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壁と絵画ー境澤邦泰の絵に見る絵画の複時性

 2024年2月23日金曜日(天皇誕生日)、両国のART TRACE GALLERYで展覧会「壁と絵画」を見た。「壁と絵画」は画家の境澤邦泰と批評家の松井勝正による企画で、境澤の絵画の展示、松井と境澤の論稿が収録された冊子の出版、会期中に開催されるトークイベントの三つの柱で構成される。冊子は会場で無料で配布されていて、pdf版をwebページからダウンロードすることもできる。展示だけ見ると境澤の個展のようにも思えるのだが、敢えて松井との連名の展覧会としているのには意味があるのだろう。自分が初めて境澤の絵画を見たのは2006年に府中市美術館で開催された「第3回府中ビエンナーレ 美と価値 ポストバブル世代の7人」だった。積極的に関心を持ち始めたのは2010年頃からで、長いあいだずっとその魅力について突き詰めてみたいと思ってきた。今回は良い機会なので、三つの柱のうちイベントへの参加は叶わないが、展示と冊子の論稿を手掛かりに、境澤の絵画の魅力について考えてみたいと思う。

絵画に潜む複数の時間

 境澤邦泰の絵は、オールオーヴァーに散らされた筆触やモノクロームの色面など具体的なモチーフを持たない純抽象絵画に見える。しかし今回初めて知ったのだが、実は彼の絵はすべてアトリエの床に設置した白い布を描いたものなのだという。とはいえその事実を知っても、画面から白い布の像を識別することはできない。「白い布」は作者にとって描くことを可能にするための装置のようなもので、モチーフ自体が意味を持ってしまうことを避けるための選択なのだろう。結果としてそこには「描くこと」だけが残るわけだが、絵によってはその筆触すら消えてしまって、単色に塗りつぶされた色面となっている。鑑賞者にとっては「何も描かれていない絵」に等しい。自分が境澤の絵画に惹かれつつも、その魅力の源泉がどこにあるかが掴めずずっと謎のままだった要因の一つもそこにある。つまり手掛かりがないのである。「何も描かれていない絵」を見ている自分はいったい何を見ているのだろうか?

 今回の展示を見ていてひとつ思ったのは、境澤の絵画のなかに自分が見ているものは「時間」なのではないか?ということだった。しかもその「時間」は一種類ではない。まず制作期間の長さだ。今回の展覧会には11点の作品が出品されているが、そのうち制作年が単年表記なものは3点しかない。残りの7点は制作期間が複数年にまたがっていて、長いものは6年に上る。見方によっては、それらの絵は完成に到るまで作者が手を入れ続けたその年月の痕跡でもあるのだ。

 さらにそれぞれの絵が完成してから今日に到るまでの時間の長さがある。絵画が物質である限り、当然時間による浸食を受ける。今回の出品作11点の「完成年」は古いものでは2006年、新しいものでは今年2024年と大きく幅がある。つまり鑑賞者は会場に並べられた絵のそれぞれにおいて作者が筆を止めてから現在に到るまでの年月の長さのバラつきもまた目にしていることになる。

 それだけではない。展覧会に合わせて制作された冊子の中に、境澤の絵画がどのように描かれているのか、その制作のプロセスが連続写真として掲載されている。そこには最初はまばらだった筆触がだんだんと増えていき、ついには画面を覆い尽くして単色の色面へと到る過程が示されている。これを見ると展示されてるうちの白いキャンバスに僅かに筆触を散らしただけの絵は、この制作過程の比較的初期の段階で「完成」とされたものであることがわかる。つまり境澤の制作プロセスで示されているのは、想定された完成像に到るための途中経過ではなく、無数の「完成」とはされなかった瞬間の集積なのだ。我々が目にしているのはその無数の「完成とされなかった瞬間」を絵の具の層の下に隠したたった一つの「完成の瞬間」なのである。

 その意味ではそこに秘められているのは経てきた過去の状態だけではない。それらの絵がまだこの先も描き続けられる可能性もそこには孕まれている。境澤の制作のプロセスを知った観賞者は、疎らな筆触で成り立った絵を他の作品と比較し、その絵がさらに描き進められて変容していく様を想像することができる。それは現在の光景の中に「あり得たかもしれない未来」を見る視点である。この視点が加わることによって、境澤の絵画に含まれる「時間」はさらに複雑な様相を帯びるのだ。

