『存在と時間』を読む Part.49

  第48節 〈残りのもの〉、終わり、全体性

 ハイデガーはこのように、死という現象を存在論的に考察するために、動物に欠如していて、人間だけに訪れるきわめて実存的な出来事である死についての概念を検討しながら、現存在の〈終わること〉がどのようにして、実存する存在者の全体存在を構成することができるのかを示そうとします。そのためにハイデガーがまず提示したのが、次の3つのテーゼです。

1. Zum Dasein gehört, solange es ist, ein Noch-nicht, das es sein wird - der ständige Ausstand. 2. Das Zu-seinem-Ende-kommen des je Noch-nicht-zu-Ende-seienden (die seinsmäßige Behebung des Ausstandes) hat den Charakter des Nichtmehrdaseins. 3. Das Zu-Ende-kommen beschließt in sich einen für das jeweilige Dasein schlechthin unvertretbaren Seinsmodus. (p.242)
第1に、現存在には、それが存在するかぎり、やがてそのようになるはずの〈まだない〉が、普段に〈残りのもの〉としてそなわっている。第2に、〈まだ終わりに達していない存在者〉が〈みずからの終わりに達すること〉、すなわちみずからの〈残りのもの〉を決済することは、〈もはや現に存在しなくなる〉という性格をそなえている。第3に、〈終わりに達すること〉には、そのときどきの現存在にとって端的に代理されえない存在様態が含まれる。

 死とは、現存在にとっては他者によって代理されることのできない「わたしだけのもの」という性格であり、現存在が生きているかぎりは、「まだ死んでいない」存在者であり、まだ「残りのもの」を抱えている存在者です。そしてこの「残りのもの」が決済されるときが、現存在が「終わり」を迎えるときであり、それが死という出来事であるとされるのです。

 第1のテーゼが指摘するように、現存在の生と死には、本質的に「まだない(>Noch-nicht<)という性格がそなわっています。ハイデガーによれば、この「まだない」という性格には、次の4つの意味が含まれています。
 第1は、死の時間的な意味です。現存在がその時間的な生において「すでに」生まれていますが、「まだ」死んではいない存在者です。
 第2は、死の存在論的な意味です。現存在はその時点では存在していますが、その存在は失われることが運命づけられているものであり、現存在は存在論的にはつねに「死すべき」ものとして規定されている存在者です。現存在の存在は、消失すべき存在であり、その存在は「まだ」失われていないだけなのです。
 第3は、死の可能性としての意味です。現存在は「まだ」死んでいませんが、いついかなる瞬間にも、死ぬ可能性に直面している存在者です。現存在のすべての瞬間は、死の可能性によって裏打ちされています。
 第4は、死の必然性という意味です。現存在は存在論的に死すべき存在者であり、すべての瞬間において死の可能性に直面しているのですが、人間が死ぬことは可能であるだけではなく、必然的なことです。現存在はたしかに「まだ」死んでいませんが、死ぬことは避けがたいことであり、「すでに」死すべき運命のもとにあるのです。
 すなわち現存在は「まだ」死の時間を迎えていませんが、その本質からして存在論的にみて死すべき存在者であり、あらゆる瞬間に死ぬ可能性があり、「まだ」死んでいないとしても現存在が死ぬことは必然なのです。

