見出し画像

#1 コンコンと音がした

タクシードライバーは各々に好みの休憩ポイントをいくつも持っている。そのいくつものポイントの中でぼくが一番好きだった場所が五反田の「かむろ坂」だ。

2012.05.18

五反田から山手通りを目黒方面に進行し、東急線の高架下をくぐって左に入ると「かむろ坂」がある。なだらかな坂道をゆっくりくねりながら上ってゆくその道は桜並木になっており、桜の季節になると見事な桜のトンネルになる。

千鳥ヶ淵や目黒川などのいわゆる「桜の名所」とよばれている華やかなとことは違い、地味で静かな隠れた桜の名所。そんなひっそりとたたずむこのかむろ坂がぼくは好きだ。

桜の時期だけではなく、多くのタクシードライバー達にとってもそこは格好の休憩ポイントになっていた。本通りから逸れたわき道なので車の往来も少なく、道路わきには公園と公衆トイレがあり、いつもドライバー達はそこで用をたしたり一服している。桜の花が散ったあとの鮮やかに色づいた緑の葉桜はもっと好きだ。そして、枯葉の季節になるとゆるやかな坂道には茶色に変わった葉っぱたちが舞う。雨のあがった明け方には、朝日に照らされた桜の木と濡れたアスファルトが眩しく反射している。

3つほどさかのぼった桜の季節のこと。大井町で若い女性とそのお母さんらしき二人連れのお客さんがご乗車してきた。このタクシーチケットの有効期限が今日までなんですよ、と女性はそのチケットをぼくに見せ、母と一緒に桜の名所巡りをしたいと言う。なるほど、明日にはただの紙切れと化すそれの有効活用としては正しい選択だ。ぼくは都内の桜スポットを何ヶ所か提案し案内した。そして帰り際、最後にどうしても行きたいところがあるんです、とお母さんが言った。

「かむろ坂の桜が見たいんです」

かむろ坂の公園脇に車を停めると、母と娘は最後の花見散歩に出ていった。ぼくは自動販売機で買った缶コーヒーを飲みながら、桜の木の下のベンチに腰かけてふたりを待つことにした。

見上げると、狂ったように咲き乱れた桜たちが街灯に照らされ、それはますます狂気を帯びた目になりぼくを見下ろしている。風が吹いた。その狂った視線は一斉に二人の女性に注がれる。ふたりはその視線を無視するかのように桜を見ながら歩いていく。風が止んだ。ぼくの前から視線が消えた。再び桜を見上げると、街灯の光を浴びた花びらたちはさっきよりも少し赤みを帯びて揺れていた。あのふたりによって浄化された狂気の破片は、ぼくの体のずっと深いところに少しずつ静かに沈殿していった。

ちょうど三本目のタバコを吸い終えた時にふたりは戻ってきた。来てよかったねー、うん、かむろ坂の桜がいちばん好き、と話しながらもう一度桜を振り返り、そしてふたりは車に乗りこんだ。

そんな3年前のことを思い出しながら桜の木の下の車内でうとうとしていると、コンコンと窓ガラスをたたく音がした。「すいません、目黒川まで行きたいんですけど」

さあ仕事だ。
ぼくはシートベルトを締め直し、ドアを開けた。

8年前に書いたものだ。さらに3年さかのぼった話なので11年前の出来事だ(笑)。ちょうど山手トンネルが出来たころに東京のタクシー会社を辞めてこの島に帰ってきたので、今じゃ山手通りもかむろ坂もすっかり様変わりしてるんだろうね。それともまだあの頃のままなのだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?