 さらに考えるべきは、絵を見るものが鑑賞に要するための時間だ。冊子の論稿のなかで境澤は言語に代表される一つの時間軸に沿って継起する「線状性」に対して、絵画は見た瞬間に画面の全てが一挙に目に入ってしまう「同時性」の構造を持つという話をしている。確かに絵画の鑑賞における「時間」は、他の芸術ジャンルと比べて特異なものである。一瞬にして全体が一望できる同時性に加え、鑑賞に要する時間の長さも見るものに委ねられる。鑑賞時間の長さと鑑賞体験の関係は、見るものによって、そして絵によってまったく異なるだろう。自分にとって境澤の絵は鑑賞時間によって見え方が大きく変わる絵の最たるものだ。境澤の絵を3分しか見ないのと30分かけて見るのでは、見え方がまったく変わってくる。この時間が経つにつれて「見えているもの」が変化していく体験こそ、自分はまさに「絵画的な体験」であるのだと思う。その体験を通して境澤の絵画に潜む「時間」が冷えて固まってしまった過去のものでなく、眼前で変化し続ける「生きた時間」であるという実感が得られるのだ。

壁と絵画の違い

 本展では「絵画」とともに「壁」がテーマとされる。その理由は松井の論稿に詳しい。絵画にとってそれを掛けるための壁は不可欠なものだ。しかし1960年代以後、美術館という制度自体が批判の対象となるなか、美術館の壁に依存したメディアとして絵画は前衛美術としては衰退していく。1980年代の「ニューペインティング」の動向とともに市場に立脚した芸術として絵画は復興するが、それは歴史の忘却によって可能になったものだった。前衛美術としての絵画の歴史を引き継ぎつつ、新たな絵画の観念を刷新していくことこそが現代絵画には求められるが、それにはまず絵画が依拠し、そもそもの批判の矛先でもあった「壁」自体を問題としなければならない。絵画が自立するための新たな「壁」の確立こそが求められるのだ。それが本展で「絵画」とともに「壁」がテーマとされる理由である。

 松井の論稿では、境澤が立ち上げに尽力したアートトレイスギャラリーの公共の場でも市場に支配された商業施設でもない独自の立ち位置が評価される。当の境澤は自らの論稿で「壁」と「絵画」を同時に出現させるというアイデアを披露する。絵画の自立について、まずはミシェル・フーコーやソシュールを引いて言語の特徴である「線状性」について説明し、その線的な構造の先後関係こそが権力構造を生み出す源泉になるのだと指摘する。そして先後関係(順番)が問題となるならば、「絵画」と「壁」が同時に出現する●●●●●●●状況を創造すればいいのではないかという発想へと繋げていく。絵画と壁が「同時に出現する状況」とは、「絵画が壁に掛けられた瞬間に、壁と絵画が互いに自らを再定義できる契約関係を構築できる」ような状況であるのだという。

 境澤の言う「絵画」と同時に出現する「壁」も、単なる物理的な展示壁のことではなく、絵画を成立させるために必要な制度全般こそが念頭に置かれているのだろう。そもそも本展を通常の境澤単独の個展ではなく、松井との連名での展覧会にした意味も、そのコンセプトに基づいているのだと考えられる。単に絵画作品を見せるのではなく、絵画をめぐる言葉の問題を含め、絵画が成立する「場」自体を創出し、見せようとしているのだろう。

 しかしここでは敢えて「壁」のイメージを絵画を掛けるための展示壁に限定した上で、考察をしてみたい。境澤が言うような壁と絵画が互いに自らを再定義できるような状況を作るためには、なによりもまず両者の差異を認識することこそが必要となるだろう。では壁と絵画では何が違うのか? 材質が異なる。色が違う。壁に掛けられた絵はその厚みだけ壁から隆起している。しかしそれら物質的な相違は、それぞれが自らを再定義しなければならないほどの違いではない。 

