『存在と時間』を読む Part.71

  第69節 世界内存在の時間性と世界の超越の問題

 現存在には、そのうちにみずからを照らし出す「光」のようなものがあることは、第28節ですでに指摘されていました。その際には、この「光」は、現存在の実存論的で存在論的な構造から生まれたものであることが指摘されていました。「この存在者が〈照らしだされて〉いるということは、自己において世界内存在”として”明るくされているということである。すなわち他の存在者によってではなく、みずからが明るみ”である”ために、明るくされているということである」。
 この説明では、この光や明るさがどこから来るのかということは示されていませんでした。「”現存在はおのれの開示性なのである”」と語られるだけであり、この開示性をもたらすものが何であるかは、不明だったのです。ところが現存在の開示性の時間的な解明を終えたこの第69節において初めて、この光が現存在のもつ時間の脱自態の構造と、超越の働きによって生まれるものであることが明確にされるのです。
 現存在の時間性についてはすでに、「今」の連続のように断片的な瞬間のつながりではなく、将来から既往を通じて、現在に時熟する統一的な構造をそなえていることが確認されてきました。

Die ekstatische Einheit der Zeitlichkeit, das heißt die Einheit des >Außer-sich< in den Entrückungen von Zukunft, Gewesenheit und Gegenwart, ist die Bedingung der Möglichkeit dafür, daß ein Seiendes sein kann, das als sein >Da< existiert. (p.350)
時間性の脱自態が統一されていること、すなわち将来と既往性と現在という3つの〈退き〉のそれぞれにおいて「自分の外にあること」が統一されていることは、みずからの〈そこに現に〉として実存する存在者が存在することのできるための条件である。

 〈退き〉と訳した>Entrückung<という語は、第68節の(a)項では>Ekstase (Entrückung)<という形で登場していました。つまりこれは「脱自態」と同じような意味をもつ語であり、辞書的には「引き離すこと、忘我」という意味をもちます。前回のパートの最後でも説明しましたが、時間性の>Ekstase<も>Entrückung<も、>Existenz<(実存)と同様に「外に」というニュアンスをもっています。そして前回、この「外に」の性格をもつ将来、既往、現在の3つの脱自態は、統一的なありかたをしていることが示されました。この構造のもつ脱自的な性質こそが、「気遣い」としての働きのうちで、現存在を照らしだすのです。
 この気遣いこそが、現存在をその本質からして明るくしているものだからです。こうして、気遣いと脱自性の時間性の関係を解明することが重要な課題となります。

Die ekstatische Zeitlichkeit lichtet das Da ursprünglich. Sie ist das primär Regulativ der möglichen Einheit aller wesenhaften existenzialen Strukturen des Daseins. (p.351)
”脱自的な時間性が、〈そこに現に〉を根源的に明るくする”。この時間性こそが、現存在のあらゆる本質からして実存論的な構造に可能な統一を規制する第1義的な原理である。


 この節の最初のテーマは、現存在の開示性の実存論的な構造である「気遣い」が、この時間性によってどのように規定されているかという問題です。このテーマのもとでの考察は、これまでの基礎存在論の分析の全体を、時間性という観点から見直そうとするものです。こうして配慮的な気遣いもまた、気遣いもしくは時間性によって明示的に把握することができるものであることが確認されるのです。
 この総括的な考察の後に第2のテーマとして、これまで明確にされていなかった手元的な存在者にたいする配慮的なまなざしと、眼前的な存在者にたいする客観的な学問的なまなざしの違いについて解明され、さらにそうしたまなざしが生まれる根拠を吟味する作業が行われます。

Die Analyse der Zeitlichkeit des Besorgens hält sich zunächst an den Modus des umsichtigen Zutunhabens mit dem Zuhandenen. Sodann verfolgt sie die existenzial-zeitliche Möglichkeit der Modifikation des umsichtigen Besorgens zum >nur< hinsehenden Entdecken von innerweltlich Seiendem im Sinne gewisser Möglichkeiten der wissenschaftlichen Forschung. (p.351)
配慮的な気遣いの時間性を分析するにあたって、まず目配りのまなざしによる手元的な存在者との交渉という様態を手掛かりにすることにする。次に、目配りによる配慮的な気遣いが変化して、学問的な研究の一定の可能性という意味で、世界内部的な存在者を「ただ」眺めやりながら露呈させるという様態に移行してゆくことの実存論的かつ時間的な可能性を追跡することにしよう。

 これは現存在が生きる「世界」と、科学的な研究の対象である「自然」というものの意味を考えるためには重要なステップです。
 これら2つのテーマは、世界内存在の実存論的で時間的な解釈とまとめることができるでしょう。世界内存在としての現存在が、世界のうちで気遣いをしながら生きることが、時間性という観点からはどのように解明できるかを考察する必要があるのです。この解釈を遂行するために、ハイデガーが次の3つの問いを立てています。

