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絵画と法則ー片山真妃|αMと遠近法

 2024年7月19日金曜日、市ヶ谷のgallery αMで「開発の再開発 vol.6 片山真妃|αMと遠近法」を見た。片山はコンスタントに活動している作家だが、自分は飛び飛びにたまに見ている程度で、個展としては2013年、2021年に開催されたものに続き、これが三回目の鑑賞となる。今回は過去に自分が見てきたなかではもっとも広いスペースでの開催で、この作家の空間に対する意識の高さが確認できるとても良い展示となっていた。そして見ていて思ったのは、これこそまさに絵画が絵画であるべき必然性を示す展示であり、作品ではないか、ということであった。そのことについて書いてみたい。

偏っているけど、整っている展示

 ギャラリーに入って最初に感じたのは「なんか、妙にスカスカしているな…」という感覚だった。展示されているのは2枚で1組になった絵画が7点、計14枚のキャンバス作品である。けっして多い点数ではないが、極端に少ないわけでもない。並べ方によっては空間に対して過不足なく収まっているように見せることもできるだろう。しかし実際は、それとは真逆のアプローチがとられている。

 まず前提として展示されている14枚の絵は、すべてキャンバスのサイズが異なっている。どの絵も縦構図で、縦横比も似たり寄ったり(F型とP型とM型が混在する)だが、一番小さいP3号(27.3×19.0cm)から一番大きいM60号(130.3×80.3cm)まで、キャンバスのサイズ表を順番に埋めていくように、それぞれの絵の大きさが異なっているのだ。このことが通常のアプローチ、すなわち等間隔で過不足なく壁面を埋めていくような展示方法がとられない理由の一つだと推察される。

 では、そのすべてサイズが異なる絵がどのように展示されているのか? まず入口から見て右側の壁面に最小サイズと最大サイズの絵を含む4点計8枚が、大きいものから小さいものへと手前から順番に並べられている。これが展覧会タイトル「αMと遠近法」の由来であり、絵の配置による錯視効果によって縦長の展示室がより深い空間に見えるように意図されているのだ。しかし実際には、期待されているような錯視効果はほとんど感じられない。理由は明らかで、けっしてそのようには●●●●●●展示されていないからである。

 まず錯視を第一の目的とするならば、その効果を強調するべく壁全体を使って展示が行われるべきだろう。しかし4点8枚の絵は壁の奥まった部分に片寄せられるようなかたちで展示されている。入口に近い手前の部分が大きな空白になっていて、壁面の半分弱が未使用のままなのだ。遠近法を体感する空間としては、これではかなり物足りない。しかも対面する左側の壁の展示はこれに対応することなく、まったく違った様相となっている。左壁には2点4枚の絵が展示されているのだが、それぞれの作品が壁の左右に片寄せられていて、2組の絵のあいだにはかなりの間隔がある。右壁では手前側に大きな余白ができているのに対し、左壁は壁の中央部分がぽっかりと空白になっているのだ。結果として遠近法による錯視効果はおろか、なにも展示されていない壁の白面ばかりが目立つスカスカな展示に感じられてしまうのである。

 しかし、これだけ歪で偏ったインスタレーションにも関わらず、この展示には妙なバランス感覚があって、不思議に安定している。崩れそうになりながらも、ちゃんと空間の緊張感が保たれているのだ。注意深く展示を見てみると、その理由が明らかになる。たとえば作品間の空白部が目立つ左壁は奥にある隣の部屋へと繋がっていて、そこにも小さな展示空間があり、壁が折れ曲がった先の正面部分にもう1組の作品が展示されている。この繋がった壁を一つの壁面として捉えると、手前の部屋に展示された2点と奥の部屋にある1点が等間隔に配置されていることになる。つまり二つの部屋にまたがる折れ曲がった壁面上において、それぞれの作品はバランスよく整然と配置されているのだ。この3点は大きさ順に並べられていて、右壁とは違ったパースペクティブの遠近法的配置になっている。右側の壁もその先に続く正面の壁まで含めて見れば、こちらも折れ曲がった壁全体で片寄せられた8枚の絵の重みを支え、うまくバランスを取っていることになる。その捉え方だと、異なるパースペクティブの「遠近法」でありながら、作品配置による右壁と左壁の重みのバランスが吊り合っていることもわかる。かなり変則的で捩じれた均衡ではあるのだが、奥の部屋も含めたギャラリー全体の空間で見れば、空間的な緊張感が絶妙に保たれているのだ。

整っているけど、崩れている絵

 この崩れつつも整っているという奇妙なバランス感覚は、片山の描く絵の内容にも通底している。片山の絵画の特徴は、制作における規則性である。片山の制作はその多くがルールによってあらかじめ決められている。たとえば今回出品されている作品の大きさは、市販のF、P、M型のキャンバスサイズが機械的に割り振られている。対となる作品はその順番で隣り合う一番近いサイズのものが選ばれていて、この2枚では使用される絵の具の色が同じである。1組の絵は4色の絵の具で描かれていて、その色の組み合わせは明治生まれの洋画家和田三造が編纂した配色事典から採られているのだという。作品のタイトルはキャンバスサイズと使用している4色の色彩名を並べただけである。