 では絵画のイリュージョン性はどうだろうか? 絵画のなかに描かれた空間は、そこには存在しない空間を壁の上に現出させる。伝統的にはこのことこそが絵画を壁から区別する最大のアイデンティティだったのだろう。しかし写真や映像など視覚メディアが多様化したい今、それはもはや「絵画」の定義とはなるまい。

 ここで絵画における「時間」の問題が浮上するのだ。境澤の絵画に見る多層化した時間の在り方は、あきらかにそれが掛けられた背後の壁とは異なる。壁の持つ時間は線状なのである。塗り替えられたり、張り替えられたりすることはあっても、そこに刻まれる時間は一方向のみに進む単線的なものなのだ。そして壁に刻まれる時間は物質的にそれが立てられた以前にまでは遡ることができない。しかし絵画は持続的な歴史に接続することで、それが描かれたはるか以前の時間をも孕むことができる。つまり壁との対照によって、そこに含まれる時間の在り方こそが「絵画」の定義となりうることがわかるのだ。

「異物」としての絵画

 ところで根本的な疑問なのだが、そもそもなぜ絵画は前衛美術でなければならないのだろうか? 絵画が「前衛」であることの必要はなんなのか?

 絵画の歴史を持続するために絵画の観念の刷新が必要なことは論を俟たない。芸術は生き物なので絶えず刷新して行かなければ、そのジャンルは死んでしまう。伝統芸能である能や歌舞伎でさえ今なお新作が作り続けられているのはこのためだ。そしていったん途絶えてしまった芸術ジャンルは、二度と同じかたちでは復元することができない。歴史的教訓としてこのことも我々はよく知っている。故に絵画を生きた芸術ジャンルとして持続させていくためには、過去の歴史を踏まえ、それを刷新していく作業を続けていかなければならない。故に「前衛」は必要なのである。これは前提だろう。

 考えるに、そのことに加えて、絵画をこの世界に対する「異物」として機能させるためという理由もあるのではないだろうか。松井は論稿のなかで「絵画」の観念がその視覚経験を阻害することを指摘する。つまり具体的な対象が描かれていないモダニズム絵画でも、それを「純粋な絵画」だとして認識して納得してしまえば、視覚の経験はそれ以上の領域には進んでいかない。当然それが壁に掛けられても「壁」と「絵画」が互いを再定義し合うような状況は生まれ得ない。つまり「絵画」が「壁」を相対化するためには、絵画自身がなによりもまず既存の観念としての「絵画」ではなく、ひとつの新たな謎として現れなければならないのだ。絵画の観念の刷新はこうした必要のためでもあるのだと考える。

 「異物」であるということは、それを取り巻く世界を相対化するということだ。本展で扱われる「壁」は絵画を成立させる制度全般を意味するのだろうが、それはさらに拡張可能なのではないだろうか。たとえば「絵画」に対して「壁」の持つ時間が線状であるとするとき、我々の社会もその多くが単線的な時間構造によって成り立っていることに気付く。その最たる例がSNSのタイムラインだろう。線状の時間軸による極めて狭い視野のもとに、我々人間は相も変らぬ対立や権力闘争を繰り広げているのである。しかしさらに視界を広げ、我々が生きている「この世界」全体について考えるならば、それはむしろ境澤の絵画に見るような多重的な時間構造によってこそ成り立っているのではないだろうか。途中で途切れて止まった時間や、実際には起こらなかった「あったかもしれない未来」でこの世界は満ちている。線状的な時間構造の社会で生きている我々は普段そのことを見過ごし、忘れているのだ。境澤の絵画が一つの謎として我々の眼前に現れるとき、相対化され再定義を迫られる「壁」の範囲はそこまで拡張可能なのではないか。そしてそのとき「壁」と「絵画」の関係は反転し、絵画は世界を包括するものとなるのである。


*展示情報
壁と絵画 松井勝正・境澤邦泰
会期:2024年2月16日–3月12日 12:00-19:00 木曜休廊
会場:ART TRACE GALLERY
住所:東京都墨田区緑 2-13-19 秋山ビル1F
URL:https://www.kuniyasusakaizawa.com/kabetokaigahome

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