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「子どもの論理」という信念

僕は大学院で学校図書館の研究をしています。教育学を専攻にしてきたわけではありませんが、教職課程も履修しています。また、学部生時代は教育系NPOでボランティアをしていた経験もありますし、予備校でのアルバイトは6年目に突入しました。

これらに共通するキーワードは<子ども>です。ではなぜ、僕がこれまで<子ども>にこだわってきたのか。その根底には、<子ども>という存在に対するある種のリスペクトがあります。

<子ども>の「キラキラ」は、なぜこれほどまでに、僕たちの心を動かすのでしょうか?


僕は中学時代、学校が好きではありませんでしたが、一つだけ、楽しみにしている行事がありました。それが、合唱会でした。

なぜ当時の自分が合唱に惹かれたのか、今の僕にもうまく説明することはできませんし、そもそも今の僕が説明すること自体、野暮な試みでしょう。合唱に取り組むことに、何か明確な目的があったわけではありません。ただ、好きな歌を歌うことは楽しかったし、心が踊ったし、感動が背筋を貫く震えとして伝わってきた。それだけのことなのです。

今でも僕は、中学生の合唱を聴くことが好きです。プロの演奏ではなくて、中学生でないとダメなのです。もちろん、演奏技術や曲の難易度は、プロの方がずっと上です。けれども、中学生という、<子ども>から<大人>への過渡期にあって、多感な時期にあって、さまざまな思いや悩み、葛藤を抱えている生徒らが奏でる歌声は、なぜこんなにも無垢で、美しくて、涙を誘うものなのでしょうか。

これは合唱に限ったことではありません。たとえば、新聞のコラムなどで目にする、<子ども>の詩や作文にぐっと心を掴まれることもありますし、書道の作品に目を奪われることもあります。あるいは、甲子園で奮闘する高校球児たちの勇姿を楽しみにしている人も多くいるのではないでしょうか。


こうした<子ども>の活動を、仮に<大人>の冷めた視点から見れば、ただの稚拙なお遊戯にすぎないのかもしれません。しかしそれらは、たしかにキラキラと輝いていて、僕たちの心を大きく動かす力を持っている。そして僕は、こう確信しています。


<子ども>は、<大人>より弱く、<大人>より強い存在である。


しばしば、「子どものくせに生意気だ」と叱る大人がいます。「大人になったら理解できるよ」と諭す<大人>もいます。僕は、こうした<大人>にはなりたくないと思って、これまで生きてきました。なぜなら、こういう発言は、<子ども>の強さを抑圧してしまう危険性があると考えているからです。

今の僕がこう考えるに至った原体験としては、僕自身が中学時代、周りの<大人>に対する不信感に苛まれ、無神経な<大人>が自分の世界に土足で足を踏み入れてくることに対して強い抵抗感を抱いていたことがあります。たしかに、<子ども><大人>によって保護される存在であり、教育をされる存在であります。一方で<子ども>の社会には、<大人>の社会で通用する論理とは異なる独自の論理が、たしかに存在する気がしてならないのです。


ここで僕が言う「子どもの論理」とは、「子どものルール」「子どもの世界」「子どもの言語」と言い換えることもできると思います。いずれにせよ、<子ども>の思考や行為は、<大人>の理解や想像の範疇を大きく逸脱することがありうるということなのです。そして、僕が<子ども>の合唱を聴いて感動を覚えるのは、まさにその合唱が、「子どもの論理」が発露する契機になっているからではないかと、僕は考えているのです。


この考え方はともすれば、「子どもに迎合している」と批判されるかもしれませんし、「大人として子どもを教育する責任を放棄している」と解されるかもしれません。けれども僕は、「子どもの論理」/「大人の論理」という思考の枠組みを規定することによって、<子ども>の自由で創造的な活動を支えるための重要な視座を得られるのではないか。そんな気がしています。

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