Die thematische Analyse der zeitlichen Konstitution des In-der-Welt-seins führt zu den Fragen: in welcher Weise ist so etwas wie Welt überhaupt möglich, in welchem Sinne ist Welt, was und wie transzendiert die Welt, wie >hängt< das >unabhängige<, innerweltliche Seiende mit der transzendierenden Welt >zusammen<? (p.351)
世界内存在の時間的な構成を主題とする分析によって次のような問いが生まれた。そもそも世界というものはどのようなありかたで可能になるのか、世界はどのような意味で”存在する”のか、世界は何を、どのようにして超越するのか、「自立している」世界内部的な存在者は、超越する世界とどのように「関係する」のかという問いである。

 第1の問いは、「そもそも世界というものはどのようなありかたで可能になるのか」という問いです。この問いは、世界の内部に存在するさまざまな存在者についての問いを超えた「世界」そのものについての存在論的な問いです。この問いに答えようとするのが、(a)項「目配りによる配慮的な気遣いの時間性」です。
 第2の問いは、「世界はどのような意味で”存在する”のか、世界は何を、どのようにして超越するのか」という問いです。これは世界についての存在論的で超越論的な問いです。この問いでは、世界にたいする現存在の科学的なまなざしの可能性が主として問われることになります。この問いに答えようとするのが、(b)項「目配りによる配慮的な気遣いが、世界内部的に眼前的に存在するものを理論的に露呈することへと変様することの時間的な意味」です。
 第3の問いは、「〈自立している〉世界内部的な存在者は、超越する世界とどのように〈関係する〉のか」という問いであり、これは世界と現存在との関係について時間性の観点から問い直そうとするものです。この問いに答えようとするのが、(c)項「世界の超越の時間的な問題」です。


  (a)目配りによる配慮的な気遣いの時間性

 すでに本書では、世界に存在する存在者の大部分を占める手元的な存在者への配慮的な気遣いについて、詳細な考察が展開されてきました。こうした存在者はわたしたち現存在が日常生活において出会いつづけてきたものであり、わたしたちは世界のうちでこのような存在者とのかかわりあいのうちで生きています。このような存在のありかたは「交渉」と呼ばれていました(Part.14参照)。
 こうした存在者の重要な特徴は、それがわたしたちにとって、たんに一緒に眼前的に存在しているだけではなく、そこにある連関が存立しているということにあります。この連関には「〈あるものをもって、あるもののもとに適所をえさせる〉」という特徴があるのであり、これが適材適所性ということでした(Part.17参照)。
 これはすでに第1篇で確認されてきたことを再確認するものですが、これを新たに時間性の観点から考察すると次のことが指摘できます。

Wenn das Bewendenlassen die existenziale Struktur des Besorgens ausmacht, dieses aber als Sein bei ... zur wesenhaften Verfassung der Sorge gehört, und wenn diese ihrerseits in der Zeitlichkeit gründet, dann muß die existenziale Bedingung der Möglichkeit des Bewendenlassens in einem Modus der Zeitigung der Zeitlichkeit gesucht werden. (p.353)
”この適材適所をえさせることは、配慮的な気遣いの実存論的な構造を形成するものであり、この配慮的な気遣いは〈~のもとでの存在〉として、気遣いの本質的な機構に属するものであり、さらに気遣いは時間性に基づくものである。だから適材適所をえさせることを可能にする実存論的な条件は、時間性の時熟の1つの様態のうちに探さねばならないのである”。

 (a)項ではまず、道具との交渉の時間性について分析します。

 道具を使用する際には、その道具を使う目的が明確に意識されています。鉄を打つためには槌が必要ですし、刃を研ぐには砥石が必要です。槌を手にした瞬間からすでに、その道具をこれから何のために使おうとしているのかは、自明なこととして理解されています。

Das Wobei desselben hat den Charakter des Wozu; im Hinblick darauf ist das Zeug verwendbar bzw. in Verwendung. Das Verstehen des Wozu, das heißt des Wobei der Bewandtnis, hat die zeitliche Struktur des Gewärtigens. (p.353)
適材適所がえられる〈何のもとで〉は、〈何のために〉という性格をそなえている。この〈何のために〉に注目することで、その道具が使用可能になるのであり、使用されるのである。この〈何のために〉を理解することは、すなわち適材適所性の〈何のもとで〉を理解することは、予期という時間的な構造をそなえているのである。

 刀鍛冶師が槌を手に取るのは鉄を打つため(〈何のため〉)であり、これに予期がかかわっているのは明らかでしょう。それが刀鍛冶における適切なタイミングとやり方で遂行されることによって、槌が鉄を打つという目的を実現する場合(〈何のもとで〉)において適切なものとして使用されることになります。将来の時間性に属するこの予期という構造のもとで、既往において規定されているその操作の状況にあって相応しい使い方をすることで、同時に現在における時間性があらわになります。
 この道具の時間的な構造については、次のように表現することができるでしょう。

Das Gewärtigen des Wobei in eins mit dem Behalten des Womit der Bewandtnis ermöglicht in seiner ekstatischen Einheit das spezifisch hantierende Gegenwärtigen des Zeugs. (p.353)
この〈何のもとで〉を”予期すること”は、適材適所性が〈何とともに〉えられるものを”保持すること”と一緒になって、その脱自的な統一性のうちで、道具をそれにふさわしい形で操作しつつ現在化させることを可能にするのである。

