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☆自己紹介②☆~高校生入学から高校2年生夏まで~

さて、長い長い自己紹介①を読んでいただきましたでしょうか(笑)
ここからも怒濤の野球人生や、人生においてすごく大事な経験もできたので
内容の濃いお話になります。
お付き合いの程よろしくお願いいたします。



高校入学!!


高校入学する前の合同練習会に参加した際に、
うわーと思ってしまったのですが、すぐに気持ちは切り替え、


レギュラー獲るぞ!

と張り切って入部。
ありがたい事に、入部3日目で1軍のAメンバーに招集していただき、
試合にも出させていただきました。そこで初打席初球でセンター前ヒット!!そして2イニングの守備機会でノーミスで上々のスタートを切る事が出来ました👏


当時の正捕手は絶対的キャッチャーでキャプテンをされている方で、
肩の調子も良くない事もあり、2番手捕手育成の為に私と同学年のライバルを交互で出場する事となりました。出場機会数は私の方が多く、監督にも「このまま夏まで順調にいけばメンバーに入れるぞ」とまで言われて、当時は天狗になるどころか、引き締まった気持ちになった事は、監督に告げられた言葉と一緒に覚えております。しかし・・・・
そこから試合に出ると、エースの方とバッテリー組んだりするもポロポロとミスばかり・・・



結論から言うと、メンバーには入れずまさかのライバルにベンチメンバー枠を獲られてしまいました・・・
メンバー発表の時、「これだけミスしたらメンバー外だな」とは思っていましたが、高校3年間のメンバー発表で一番泣きまくりました(笑)通学時間が約1時間かかるのですが、帰宅途中も悔しくて悔しくて涙が止まる事はありませんでした。

最終的には「これだけミスしたらメンバー外だな」という事は思っていたくらい、もちろん天狗になる事はなかったのですが、入部から上手くいっているときも一度も天狗になる事がありませんでした。
それは、私自身が謙虚でとかそういう事ではなく、

【環境】

がそういう風にさせてくれたのだと思います。もちろん、中学生の時に経験した悔しさも1日たりとも忘れた事がないというのもありましたが、その当時の正捕手の方には、本当に厳しくしていただきました。

上手くなりたい為に教えを乞うも
「なんで俺が教えないといけないねん」
「自分で考えろ」などその当時では中々強烈な言葉・・・(笑)

※引退されてからはすごく色んな事を教えてくれて、すごく優しい方です!!(笑)
そのほかにも強烈で中々グサッとくる言葉を掛けていただきました(笑)
しかし、その言葉があり、一度も天狗になることはありませんでした。

その厳しさが
「自分でよく観察し、見盗む事」
「人から教えてくれるのを待つ事はだめなこと」
「考える力をつけること」

など様々な気付きもありました。本当にその環境にいることができ、よかったなと思います。

高校野球は夏の甲子園を最後に新チームとなります。
当然、予選敗退の時点で引退になり、新チームが始動します。
その代はたしかベスト32で大阪府予選敗退でした。(ちなみに大阪府には毎年平均180~200校くらいあり、最大で8回勝たないと甲子園に出れないくらい激戦区です)

さて新チームが始まり、次は春のセンバツ甲子園の切符を賭けての戦いが始まります。
ここでも次こそはレギュラー獲る!メンバー外れても腐る事なく練習を積み重ねて、しっかりやってきた。後は結果を出すだけ。
そう思っていた矢先、キャッチャーからサードへのコンバートの指示がありました・・・
「キャッチャーとしての能力、こいつに負けてないし!」
「見限るの早くない!?」
「やっぱり特待生は贔屓やな」
こういうマイナスな事ばかり、考えてしまっていた時期もありました。
しかし、サードでの練習もしっかりしなければ、試合に出る事もできない。
とにかく与えられた場所で必死に頑張りました。同時に言われてはいないけどキャッチャーの練習にも混ぜてもらったり合間を縫ってピッチング練習で球を受けたりと、「キャッチャーの海老谷」を忘れてもらわないように、人よりも動く事を考えて、周りをみてやっていました。結果、サードのレギュラーも獲る事はできなかったのですが秋季大会のメンバー18名の中にギリギリ17番の背番号で入る事ができました。

ですが、やっぱり満足はしていませんし、できるはずがありません。
とにかくバットを振り、捕球練習・・・
これの繰り返しです。
そのなかで理不尽な先輩もたくさんいました。
「なんでおまえが指示できてないねん」
「あいつどうなってんねん」
などなど、意味の分からない事で怒られたり.…
ふと思うと、入部した時から

目立ちたい、アピールしたい!