 画面に描かれるのは両端に茎のようなものが付いた細長い楕円形で、右壁の8枚では縦長の楕円が横並びに、左壁の6枚では横長の楕円が縦並びに、どの絵でもそれぞれ4つづつ並べられている。画面中央で二分割されるかたちで楕円と背景の色が反転している。組作品の対となる絵で同じ4色が使われるので、画面内の反転を含めて1組の作品で4通りすべての色の組み合わせが展開されていることになる。

 この楕円と背景は、ともすれば色折り紙を鋏で切りぬいたコラージュのようにも見える平板な塗りで描かれているのだが、さらにその上にべっちゃりと絵の具の隆起の著しい大きなドットのようなものがいくつか置かれる。このドットは対となる2枚の絵の間に絵の具を挟んで画面同士を接触させることによって付けられている。作者の言によると画面を接触させる回数にもルールがあり、それに基づいて絵の「完成」のタイミングが決められるのだという。この作業は偶然性が高いので意に沿わない出来となることもあるが、基本的にはルールの方を優先させて、多少不本意な出来のものも「受け入れる」のだと作者は説明している

 こうしたルールへの準拠によって、絵画制作において行わなければならない重要な判断要素のいくつかについて、作者はその責任を免れている。作品のサイズや配色、タイトルの決定に加え、本来ならば絵画制作においてもっとも重要な要素のひとつとなる「どの状態で完成とするか」の判断すらも片山は放棄しているのである。規則通り行えば悩むことなく作品を完成へと導くことができるのだ。このことは特殊ではあるが、しかしまったくの例外ではない。システムを先に構築して、それに従うことで作品の完成タイミングを判断する重要性を低減させる制作法は、コンセプチュアル・アートの絵画などにおいては珍しくないからだ。

 しかし、片山の絵のユニークなところは、これだけ厳密なルールのもとで制作されながらも、結果的に出来上がった作品が全然そうは見えない●●●●●●●ことなのである。ルールに基づいて描かれたコンセプチュアルな絵画であれば、絵を見たときまず目につくのはその規則性だろう。規則に基づく整合性が第一印象で、その後細かく鑑賞していくなかでアナログ作業特有の「ズレ」にも気付きだす。しかし片山の絵の場合はむしろ逆で、規則に基づく整合性よりも先に手作業による「崩れ」こそがまず目に入る。規則性や整合性は非人間的な冷たさを生むが、片山の絵画はそれとは対極にあるプリミティブな温かさをまず見るものに感じさせる。それは片山の絵に特徴的な歪んだ形、手跡の残る塗り、ボコボコとしたマチエール、絵によって本数も間隔もバラバラなキャンバス側面の釘打ちなど、絵画の組成におけるすべての側面において見られる「不器用」の印象に基づく。

 しかし変則で偏った印象だったインスタレーションが、実は意外な整合性を持っていて緊張感のある空間であったように、片山の絵には初期印象の「プリミティブ」には収まらない妙な整合感もある。その源泉となっているのが制作における規則への準拠なのだろう。しかし「崩れ」の印象が強いため、展示と同じく絵の場合も、規則性や法則性が時間をかけて後から●●●現れることになる。これは規則性こそがまず先に目に付く通常のコンセプチュアル・アートの作品とは逆である。片山の絵においても規則に基づく法則は制作に先立って存在するが、鑑賞時にはむしろ後から発見されるものとしてあるのだ。ではそこで「発見」される法則には、どのような意味があるのか?

法則の先にある謎

 我々の目に映るこの世界の姿は、さまざまな自然法則によって成り立っている。かたちや、動きや、色や、時の流れの仕組みを遡っていくと、究極的には数式で表せてしまうシンプルな組成へとたどり着く。絵を描くことは、そうした世界を構成する仕組みの秘密に触れるための試みでもある。たとえば本展で扱われている遠近法も、二次元の平面に三次元の奥行きを錯視させるという目的のためだけに使用されるならば、それは単なる職人のための技法上の道具でしかない。絵画で遠近法が使われる真の価値は、それを描くこと(あるいは見ること)で「物は視点からの距離に比例して小さく見える」というこの世界の根幹に存在する視角の法則の不思議を実感することにこそある。絵画は我々が生きているこの世界の構造を知るための手段なのだ。

 自然界に存在する法則は、おそらく我々が感じる「美」の感覚に関係している。しかし人間は完璧に秩序だったものには、さほど美を感じない。コンピュータが描き出したグリッドをうっとりして眺めるものは稀であろう。もちろん数学的な美というものは存在するのだが、それは我々が生きている世界が数学世界のように純粋なものではなくノイズまみれな場所だからこそ、その対比で数学の純粋性が美しく見えるのだ。つまりバランスこそが重要なのである。

