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求めること、願い求めること

こんにちは。カモミールです。

以前、以下の記事を書かせていただきました。

普段は1つの記事を1時間ほどでぱーっと書き上げるのですが、この記事を書いている時、なんだかはっきりと明言できない弱々しさを感じてしまいました。おそらく、僕自身が言っていることに迷いがあったり、なにかしっかりと理解できていない、整理できていない部分があったように思います。その自信のなさの表れは、この記事をTwitterで告知した時の以下のツイートにも現れていました(笑)

ブログ更新しました!
自分の考えを表現するのってとても難しいですね

そこでしばらく、考えたのです。願い求めることとはいったい何なのか。自信を持って心の底から伝えられるように今一度、整理し、またみことばは何と言っているかを正確に把握しようと思いました。

以前の記事で書いたことは、ほぼ要約するとこのようなことです。

願い求めれば御心であれば必ず叶えられる。私たちは御心を完全にいつも受け取れるかはわからないから、御心だと思うなら信じて叶えられると思い進んでいこう。たとえ御心でなくても神様は大事なことを与えてくださる。ということです。

この言いたいことは概ね間違ってはいませんがやはりみことばと照らし合わせて再度、このことについて考えてみたいと思います。

まずこのみことばから見てみましょう。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。
ヨハネの福音書 15章7節

このみことばを見た時、僕は最初、神様に留まっているなら願いは叶えられる思っていました。それはすなわち、神を信じ受け入れていて、神の御心をしようとするのであれば、それは必ず叶えられると。でも、それだけではやはり片手落ちな部分があります。それは、叶えられないこともあるからです。

このことについては僕のテーマでもありました。本当の願いを神に求めれば必ずそれは叶えられる、というのが夢見る羊飼いの最も大切なコンセプトなのですが、しかしそれと一体でいつもついてくる事実は、叶えられないこともある、ということです。願えば叶うと書いてあるのに何故叶わないのか。このことが、夢を見るということではテーマになるのではないかと思うのです。

このヨハネ15章7節のみことばが何を示しているかと言えば、わたしにとどまり、わたしのことばがあなたにとどまっているなら、です。すなわち、神と共にいる状況で、神と一体化されている状況であれば、御心を自然と行うし、それは叶えられるという、私たちが願う最終的な理想像であるのだということです。

この神が一体化されているという理想の状態は、聖化された状態と同じなのではないかなと思います。私たちの魂の部分にある罪の部分が清められて、キリストに似たものとされていく中で、聖化されていくことでより、神に喜ばれる願いを求められるようになり、それはことごとく叶えられていくのではないかと思うのです。

この状態は、私たちにとっても理想の状態です。神が私たちのうちにいて、キリストに似たもと私たち自身もその行いもされていくことはクリスチャンとしての理想ですし、願ったことがことごとく叶えられていくとはまさに理想でしかありません!まさに夢のような状態ですね。その夢のような状態になるためだけでも、聖化されたい十分な理由となるのではないかとも思いました。

しかし、理想は理想です。あくまでゴールであって、どうやってそのような状態にいくのかということです。それは、毎日聖書を読んで、祈って、伝道して、敬虔なクリスチャンっぽく生きていくことが神様の御心を理解していくということではないように思うのです。もちそん、そのようなことも大切だとは思いますが、それをすれば理想に到達するとということではないと思うのです。また、神の御心をしっかりと行えるようになってから、願い求めようでは何か少し遅い気がするのです。そこまで時間を費やして修行して、やっと理想の状態になったら自分の好きなことを願い求めていいんだ!というのであれば、なんだか宗教みたいで嫌ですよね。

それに神様はこう言っているのです。

求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
マタイの福音書 7章7節

これは注釈では、求め続けなさい、探し続けなさい、たたき続けなさい、とあります。これは神様が私たちにそうしなさいと言っているのです。そしてこのみことばの次にくる言葉はこうです。

このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもたちには良いものを与えることを知っているのです。それならなおのこと、天におられるあなたがたの父は、ご自分に求める者たちに、良いものを与えてくださらないことがあるでしょうか。
マタイの福音書 7章11節

神様は求めれば「良いもの」を与えてくださるのです。もちろん、これは必ず求めたものが与えられるということではないでしょう。しかし、求めれば必ず、全てをご存知の神様が私たちに良いものを必ずくださる、ということなのだと思います。

だからこそ、願い求めて歩んでいくべきなのです。それが、〇〇大学に合格したい、この仕事につきたい、昇格したい、世界旅行をしたい。どんな願いでもいいと思うのです。願い求め、そのために希望を持って頑張って生きようとするのです。その中で神は良いものを必ず与えてくださるのです。また、神様はその信仰を必ず祝福されると思うのです。

求め続けるということは簡単なことではありません。時に苦難があったり、大変なこともあると思うのです。挫けそうになったり、諦めそうになったりすることもあるでしょう。でも、それでも希望を持って、信仰を持って歩み続けるのです。その先に、実現の道が開かれたり、奇跡が起こったりするのです。また、その大変な訓練を通して、砕かれ、磨かれることが、聖化されることになるのでは、と思うのです。砕かれ、磨かれて、余分なものが削がれていく。そういった先に、神様の願いと一つになっていく道が用意されているように思うのです。

だから私たちは、どんな思いでも、どんな欲求でも、願い求めていく必要があるのです。その先に、多くの学びがあり、人間的にもクリスチャン的にも成長して、さらに成長された形で、願い求めることができるようになっていくのです。その成長を神様は誰よりも喜んでくださると思うのです。

そして行く先に、神様の心と一つになり、願うことが叶えられる。そんな日が来るのだと思うのです。

だからこそ、私たちは願い求める必要があると思います。願い求めた分、人は大きく成長し、本当に願いを叶えていける人になれるのだと思います。

いずれにせよ、願った先に必ず良い結果があると期待し、希望を持って歩んでいきましょう!それが夢見る羊飼いの歩みです。


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