 現存在は道具を使うとき、その仕事において配慮的な気遣いにおいて、「予期しつつ保持する現在化」という非本来的な時間性の構造のうちにあるのです。この脱自的な時間的な統一のもとで、その道具を使用する現存在は、配慮的な気遣いをしながら、その道具世界に没頭しているという特徴的な態度をとることができるようになります。ここで没頭している現存在は、世界のうちで自己を忘却している状態にあるのがつねです。自己について、自己に固有の存在可能について気遣っている状態では、鉄を打つとか、刃を研ぐという作業でも、うまくできないものではないでしょうか。このように既往の非本来的な時熟である忘却によって初めて、予期する保持の統一性のうちで、現在において仕事に専念することができるのです。
 ただし、適材適所性を暗黙のうちに意識しながらこうした仕事を行う現存在は、ある予期に導かれています。この仕事をなすことで実現される結果についての展望が、その現存在の目指すべき自己に固有の存在可能と結びついているのです。ですから、このような配慮的に気遣う現存在に固有の存在可能が、気遣いのうちで重視されていることも忘れてはならないでしょう(これについては後にさらに触れられます)。

 適材適所性のもとで道具を使っている現存在は、道具を身近な手元的な存在者としてしかみることができません。しかし環境世界における現存在のこうような存在様態を揺るがすような出来事が起こることがあります。ハイデガーはこうした出来事として、次の3つの事態を挙げています。
 第1は、使っている道具が何らかの原因のために、不具合になって使えなくなった場合です。槌を使っているうちに柄がとれてしまった場合には、現存在はもはや予期しつつ保持する現在化の脱自的な統一のうちで仕事をつづけることができなくなります。
 第2に、一連の仕事のプロセスのうちで、次に使うべき道具が見当たらないときにも、このような出来事が発生します。鉄を十分に熱した後で、それを打とうとしても、そのための槌がみつからないこともあるでしょう。そのように見当たらないことは、そこに現在化しないことではなく、期待されていたものや、これまで自由に利用できていたものが、現在化していないという意味での現在の欠如態の1つになります。
 第3に、予想していなかった事態のために、作業している現存在が不意を打たれるということもあるでしょう。鉄を熱して槌で打ちはじめたところで、予想外に槌がもろく、使い物にならなかったということもあるでしょう。そのためには別の頑丈な槌が必要となりますが、そのような槌を用意していなかったために、もはや作業をつづけられなくなることもあるでしょう。それはある手元的な存在者を予期しながら現在化させていたときに、それと適材適所性の可能な連関のうちで結びついている別の手元的な存在者のことを予期せずにいたということであり、この不意打ちもまた現存在の置かれている道具連関と適材適所性の結びつきをあらわにするのです。

 このような予期を裏切る出来事が発生した際に、そしてそのように適材適所性のもとでの作業に都合の悪いもの、邪魔なもの、危険なもの等の、一般に何らかの意味で抵抗してくるものが、克服のできないものとしてあらわになってきたのであれば、現存在がとりうる行動としては、仕方のないものと諦めるか、勘定にいれないでおくことしかできません。
 仕方のないものとして諦めるのであれば、その作業は頓挫してしまいますが、それでも別の方法で当初の目的を実現することは、まだ可能です。壊れた槌がもはや修理不可能であれば、それは仕方のないものと諦めた後に、別のハンマーを調達することができるでしょう。それでもこの仕事における時間性は維持されるのですから、この場合は次のように表現されます。

Die zeitliche Struktur des Sichabfindens liegt in einem gewärtigend-gegenwärtigenden Unbehalten. (p.356)
〈仕方のないものと諦める〉ことの時間的な構造は、予期的に現在化する”非保持”である。

 あるいは勘定にいれないのであれば、本来であれば利用できるさまざまな道具類は当てにしないようにしなければなりません。鉄を打てない槌はいくつあっても、その作業には使えないものとして勘定にいれないことにしなければなりません。ただしその場合にも、勘定にいれないことは頼りにすることができないものを計算にいれる1つの様態なのであり、これも配慮的な気遣いの時間的な構造に依拠しているのです。

Es wird nicht vergessen, sondern behalten, so daß es gerade in seiner Ungeeignetheit zuhanden bleibt. (p.356)
このものは忘れられているのではなく、保持されているのであり、”その不適切さ”において手元に保持されているのである。

 いずれにしても、このように適材適所性を揺るがす不都合な事態が生じると、現存在は道具連関のうちで気持ちよく仕事をつづけることができなくなるのであり、手元的な存在者を使いやすい道具とみなすのではなく、こうした道具連関から外れた異物として眺めることを強いられます。そのときに現存在はこのように使えなくなった道具をどのようなまなざしで眺めるのでしょうか。そこにはどのような時間的な構造が存在するのでしょうか。この問題を考察するのが、次の(b)項の役割です。


 今回は以上になります。またよろしくお願いします。

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