 このように4つの意味で、現存在はすでに生まれていますが、まだ死んでいない存在者です。死は現存在にとって「終わり(>Ende<)」ですが、それはたんに人間が存在することをやめるという事実であるだけではなく、死は人間にとって目指すべき目的(>Ende<)でもあるかのようにみえます。
 ハイデガーはこのような現存在の死について、同じように〈終わり〉を迎えることで〈目的〉を実現するようにみえる他の3種類の存在者の実例と比較することで、現存在の死の特徴を考察しようとします。
 第1の実例は貸したお金の実例です。最初の状態では貸した人の手元にはお金が存在しないという欠如の状態にありますが、借りた相手がこれを段階的に返済することで、この欠如の状態が次第に少なくなり、やがては貸したお金の全額が手元に戻ってきます。この「まだない」は手元にある現金が欠如した状態から、やがては「揃った」状態に戻ることで解消されます。
 第2の実例は、上弦の月が満月になる過程についての実例です。第1の実例とは違い、月にはそもそも欠如が存在しているわけではなく、最初から最後まで完全な状態において存在しています。ここでは現存在が認識できなかった部分が「まだ」把握でき「ない」だけであり、この部分が次第に解消されることで、完全な状態が認識できるようになります。
 第3の実例は熟れていく果実の実例です。「まだ」熟れてい「ない」ために青い未完成な果実は、時の経過とともに、未完成な状態が改善されて、完全なものに成熟していくのです。

 まず第1の実例について、ハイデガーはこの「まだない」ものを、「残りのもの(>Ausstand<)」という概念で考えます。まだ変化されていないお金は、これから手元にやってくるという意味で、「残りのもの」であると考えることができるでしょう。

Der Ausdruck meint das, was zu einem Seienden zwar >gehört<, aber noch fehlt. Ausstehen als Fehlen gründet in einer Zugehörigkeit. Aussteht zum Beispiel der Rest einer noch zu empfangenden Schuldbegleichung. Das Ausstehende ist noch nicht verfügbar. Tilgung der >Schuld< als Behebung des Ausstandes bedeutet das >Eingehen<, das ist Nacheinanderankommen des Restes, wodurch das Noch-nicht gleichsam aufgefüllt wird, bis geschuldete Summe >beisammen< ist. (p.242)
この表現は、その存在者にほんらい「属する」ものが、まだその存在者には欠けていることを指すために使われる。〈残りのもの〉ということは、欠如しているものが、ほんらいはその存在者に帰属すべきものであることを根拠として言われる。たとえば金を貸したとして、その一部がまだ返済されていないときには、その残額にこの〈残りのもの〉という言葉を使う。〈残りのもの〉はまだ利用できる状態になっていない。「貸した金」がすべて返済されて、〈残りのもの〉が返済されるということは、残高の「受け取り」が行われること、すなわち残高が段階的に入金されることを意味する。それによって〈まだない〉という状態が補填されて、やがては貸した金額の全体が「揃う」のである。

 しかしこの実例で残金を示す「残りのもの」という概念は、現存在という存在者がこれから迎える死にはふさわしくないものです。>Ausstand<という語は、「未解決のままである、未決済である」などの意味の動詞>ausstehen<を名詞化した語です。この表現は、「その存在者にほんらい〈属する〉ものが、まだその存在者には欠けていることを指すために使われる」のであり、この欠如は、その存在者にもともとは存在していたものが、何らかの理由で失われたことによって発生したものです。この返済の目的は借金の全額を払い終わることであり、この目的が終わると返済も終わりを迎えます。

Ausstehen meint deshalb: Nochnichtbeisammensein des Zusammengehörigen. Ontologisch liegt darin die Unzuhandenheit von beizubringenden Stücken, die von der gleichen Seinsart sind wie die schon zuhandenen, die ihrerseits durch das Eingehen des Restes ihre Seinsart nicht modifizieren. Das bestehende Unzusammen wird durch eine anhäufende Zusammenstückung getilgt. Das Seiende, an dem noch etwas aussteht, hat die Seinsart des Zuhandenen. Das Zusammen, bzw. das darin fundierte Unzusammen charakterisieren wir als Summe. (p.242)
だから〈残りのもの〉とは、一緒にあるべきものがまだ揃っていないことを意味する。このことは存在論的には、取り揃えるべきものがまだ手元にないこと、これらのまだ手元にないものは、すでに手元にあるものと同じ存在様式をそなえていること、まだ残っているものが到着しても、手元にあるものの存在様式に変化は生じないことを意味している。いまは〈揃っていない〉状態ではあるが、これは追加することを重ねることで解決される。”まだ残りのものがあるような存在者は、手元存在者的な存在様式をそなえている存在者である”。それが〈揃っていること〉をわたしたちは”総額”と呼ぶが、この〈揃っていること〉に基づいて、それが〈揃っていないこと〉が言われるのである。

