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孤独死よりも怖いこと


 唐突ですが。

 私が家のトイレで用を足すとき、たいていトイレのドアは開けっ放しになっています。最近はヘルパーさんが来られている時もあるので、『おっと、閉めなくちゃ』と慌てて閉めるくらい、閉める習慣があまりありません。あ、外ではちゃんと閉めていますのでご安心ください(笑)

 何故?

 そう、ご想像通り、なっちの気配を感じていたいからです。


 今でこそ、少しの時間なら自分のiPadやTVを見て過ごしていてくれたりしますし余計な悪戯もしないので、数分目を離していてもとんでもない事態になっていることは殆どありませんが、彼女が幼い頃はわざと水をこぼしたり、食べられないものを口に入れたり、触って欲しくない電化製品・家具・雑貨を触っては要らぬトラブルをひっきりなしに起こしてくれていました。

 物が使い物にならなくなり廃棄処分になるだけならまだいいのですが、なっちが誤嚥したり、上から下までずぶ濡れになったり、身体中にクリームや調味料が塗りたくられていたり、時には排泄物が…(以下自粛)

 ってなことの連続なので、【目を離さない】【アンテナを常に立てておく】事は、なっちの命を守るということを第一義としながらも、その理由の大半は私の仕事を増やさないための自己防衛でもありました。

 その凄まじさたるや、アンジェルマン症候群児のいるパパママに聞けばおそらくたいていは共感してくれる事でしょう。ただ、なっちの強気な性格の要因も大きいのでエンジェルがみんなこうではありません😅

 しかし、そりゃ、もう…ほんとに…(以下自粛💦)

 あまりにも目が離せないので、少しでも何かに夢中になってくれている時間を利用して『今のうち!!』と、用事を済ませてしまおうとするのですが、その気配を敵は感じ取るのですよね。一人にされたことの仕返しなのか、たった5分にどうしてここまで汚せるの?という”お片づけ頑張れ~~!な事態”が待っています。できるだけ彼女が見えるところにいるようにし、見えないときは物音に耳を澄まし、気配を感じとる。ホント、くノ一のような生活です。

 なっちは命に関わるような重度な身体障害は持っていませんから、何らかの病気が進行して命に関わる事は健常者と同程度の可能性しかありませんが、事故で命を落とす可能性はいつも隣にありました。

 転倒・転落・誤嚥・窒息・火傷・溺水…などです。

 なっちがハタチになった時、20年経ったなぁというごく一般的な感慨はもちろんありましたが、何より『よくぞ、ここまで命を護った。なっちも私もよく生きた!』と自画自賛しましたっけ。大袈裟ですけど。いえ、本気で。

 その後、その生活は今も現在進行形です。

 そういう理由で、例えトイレといえども目を離す事は、命に関わるかもしれない事であり私の仕事を増やす事でもあったわけです。

 

 ♦︎

 私は、去年仕事を辞し家で過ごす時間が少し多くなりました。余裕をもって過ごす時間もでき、家事のほかに、手芸をしたり、パソコンに向かったり、本を読んだりする時間が持てるようになりました。

 そして、最近ネットで見かけたこの本を読みました。

 27歳の若い女性の遺品整理人さんが、孤独死やごみ屋敷の現場をミニチュアで表現して、世の中の人々に伝えたいことがいくつも書かれています。彼女は孤独死した人々を弔いながら、この事実を抱える世の中にあって私たちに何ができるか問題提起をしてくれているようでもあります。異変に気づいて少しずつ介入できれば回避できることなども提案として書かれています。

 その背後にある社会課題も実に多様で、認知症・セルフネグレクト・うつ状態・引きこもり・死別による孤独、リストラによる孤独などなど、それぞれによって解決方法も介入方法も様々です。

 私がケアマネジャーとして地域で仕事をしていた時に出会ってきた高齢者さんの中には、一人暮らしでお子さん達も遠くに居住されており滅多に親族の訪問がない方もいらっしゃいましたし、ご家族に囲まれていて何かあればいつでも援助を受けることが出来る方もおられました。そして、どんな人生を送っていらっしゃったか、経済的な事情、家族のあり方なども実に様々で100人100様でした。人生観も死生観もそれぞれですから、私も、自分の仕事はその方その方の生き方に常に寄り添う仕事だと思ってきました。

 一口に『孤独死』と言っても、その方の住環境や人的環境の是非がすなわち『孤独死』に繋がる訳ではありません。いつも気にかけてくれる家族のいらっしゃる方が、必ずしもその家族に見守られて亡くなるわけではありません。同じ敷地内の離れに住んでいるのに死後数日経って発見されたケースもあります。逆に、若い頃から天涯孤独と言いつつ独身生活を送られた方が、最期は誰かにあたたかく看取られるケースもあるんです。

 つまり、死後何週間も何ヶ月も気付いてもらえないという可能性は生きざまや近所づきあいに多少左右されるかもしれないとしても、最期の時に一人かもしれない可能性は実は誰にでもあって、その最期を自分で選ぶ事はほとんどできないし、個人の日頃の行いの善し悪しなどはほとんど関係なく、それは『運命』なのかもしれません。


 この本を読んだ時、もちろん一般論として『生きている私が今出来ることってなんだろう』と考えはしました。しかし、それ以上に、私にとって『孤独死』とはなんだろう?とも考えました。

 孤独死は辛い、怖い、不安だ。そんなことは今の私でもだいたい想像できるけれど、《それより怖いことが私にはある》そう思いました。


 なっちが一緒の時に私が死んだら、この子はどうなる?

 

 ということでした。

 私が一緒だと思って他の家族が安心して外で働いている時に私が死んでいたら、見守るためにはトイレのドアも閉められないくらい目離しできないなっちが、どれほどの時間危険に晒されるのか。それは何分なのか、何時間なのか。

 そして、一人であることをしっかりと感じとり、自分の力では母の異変をどうすることもできないとわかっている感性豊かななっちが、どんな気持ちで私のそばに居続けるのか。

 先に介護者が逝って、その後に介護されていた者が逝ってしまったというようなニュースも時々小さな新聞記事になります。

 私はそれが一番怖い。

 自分が一人で逝き、朽ちていくことよりも、なっちが死んだ私のそばで一人で居なければならない現実を想像することのほうが遥かに怖いのです。

 人生を折り返した親にはそんな恐怖があることも、こうして伝えていきたいと思いました。

 そして、そうならないように、私たち家族が彼女を抱えきりとなる生活ではなく、たくさんの方々に訪問していただき、いつも気にかけていただける生活の基盤を、今のうちに作っておかなくちゃと改めて思ったのでした。

笑顔が増えるための活動をしています。 いただいたサポートは、稀少疾患であるアンジェルマン症候群の啓蒙活動、赤ちゃんから高齢者まで住み慣れた地域で1人でも多くの方が笑顔になるための地域活動の資金として大切に使わせていただきます(^^)