作成したり、治安維持に努めたりした事実も残ってます。

実際に何人が捕まり処刑されたのか、宣教師や中国人の証言に曖昧な部分が多いのではっきりしていません。翌年1月~2月に人口が25万と増えていることからしても、中国側の言う市民への大量虐殺はありえないと思っています。

↓↓南京にある資料館に展示してある写真の、不自然さに気づけるかと思います。①の写真は南京入城する日本軍(12月17日)で、②の写真が資料館にある写真。着ている軍服の違い、わかりますよね?②の写真は清王朝末期の義和団事件だと思います。南京と直接の関係はないですよね?

南京入城

南京事件捏造写真

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しかし、しかしだ、後の東京裁判(1946~48)、ユネスコ(10人中5人は反日のCとK国の執行委がいた)の世界記憶遺産登録(2015年)、安倍首相の政府公式認定(2009年)で認めちゃってるからね。

1938年には黄河決壊事件というのがあります。日中戦争初期、国民党軍は日本軍の進撃を妨害するために、黄河の堤防を爆破してわざと氾濫させました。洪水による犠牲者は数十万人といわれ、広範囲にわたって田畑の農作物が台無しになりました。人々の犠牲をなんとも思わなかったのです。

毛沢 東

余談になりますが、建国後毛沢東の失政により、多くの人民は命を落としています。1958年から1960年の打麻雀運動(または消滅麻雀運動)でスズメを駆除した結果、毛沢東の大躍進政策では、3600万人が餓死(出生率低下で生まれなかった4000万を含めると7600万人とも)しました。また、1966年から1968年 文化大革命(紅衛兵による虐殺など)での推定死者数は数十万人から2,000万人に及んでるのです。南京の比じゃないですよね・・・。

【まとめ】

後悔先に立たず。過去においてこうすればよかった、なんてものは無意味です。未来に向けて次はこうしようと改めることができるのが、学びであり教えであろうかと思います。まさに温故知新、だと思います。

真実を隠す報道、人道に外れた政治が横行していた時代は、当時だけでなく今も続いてますよね。昔と違うのは、情報源があふれ誰でも容易に入手しやすくなったこと、ではないでしょうか。

歴史は事実の序列が必須条件ですが、捏造や隠すことをしていては、学ぶ者にとって何も生まないばかりか、その国全体の精神的成長すら止めてしまいかねません。発想や気づきを活かせる教育が、本当は大事なのです。詰め込み型・暗記型教育ではマニュアル人間しか育たないでしょう。

戦争で起こされる悲劇は、人類はもう十分学んでいるはずです。でもまだ見つけていないのです。解決方法を。たとえ頭ではわかっていても行動に移せないのです。本来はどうやったら平和に助け合って生きていけるのかを模索するのが、将来を見据えた学問ではないでしょうか。人類に与えられた使命ではないでしょうか。

国は自国を最大限に守ること、つまり公正かつ公平に国民を救う事を、とことん追求するべきではないでしょうか。そうなれば、国民は自国を愛することができるはずです。

さて、次回はK国編に取り掛かろうと思ってます。その次がA国編の予定です。でわまたお愛しましょう~






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