 この「残りのもの」について、その特徴をあげてみましょう。残りの未払いの金額が返済されると、もともとの資金が手元に戻ってくることになります。それまで元金は欠けた状態にあり、「一緒にあるべきものがまだ揃っていない」のです。これが「残りのもの」のある状態であり、この本来あるべきものが存在していないことが、「残りのもの」の状態の第1の特徴です。
 ただしこの状態は、返済がつづけられることで、段階的に解消されていくものであり、「いまは〈揃っていない〉状態ではあるが、これは追加することを重ねることで解決される」はずです。「残りのもの」という状態は段階的に解消される、これが第2の特徴です。
 この「残りのもの」の全額が返済されるなら、これまで返済してきた総額に段階的に追加されていくはずですが、その「残りのもの」の金額と返済総額は存在論的には同質のものです。返済された総額は、毎月の返済額の合計で構成されていますが、ある月の返済額と次の月の返済額はまったく同質のものであり、これを区別することはできません。この存在論的な同質さが、「残りのもの」の第3の特徴です。
 第4の特徴は、これから返済されるべき「残りのもの」のお金も、すでに返済されたお金も、どちらも存在論的には眼前存在者であることにあります。これらの存在者は、現存在が眼の前に積み上げることのできる性質のものであり、このお金は、他のいかなる場所に存在するお金とも交換することができる色のついていないものです。
 このように「残りのもの」は、何らかの理由で現在はそこに存在していない欠如であり、この欠如を解消する試みが行われることで、こうした欠如の状態は段階的に解消されます。欠如を解消するために使われる手段は、最初の貸付金と同じお金であり、存在論的に区別できない同質のものです。さらにこの貸し付けられた後で段階的に返済されていくお金は、貸し付ける前に手元にあったお金や、返済が終わった後に手元に戻ってきたお金と同じように、眼前的な存在者という性格をそなえています。
 このように存在論的に考察してみるなら、この「残りのもの」という概念が現存在の死を考察するために適切な概念ではないのは明らかでしょう。現存在の実存にかかわる死という出来事にたいしては、これらの4つの特徴を当てはめることはできないのです。

 現存在の死は、貸付金のように本来手元にあったものが、手元から離れて欠如し、その欠如が「残りのもの」として段階的に埋め合わされるという性格のものではないことは明らかです。それでは、このような「残りのもの」ではなく、現存在の死と同じような「まだない」という意味をもったものはないでしょうか。
 それが第2の実例として挙げられている満ちてゆく月の例です。

Mann kann zum Beispiel sagen: am Mond steht das letzte Viertel noch aus, bis er voll ist. Das Noch-nicht verringert sich mit dem Verschwinden des verdeckenden Schattens. Dabei ist doch der Mond immer schon als Ganzes vorhanden. Davon abgesehen, daß der Mond auch als voller nie ganz zu erfassen ist, bedeutet das Noch-nicht hier keineswegs ein noch nicht Zusammensein der zugehörigen Teile, sondern betrifft einzig das wahrnehmende Erfassen. (p.243)
たとえば、「満月になるまで、月にはまだ最後の4分の1が欠けている」と語ることができる。この〈まだない〉は、月を覆っている影の部分が消えていくと、減っていくのである。しかし月はそのあいだも、つねにすでに全体として眼の前に存在している。月は満月であってもその”全体を”把握することは決してできないが、それは別としても、ここでは〈まだない〉は、ほんらいそのものに属する諸部分がまだ〈揃って”存在して”いない〉ことを意味するのではなく、たんにわたしたちの知覚による”把握”がまだ行われていないことを意味するだけである。

