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自分のルーツを辿る旅

照子姉さんは目が見えない。子供のころにたぶん会った事はあるかもしれないが、僕は照子姉さんのことを覚えていない。姉さんの手をにぎり、「おばー、じゅんぎどぉ」と言うと、「あげ~、道徳うじぬくゎな~」と、手をにぎり返してきた。たぶん照子姉さんも僕のことなど覚えてはいないと思う。だけど熱をおびた手の平から懐かしさが溢れ落ちてきた。

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かつて、ゴスコの森にも4軒ほどの家が建っていた。その中のひとつが僕の父の家で、その向いにタツエお婆ちゃんの家があった。もちろん僕はその頃のことは知らない。タツエお婆ちゃんは95才位になるんだろうか、母がいつもお世話になっているみつよ姉さんのお母さんだ。

そのゴスコの森の奥には仏像墓がある。

この仏像墓、だれに聞いてもその由来はわからない。ただ、調べてみて分かったことは、1725年「笠利家」10代ごろのものらしいということだけだ。等身大の立派な地蔵と、破風式の墓石は三角型の屋根が一部崩れかけている。

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タツエお婆ちゃんの今の家の隣が照子姉さんの家だ。

僕の父の名は「道徳」そのまま「どうとく」と読む。この島ではお年寄りや目上の方に対して、尊敬の意をこめて名前の後に「うじ」をつける。僕の父は「道徳うじ」と呼ばれていた。タツエお婆ちゃんから父のことを色々聞かせてもらった。

僕の父の母(つまり祖母)は、なかなか男の子宝に恵まれなかった。悩んだ末に祖母はユタに相談に行った。そしてそのユタの助言に従いゴスコの森の仏像墓にお参りに行くと、その後すぐに男の子が産まれたそうだ。

「その子が道徳うじ、あなたのお父さんなのよ。道徳うじのお母さんは泣いて喜んだそうよ」。そうなのだ、僕の父はゴスコの神から授かった子だったのだ。

わんうやや神ぬくゎだりょんな。

運命はハブのトグロのように渦を巻いている。

照子姉さんに会ったあの日、母がボソっと呟いた「父ちゃんは本当は照子姉さんを貰うことになってたのよ」。泉家と笠利家は遠い血縁関係になるらしい。たぶん、両家の付合いの中で、そんな話が持ち上がっていたのだろう。

あの時、懐かしそうに僕の手を握り返してきた照子姉さん。運命のトグロが少しズレていたら、もしかしたら僕はこの人のお腹から産まれていたのかもしれない。そう思うと照子姉さんのことが愛おしくてたまらない。あの手の平もあの目も。

もう一度「仏像墓」に行ってきた。仏像の裏には「笠利興人道覚 行年六十九歳」と刻まれていた。父と母と照子姉さんとタツエお婆ちゃん、そしてゴスコの森に一生懸命祈った僕の祖母のことを想う。

ゴスコの森には今日も電波塔が聳えている。

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