の気持ちで率先して色んな事をやってきて、私の学年のキャプテン的な立場になっていたのはありました。
理不尽な事ばかりでしたが、
そういう人達には、
「絶対見返したる」
と思ってやってました。

その秋季大会はベスト32か16で敗退。(覚えてませんw)
当然近畿大会にも行けるはすがなく、
その年は試合が全く無いの走ったりトレーニングしたりする
”地獄の冬練”が始まりました。

しかし、その冬練では心身ともにすごく成長ができた事を実感する事ができ、自信がありました。

高校2年生へ【ターニングポイント<別れと出会いと絆の誕生>】



次の大会は春季大会。この大会は甲子園の切符を賭けて戦う事はなく、最高で近畿大会までです。しかし、夏の甲子園の前でもあるので、どの試合もどの大会も当然気を抜く事はできません。
もちろん欲しい背番号は【2】です。
(正捕手の背番号は2。エースナンバーは1)

しかしいただいたのは「15」でした。
内心この背番号破ったろかと思いました(笑)
また、正直サードでもかなりの成績を残したのでサードでのレギュラー番号である「5」もあり得るかなというのも頭にはあったくらい調子はよかったです(笑)

でも背番号2が欲しいからとかだけではなく、

背番号5は絶対にいらん

と思っていました。なぜなら背番号5をもらってしまうと、よりキャッチャーから離れてしまう気がしたからです。しかし、この大会が私の高校生活の中で1つの”ターニングポイント”でもありました。
この大会もベスト32で敗退したのですが、その負ける試合の前から守備固めとしてキャッチャーで出場させていただいていて、ついにフル出場させていただく事になりました。

結果負ける事にはなりましたが、この試合から正捕手として試合に出場する事ができるようになりました。

しかし、この春季大会中には”もう一つ”人生を変える出来事がありました。

それは野球部友人の死です。交通事故でした。(S君とします)

春季大会2回戦の日、交通事故に遭い、そのまま意識不明の重体で約10日間生死をさまよっていました。
春季大会の最中、息を引き取りました。
しかし、その間たくさんの”奇跡”もありました。私たち野球部員はボイスレコーダーに彼に対するメッセージを吹き込み、持っていき、ずっとイヤホンで聞かせていました。
もちろん意識が無いので、意識的に聞いていることはありません。
しかし、彼の目からは一筋の涙が・・・
そこから涙を何回も流していました。
彼に対するメッセージはしっかりと届いていたのです。

野球部は「S君を絶対に甲子園連れていく」と一致団結しました。
先述したように、春季大会は甲子園切符を賭けて戦う大会ではありませんが、負けるわけにはいかん。この気持ちだけでした。

このS君は少しヤンチャでさぼり癖もある子でした(笑)
しかし、この2回戦が終わり学校にかえってきたとき、
1人で素振りをしている姿がありました。
そこで私に一言

「えびちゃん、俺絶対今年の夏はベンチメンバー入るから!絶対頑張るから見ててや」

と言ってきたのです。普段はヤンチャでふざけたりする子でしたが、
真剣なまなざしで訴えてきました。

「うん。一緒に頑張ろう」

この一言、そしてその会話が彼との最後の会話でした。

彼とは実家も近く、自転車でも1時間かけて通学もしていた仲でした。
本当に仲が良く、先輩からも同学年からも好かれる子でした。

そしてその中でベスト32で敗退し、彼の訃報を聞きました。
この記事を書いているときでも鳥肌が立つくらい、いろんな事があり、いろんな想いが生まれました。

より一層、特に同学年での絆が深まりました。
それと同時に彼の好きな言葉

「笑顔が一番や!!」

が我々の合言葉になり、私個人でも

「日々笑進」

が大切な言葉になりました。

S君を亡くしましたが、下を向いている暇はなく
翌日からはその想いを胸にがむしゃらに練習に取り組みました。

さて見出しにある”出会い”の部分ですが、
この時に出会ったのが、前職の社長でした。
詳細は別記事にてあげますが、私の性格やキャプテンとしての立場から
「こんな子がウチに来てくれたらな・・・」と思っていただいていたようで、大学卒業時にお話しする機会があり、入社することになりました。
この方は、S君の実家の近所で会社を構え、実家もそこにありました。
よく「おっちゃん素振りみて~」と来て、よく教えていた仲だったそうです。


上級生最後の大会「夏の甲子園大会予選」開幕!の前のパピコ事件…


「S君を絶対に甲子園につれていく」
その気持ちで次に挑むのは、
夏の甲子園の切符を賭けて戦う、
上級生にとって最後の大会です。

まず先に言っておくと

僕は早く負けろ

と思っていました。

理由は1つしかありませんでした。
上級生への不信感です。

この大会からは背番号2を頂く事ができましたが、
その背番号すら返そうかと思ったくらいで、他の同級生も同じ気持ちでした。

ここまででも大変長い文章なので、簡単に説明すると、
バスにゴミが落ちている➡だれだと上級生がいう➡私たち2年生が犯人だという➡犯人に仕立てられた子がかなり怒られ・・・