 上弦の月から数日たって月が丸くなっていくことは、一見すると貸し金と同じように、「残りのもの」が少なくなることで、満月にいたるようにみえます。しかしこの2つの例には重要な違いがあります。
 月の満ち欠けと、貸し金の返済の違いを、すでに考察した4つの特徴について比較してみましょう。第1に満ちてゆく月は、貸し金の場合とは違って、本来あるべきものが欠如しているわけではありません。「ほんらいそのものに属する諸部分がまだ〈揃って”存在して”いない〉ことを意味するのではなく、たんにわたしたちの知覚による”把握”がまだ行われていない」だけなのです。
 第2に、たしかに月は満月まで段階的に満ちてゆきますが、それはそれまで欠如していたものが埋められていくためではありません。たんに人間の知覚によって把握できる部分が増大したというにすぎず、さらにこの増大は、欠如しているものがつけ加えられて、本来あるべきものに近づくという性格のものではありません。返済金のように、小さな部分が蓄積されて、総額に近づくわけではないのです。
 第3に、月が満ちる過程で、月は大きくなっていくように見えますが、それが月がいくつかの部分に分割されていて、その欠如していた部分が加えられるために、実際に大きくなっているわけではありません。すでに確認したように、月は最初から完全な月であり、その知覚の一部が損なわれていただけです。
 第4に、月は純粋な意味での眼前存在としての自然です。貨幣もまた眼前存在であるとしても、まず第1に手元的な存在です。たしかに人間は月の光を夜道の明かりのように利用したりすることはありますが、月は人間の使用の目的を超越した自然の存在です。これにたいして貨幣は自然に存在したものではなく、人間が特定の目的のために作りだした道具です。月と貨幣には、眼前存在者と手元存在者という存在論的な地位の違いがあります。
 このように貨幣と月は存在論的に異なるものですが、現存在は存在論的に実存するものであり、眼前存在する自然物としての月とは、さらに異なる存在者です。たしかに、実存する現存在は「まだ死んでいない」ものであり、上弦の月も自然物として「まだ満月になっていない」ものであるという共通点があります。しかし月はほんらいは完全なものとして存在しており、満ちることで知覚的にも完全になりますが、死は現存在にとって、存在論的に完全な喪失をもたらすものです。

Das zum Dasein gehörige Noch-nicht aber bleibt nicht nur vorläufig und zuweilen für die eigene und fremde Erfahrung unzugänglich, es >ist< überhaupt noch nicht >wirklich<. Das Problem betrifft nicht die Erfassung des daseinsmäßigen Noch-nicht, sondern dessen mögliches Sein bzw. Nichtsein. (p.243)
しかし現存在に属する〈まだない〉は、本人にとっても他人にとっても当面、しばらくのあいだは接近することができないことを意味するだけではなく、そもそもまだ「現実として」、「存在して」いないのである。重要なのは、現存在にふさわしい〈まだない〉を”把握する”ことではなく、そのような〈まだない〉が可能的に”存在する”か、それとも”存在しない”かなのである。

 上弦の月は人間の死とは存在論的に異なるものであることは明らかですが、ここで注目すべきことは、月は満ちることで、それまで見えなかった欠如の部分が把握されるようになり、満月になるのであり、このプロセスはそれ自体が本来の姿に移行するプロセスであるということです。この月が満ちるプロセスは、貨幣の場合の様に「追加」ではなく、目的の実現を目指した「成熟」のプロセスに類似しているようにみえます。成熟するプロセスのもとで完全なものとなる実例として、ハイデガーがあげるのが、第3の果実の実例です。