 手作業による「崩れ」が大きい片山の絵は、法則性がもたらす秩序とバランスをとることで、その調和の作用によって「絵画」として成立するのだ。彼女の個性でもある「崩れ」の大きさと釣り合いをとるためには、それに見合うだけの規則の厳密さが要求される。たとえば二枚の絵を合わせて絵の具を転写させる作業で、絵の状態に関わらずルールで決められた回数に達した時点で強制的に「完成」とするという作者の説明に、その厳格さがうかがえる。絵としての出来よりもルールの厳格さを優先させるのは、そこに恣意的な判断が混入することを防ぐためであろう。恣意的な判断を排除することによって初めて、規則が生む秩序は、個性に基づく「崩れ」とのバランスを確立できるのだ。

 しかしここで面白いのは、その自己を規制するルール自体は極めて恣意的に定められているということなのである。たとえば対となる絵同士で絵の具を転写する回数は、当該の色が配色辞典のなかで何回重複して登場したかに準拠しているのだという。常識的に考えて、絵の具を転写させる回数と、その色の配色辞典における出現回数とは、なんの関連もない。それはルールのためのルールか、あるいは特定の単語が聖書に何回登場するかをカウントしてそこに意味を見出すようなオカルトの類いかそのどちらかであり、合理的な理由はどこにもないのだ。そもそも和田三造による配色辞典の使用自体が恣意的なのである。片山は配色辞典の復刻版を「近美のお土産屋さん(ミュージアムショップ)」でたまたま見付け気に入ったので購入したのだと言っている。人によっては草創期の洋画家和田三造と現代日本の油絵画家である片山を繋いで、そこに美術史的な意味合いや必然性を見出そうとする向きもあるかもしれない。しかしそれは的外れだろう。そこにまったくなんの意味もないとまでは言わないが、少なくとも片山が和田三造を選択する美術史的、あるいは作品的必然性は見当たらず、偶然や個人的な関心に基づく恣意的な選択であるとしか思えないのだ。片山の過去作に様々な有名人の誕生日を基に色彩を決めるシリーズがあるが、その場合における有名人の選択と同じように「和田三造」も単に偶然や個人的関心に基づくチョイスであって、作品構造における必然性や合理的な根拠は存在しないのだろう。

 実はこのことは、我々の生きるこの世界の組成と相似している。科学の発展によって、世界の組成の根底にある様々な物理法則が明らかになってきた。しかしそうした物理法則がどうして定められているか●●●●●●●●●●●●は、科学は明らかにしていない。解明された物理法則の中には、偶然ではとても片づけられないほどシンプルで整然とした数字や式も多く存在する。しかしそれがなぜその数字か、なぜその数式なのかは誰にもわからないのだ。人によってはそこで神の存在を確信するのだろうが、法則が解明できたとしても、その法則を誰が、どのような理由で定めたのかは科学の範疇の外にあるのである。つまり自然法則の先にはまったくの謎のゾーンが広がっているのだ。

 片山の作品における法則性とそれを生み出す規則の定め方の関係も、これと同じなのである。片山の作品の鑑賞において法則性が後から現れることは既に指摘した。つまり我々は片山の絵の中に法則性を「発見」することになるのだが、これは自然観察の中で法則を見出す行為と似ている。そして自然を構成する法則が判明しても、その法則が存在する理由自体は謎であるように、片山の絵のなかの法則の秘密をたどって行っても、行きつくところは片山の個人的な関心や嗜好、思い付きといった非合理的で恣意的な「人間」という謎だけなのだ。つまり法則の先に謎がある。その構造において、片山の絵画はこの世界(宇宙)の縮図となっているのだ。

 絵画を描くこと、あるいは見ることは、この世界を構成する不思議の源泉に触れることである。絵の「完成/未完成」の判断、あるいは「いい絵/いい絵ではない」の見極めは、世界を作り上げている法則と必ずどこかで関係しているはずだ。したがって絵画が「絵画」になるとき、それはこの世界の組成の秘密に触れていることになる。片山の制作では「完成/未完成」の判断がルールに準拠することで放棄されているが、その代償として手に入れた法則性によって、彼女の絵は世界の組成をめぐる謎の一端へと迫りうる。それは片山の絵が「絵画」であるからこそ、可能になることなのだ。ルールに支配された制作法や、その規則性を打ち消すような手業による崩れ、本展に見られる作品の歪な展示配置などは、片山の絵を「絵画/非絵画」の境界線へと押しやる。しかし絵画がこの世界を構成する秘密に触れうるのは、まさにその境界線上においてなのである。今回の片山の個展は、そのことを見事に証明していたと思う。


*展示情報
開発の再開発 vol.6 片山真妃|αMと遠近法
会期:2024年6月29日–9月7日[夏期休廊:8月11日–26日]12:30-19:00 日月祝休
会場:gallery αM
住所:東京都新宿区市谷田町1-4 武蔵野美術大学市ヶ谷キャンパス 2階
URL:https://gallery-alpham.com/exhibition/project_2023-2024/vol6/

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