こういう流れです。
このゴミについては私が責任をもってバス内で見回りしたので、
落ちているはずがありません。しかもその犯人に仕立てられた子は僕の席の横に座っており、一番先に回収しました。ちなみに、そのゴミが”パピコ”の食べた後の容器でした。なので私たちは「パピコ事件」と呼んでいます。

この一件で、犯人に仕立てられる前に当然
「だれやこのゴミ」
と監督から言われますよね。

僕には誰がやったのか。心あたりがありました。
それが犯人に仕立てられた子の先輩でライバルでした。
しかし誰も名乗り出ません。5分、10分、15分経っても
誰も手を挙げず、正直早く帰りたい気持ちもあったので、私が手を挙げ
「僕です」と名乗り出ました。もちろん監督にはめちゃくちゃ怒られました。

しかしそのミーティング後、当時のキャプテンが
「お前ちゃうやろ。○○やろ」と何故か否定し、尚且つ名指し。
その事で2年生vs3年生の大バトルが始まりました。

その翌日、私たち2年生は練習を1日ボイコットしました。
ボイコットというよりも、練習参加するなという指示もあったのです。

そして私たち2年生だけでミーティングをし、今後どうするのか等を話し合いました。
皆は
「このままずっとボイコットでいいんちゃう」
「あんな先輩たちの為に応援なんかできん」
等など、練習復帰しようという声は1人も挙がりませんでした。
しかし、私はそういう訳にもいかないと思っていましたし、その姿を後輩の1年生も見ている。かといって3年生は許す事はできない。

いろんな想いがある中で、私が下した決断は、

今日一日メッチャ綺麗に掃除を無言でする。
そして練習の終わり際に上級生・下級生が見れるタイミングで
監督に土下座して許してもらう。
この土下座はパフォーマンスの為です。

そしてこの一件で、
当時のキャプテンの方と1時間くらい話をし、
全て事実を話しました。
後日監督にも事実を打ち明けました。
また犯人に仕立てられた子は一時不登校になってしまい、その子が学校に来られるように、2年生で整え、メールや電話でメッセージを送り続けました。
結果くるようになり、その子はレギュラーだったのですぐに試合復帰。
このような事があり、夏の甲子園大会予選が開幕したのです。

結果は・・・そして新チーム結成!!

そうして始まった大会は、3回戦で敗退となり、そこで新チームとなり
私たちの代になりました。負けたその日にキャプテンに命じられ、そこで想いを打ち明けました。

「僕は絶対に暴力は許しません。たとえ、プロに行くような人が暴力奮っても辞めさせます。なので、僕は不器用だけど背中で引っ張れるよう頑張るので、ついてきてください。そしてS君を甲子園連れていこう!」

と言って、負けた日=新チーム始動日となり、より気持ちが高まり、ラスト1年が始まりました。



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☆PROFILE☆
海老谷 大樹
1994.1.18 大阪市生まれ 
男 B型

⚾球歴⚾
◇小学4年生~中学3年生
-大阪平野富士ボーイズ-
◇太成学院大学高等学校へ入学
☆主将☆
☆2010年大阪府秋季大会ベスト8☆
☆2010年大阪府21世紀枠選出☆
◇関西国際大学へ入学
☆人間科学部経営学科 地域マネジメント専攻☆
☆高等学校教員免許(公民科)取得☆
◇株式会社岩崎製作所へ入社(2016年)
営業部へ配属
☆2019年 営業部課長☆
☆2020年 営業部部長☆
☆2021年〜2024年3月 営業部部長兼経営補佐☆
☆2023年10月 FP2級取得📚
◇2024年4月〜
・First end株式会社 CMO
・株式会社エヴィスクリエイション


☑️目標の立て方
☑️分析の仕方
☑️組織の作り方
などなど、経験と結果から基づく根拠を基に発信します!

🍀好きな言葉🍀
「置かれた場所で咲きなさい」
「優れるな異なれ」
・・・表裏一体の言葉の意味。そこには「どの角度から物事をとらえ、考え実践するか」。推測ばかりではなく、やるしかない。これがスタート。

🍀好きな言葉🍀
「置かれた場所で咲きなさい」
「優れるな異なれ」
・・・表裏一体の言葉の意味。そこには「どの角度から物事をとらえ、考え実践するか」。推測ばかりではなく、やるしかない。これがスタート。









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