 果実の成熟の実例は、第1の実例である貸付金や第2の実例である月と比較すると明確な違いがあります。

Die unreife Frucht zum Beispiel geht ihrer Reife entgegen. Dabei wird ihr im Reifen das, was sie noch nicht ist, keineswegs als Noch-nicht-vorhandenes angestückt. Sie selbst bringt sich zur Reife, und solches Sichbringen charakterisiert ihr Sein als Frucht. Alle Erdenkliche, das beigebracht werden könnte, vermöchte die Unreife der Frucht nicht zu beseitigen, käme dieses Seiende nicht von ihm selbst her zur Reife. Das Noch-nicht der Unreife meint nicht ein außenstehendes Anderes, das gleichgültig gegen die Frucht an und mit ihr vorhanden sein könnte. Es meint sie selbst in ihrer spezifischen Seinsart. (p.243)
たとえばまだ熟れていない果実は、その成熟に向かっていく。成熟するときに、果実に〈まだない〉ものは、〈まだ眼前的に存在しない〉ものとして、その後で果実に継ぎ足されるのではない。果実そのものがおのずから成熟に向かうのであり、そのような〈みずからなること〉が、果実としての存在の特徴なのである。果実という存在者が”おのずから”成熟にいたるのでないとしたら、果実にどのようなものを外からあてがったところで、果実の未熟さを解消することはできないだろう。未熟のもつ〈まだない〉は、果実と無関係でありながら、果実に付着して、果実とともに眼前的に存在することのできるような外部の他者を指すものではない。ここで〈まだない〉が示しているのは、果実そのものであり、果実に固有の存在様式において、果実そのものを示しているのである。

 この果実が熟するという概念には、現存在の死と共通した重要な要素が含まれています。第1に、熟する果実は貸付金とは異なり、最初に完全な状態が存在し、それに欠如が生じ、それがやがて元の状態に戻るという形で完全な状態に復帰するのではありません。同じく現存在も、ある現存在が完全な状態にあり、それに欠如が発生していたわけではなく、現存在の「終わり」である死は、この欠如を埋めて、もとの完全な状態を取り戻すものではないのです。
 第2に、貨幣の場合には、全体と部分に分割され、部分が追加されることで元の全体が復帰するという、全体と部分は等質なものでした。これにたいして果実は、全体と部分に分割することはできません。未熟な果実は最初から全体として存在していますが、「まだ熟してない」し、まだ本来の意味で食べられる果実となっていないのです。同じように現存在も、まだ生きる時間を残しているという意味ではつねに「まだない」のであり、死がその「まだない」に終止符をうつのです。現存在は現存在であるかぎり、そのつどつねにみずからの〈まだない〉を存在しています。
 第3に、貨幣の場合には、最初に全体から分割された部分そのものを使いしなくても、まったく無関係なものでも、それが等質なものであれば、追加して元の全体を構成することができます。これにたいして「果実そのものがおのずから成熟に向かう」のであり、「果実にどのようなものを外からあてがったところで、果実の未熟さを解消することはできない」でしょう。果実は成熟することで本来の目的を実現するかのようです。現存在もまた、誕生の時から死を迎えるまで、あたかも死が目的であるかのように、死に向かって進んでゆきます。

 しかし果実の成熟と現存在の死には重要な違いがあります。

Wenn auch das Reifen, das spezifische Sein der Frucht, als Seinsart des Noch-nicht (der Unreife) formal darin mit dem Dasein übereinkommt, daß dieses wie jenes in einem noch zu umgrenzenden Sinne je schon sein Noch-nicht ist, so kann das doch nicht bedeuten, Reife als >Ende< und Tod als >Ende< deckten sich auch hinsichtlich der ontologischen Endestruktur. Mit der Reife vollendet sich die Frucht. Ist denn aber der Tod, zu dem das Dasein gelangt, eine Vollendung in diesem Sinne? Das Dasein hat zwar mit seinem Tod seinen >Lauf vollendet<. Hat es damit auch notwendig seine spezifischen Möglichkeiten erschöpft? Werden sie ihm vielmehr nicht gerade genommen? (p.244)
果実に固有の存在としての成熟を、〈まだない〉の未熟の存在様式と比較してみると、形式的にみて、現存在と一致するところがある。現存在も果実も、そのつどすでにみずからの〈まだない〉というありかたを”存在している”とみることができるのである(このことの意味はさらに画定しなければならない)。しかしこれは「終わり」である成熟と、「終わり」である死が、存在論的な終わりの構造において一致するということを意味しうるものではない。果実の場合には、成熟によって”みずからを完成する”。しかし現存在は死へと到達することで、これと同じ意味で完成に達するのだろうか。たしかに現存在はその死によって、「経歴を完成した」のである。しかし現存在はこれによって、現存在に固有の可能性を必然的に汲み尽くしたことになるのだろうか。むしろこれらの可能性が現存在から取り去られたのではないだろうか。

