メッセージ、皆様へ

こんばんは棒付きドラゴンです。近々youtube始めますがそんなことはどうでもよかったりします。

本屋大賞で話題になっている『六人の嘘つきな大学生』を読んだのでそれの感想をツラツラと。ネタバレ無視して書きますご注意を


ミステリーという道具

本作は作者の得意分野であるミステリーという形式をとっているかのように見える。しかしこれも月の裏側のように、ミステリーの裏にあるこのジャンルの正式な名称は我々に顔を出すことはない。

この本の評価は一本前に読んだ『正欲』同様すぐにインターネットで調べてみたが、やれハイテクすぎる仕掛けに興ざめだの後半の謎解きが少ないだのと文句を垂れるアホどもが居て、ずっと綾辻行人読んでろと思ってしまった。

いわば物語の謎は読者を引き付けておく撒き餌であり、それがメッセージの核になることは大抵無いという認識を持っている。(またこれをひっくり返された『封印再度』は名著だと言うのも、この文脈に乗っ取っている。)客寄せパンダによくみたら白じゃなくて黄色じゃないか。キタねぇなんて言っても動物園は入園した時点で儲かっている。貴様らはただの消費をするお客様にしかならんのであるから、作品のデキに異を唱える批評家を気取るには全てが足りない。

いささか強い論調であるが、それほどまでに、話の面白さと作品の評価が重なることを危険視していることはしっかりと書き綴っておきたいと思う。


何もない青年の辿った人生

他の5人と比べて告発される罪が軽かったと表現された最初の主人公波多野であるが、彼は何故出てきたのだろうか。

人には誰しも墓までもっていきたい罪がある。そしてそれが暴かれていってしまう場所に居合わせた時、特に自分には思い当たる節がない人間がいることを、驚くべき事実として認識されるだろうか。私もそうだから、そこにいても自分は大丈夫と、あたなも思われるか?

彼の役割はまず、前半の卑劣な人間の本性が暴かれていくときに、自分は大した悪事をしたことが無いので封筒が怖くないという視点に読者を移動させることにある。彼の視点で見た純粋な世界を何も抵抗なく読み進められた人たちは、後に卑下される、嘘つきのゴミ人間ということにされる。

この本は読み進める中で何回も登場人物の評価が変わったハズだ。それは国語の授業を義務的に受けてこられた皆様を信じることにする。そうすると二転三転する登場人物の評価の中に、情報によって善悪を決めつけている自分の存在があることに気づき始める。これが末恐ろしいことで、大どんでん返し!などというキャッチフレーズにはもう、ウキウキはできなくなってしまう。それを感じるということは、いかに世の中を知らず、一面だけを見て生きているのかが発覚することに同じだからだ。

また犯人が明らかになる後半での彼の役割は、月の裏側を調査する探偵。目先の幸せに浸る、自分に罪などないと傲慢にも思う能天気バカが後半にも効いてくる。彼は生善を疑うことを辞め、自分を裏切った人間にも何か事情があるに違いないと調査をし、『勝利した』と宣った。

どこかを抽出すれば悪で、どこかを抽出すれば善で、人はそんな単純な生き物でないという話をしているのに、彼の行動は急な善の押し付けに思えたが皆様はどうであっただろうか。彼の行動を肯定し、良かったぁなどと思った場合おそらくそれはあなた自身も人の善意の信者であると言える。この物語を貴方は、嘘つきや犯罪者、ワルモノがやっぱりいい人でしたチャンチャンで終わらせたかったハズ。最後の波多野の文が余計に思えただろう。

そう、最後の、就活の再試行を試みる、自分勝手、利己的な腹黒波多野。しかしそれは、嶌によって肯定された、人間の意志に言及したとても重要な波多野の役割だ。

ここで実は皆良いヤツでしたというガラスのように綺麗なハートフルストーリーを、それを体現していた本人がガシャァとぶち壊す構造にこそ、この小説に対する評価が眠っている。要するに人間として一つ確実に言える、かもしれない要素としては、自分の利益を元に動くことであると。その利益は時に合格、採用。または好きな人のため。しかし常に自分が価値があると思ったもののためにしか人は動かないということをキッチリ表現しきったことが、この本の真価であろうと思った。

九賀の怒り

本作のタイトルは十二人の怒れる男を意識して決められたと邪推しているのだが、九賀が怒りと言ってくれたのでその分だけ楽しめた。

彼が感じているような、システム、それを動かす社会、それを認める国、それが存在する世界への絶望に関してはかなり共鳴して苦しかったまである。

まず自分という人間が正しく周りに評価されている実感を持ちながら生きている人間は多くないと思いたい。仲間は多い方がいい。それは重さはそれぞれでも誰もが一度は感じたことがあるはずだ。試験で点が悪くても、仕事でミスをしても、そこだけで判断してくれるなと思うのが正常な人間の思考であるとしておきたい。

しかしそこにあえて言及することも無く、あるとすれば愚痴として飲みの場で吐き出し翌日の二日酔いと共に綺麗に無くなっているという人もまた少なくないだろう。しかしどうだろうか。自分が尊敬し、敬愛している彼彼女が不当な評価をされ、今後人生に関わるような転機を受け入れるしかないのを外から見てしまったら。

非力な一人がその異を唱えるには、きっと、実態がどれほど醜いかをショーにしてやるしかないのではないだろうか。

マネーの虎という番組が令和になって復活したが、そこで社長の印象的なセリフが出てきた。投資家が、「ちょっと喋ったくらいじゃ人は理解できない」なんてことを言っていた。これについては否定は無い。この本でも月のように、人の本質とは結局我々の前に憶測できこそするが、出てくることは無いと結論を出していると読み取った。だがそれはそれで皆わかっていて、その上でどう生きるか考えなきゃ、前に進むこともできないというのもまた事実である。上のセリフは次の別の投資家が「じゃあ辞めれば?」と続けることになる。

人の正体は、自分たちが見ているその人と必ず一致しないが、一致しないからとハナから理解を諦めては、表から予想することさえ出来なくなってしまう。こう結論が書かれているのは多少もの救いであった。

でもまぁ、九賀はめっちゃわかる。自分に厳しすぎるなんて言葉では修正できないほど、要は白く生きたい感情に泥臭く付き合ってしまう。人間は欠陥品なのに、正常なシステムであろうとする。これがこの世の地獄を作っている部分は、俺もあると思っていた。


終わりに

他にも水商売と飲食店の違い、自殺とそれの被害者、恋愛感情と善悪、書けるところはまだまだあるわけだが、これ以上駄文に付き合っていただくとその罪をどこかで封筒にまとめて送られてきそうなので辞めておこう。

人に見せるようの顔をする自分、それを考えると自分が普段話す相手も結局は見世物であるのだと思うと、こんなにも孤独なことは無くて本当の君を見せてと助け船を出しても、ハリボテのヨットがハネながらやってくるので余計に寒気がしてしまう。

こんなお手頃で身近な地獄があったのかと、かなり厳しい内容の本であったと思うが、これを就活のグループワークにハメこんだ解釈などはとても評価につながりました。

まぁ、俺まだ読んでないんですけど。なんちゃって

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