 果実は成熟することで、その本来の姿を実現します。しかし現存在は死ぬことで、その本来の姿を実現することはありません。現存在はみずからに固有の存在可能に直面することで実存している存在者であり、死は現存在がみずからの存在可能を実現することを不可能にします。死によって現存在は、みずからに「固有の可能性を必然的に汲み尽く」すことを妨げられるのであり、「これらの可能性が現存在から取り去られた」のです。死は、現存在の可能性の不可能性なのです。

Auch >unvollendetes< Dasein endet. Andererseits braucht das Dasein so wenig erst mit seinem Tod zur Reife zu kommen, daß es diese vor dem Ende schon überschritten haben kann. Zumeist endet es in der Unvollendung oder aber zerfallen und verbraucht. (p.244)
「未完成な」現存在もまた終わりに達する。他方で、現存在は必ずしもその死によって初めて成熟に達するわけでもなく、それどころか、終わりにいたる前にすでに円熟を過ぎていたということもありうる。多くの場合、現存在は未完成のままに終わるか、くずおれて憔悴して終わるのである。

 現存在は成熟によって終わるのではなく、終わることで、その成熟もまた終わることが指摘できます。そして現存在は死ぬことで、必ずしもみずからを完成することはないのです。

 このように、現存在の「終わり」としての死は、熟することで「終わり」を迎える果実とは異なり、完成と結びつくものではありません。この「終わり」という概念は、「完成」という概念とは切り離して考える必要があります。ハイデガーはさらに実例をあげ、完成と消滅という2つの終わりの意味から、終わりと死の関係の考察を深めようとします。

Enden bedeutet zunächst Aufhören und das wiederum in einem ontologisch verschiedenen Sinne. Der Regen hörf auf. Er ist nicht mehr vorhanden. Der Weg hört auf. Dieses Enden läßt den Weg nicht verschwinden, sondern dieses Aufhören bestimmt den Weg als diesen vorhandenen. Enden als Aufhören kann demnach bedeuten: in die Unvorhandenheit übergehen oder aber gerade erst vorhanden sein mit dem Ende. Dieses letztgenannte Enden kann wiederum entweder ein unfertig Vorhandenes bestimmen - ein im Bau befindlicher Weg bricht ab - oder aber die >Fertigkeit< eines Vorhandenen konstituieren - mit dem letzten Pinselstrich wird das Gemälde fertig. (p.244)
終わることはさしあたり”止むこと”を意味するが、これにも存在論的にさまざまな意味がある。「雨が止む」と言うが、そのとき雨はもはや眼の前には存在しない。「道が止む(とぎれる)」と言うが、この意味での終わることは、道を消滅させることはない。この「止む」は、その道を眼の前に存在するこの道として規定している。このように止むこととしての終わることは、眼の前に存在しない状態に移行することであるか、あるいは終わりとともに初めて眼の前に存在するようになることである。この第2の意味での〈終わること〉にもまた、2通りの意味がある。それはまず”完成されないままに”眼の前に存在しているものを規定する。たとえば建設中の道路がとぎれている場合である。あるいは最後の一筆で絵が完成するように、ある眼前的な存在者の「仕上がり」を構成することでもある。

 終わりが完成と結びついている例として、道路の建設と作品としての絵画の作成の例があげられています。道路の建設が終わるということは、その道路が完成するということであり、絵画は画家の一筆で仕上げられます。道路の場合には、手元存在者的な意味でのその機能が「~のため」の目的を実現することができるようになった時点で完成し、絵画の場合には、眼前存在者的な意味で、創作の目的が実現されて作品になった時点で完成します。
 終わりが消滅と結びついている例として、雨があげられています。雨が終わったということは、雨がもはや降っていないということであり、雨は眼前存在者としては消滅したのです。そしてもう1つ、たとえばパンが終わりになったという例をあげてみると、それは現存在がパンを食べ尽くしたということであり、手元存在者としてのパンが消滅したということを意味します。
 しかしこれらの「終わり」は、実存する現存在の「終わり」とは区別して考える必要があります。現存在における「終わり」としての死は、完成でも消滅でもないからです。

Durch keinen dieser Modi des Endens läßt sich der Tod als Ende des Daseins angemessen charakterisieren. Würde das Sterben als Zu-Ende-sein im Sinne eines Endens der besprochenen Art verstanden, dann wäre das Dasein hiermit als Vorhandenes bzw. Zuhandenes gesetzt. Im Tod ist das Dasein weder vollendet, noch einfach verschwunden, noch gar fertig geworden oder als Zuhandenes ganz verfügbar. (p.245)
”現存在の終わりとしての死は、これらの終わることのどの様態によっても適切に性格づけることはできない”。もしも死ぬことがこれまで検討してきたような種類の〈終わりに達していること〉としての終わりの意味で理解されるならば、現存在はそれによって眼前的な存在者や手元的な存在者とみなされることになる。しかし現存在は死において完成されることも、たんに消滅することもない。仕上げられることもなく、また手元的な存在者として完全に利用できるものになるわけでもない。

 ハイデガーはこれまで死を、誕生から死去にいたるまでの現存在の生涯の「全体性」という観点から考察してきました。しかしこの観点は、終末や目的の概念と強く結びついたもので、現存在の死の考察にとってあまりふさわしいものではないのです。これまで挙げられてきたいくつかの実例は、そのことを明確にするために役立つものでした。

 これまでの死の概念は、時間軸に沿って、生まれた時点から死ぬ時点までを時の流れとして把握するものでした。この観点からみると、死は、現存在がこの流れの終わりに到達して、この流れが消滅する出来事です。現存在は死ぬことで、その生涯の時を生き終えて、それぞれに別の流れを生きている人々のうちから姿を消します。これは死を時間の「流れ」として捉える概念にほかなりません。この概念では時間というものについて、それが流れるものであること、客観的で計測可能なものであること、全体の時間の流れのうちから、ある時点で始まり、ある時点で終わる線分のような時間を取り出して、それを現存在の一生と呼ぶことができること、すなわち現存在の生涯は、全体の時間のうちの部分であることを前提とするものです。
 しかしハイデガーは、死をこのように時間の流れとして捉えることは不適切なものであることを、死についての新たな概念によって示そうとしています。そして現存在にとって死は、流れとしての生涯の最後に突然のように訪れ、その現存在の存在を消滅させる突発的な事件のようなものではないことを指摘します。

So wie das Dasein vielmehr ständig, solange es ist, schon sein Noch-nicht ist, so ist es auch schon immer sein Ende. Das mit dem Tod gemeinte Enden bedeutet kein Zu-Ende-sein des Daseins, sondern ein Sein zum Ende dieses Seienden. Der Tod ist eine Weise zu sein, die das Dasein übernimmt, sobald es ist. >Sobald ein Mensch zum Leben kommt, sogleich ist er alt genug zu sterben.< (p.245)
現存在はむしろ、それが存在しつづけているかぎりは、すでにみずからの〈まだない〉を不断に”存在している”のであり、すでにつねにみずからの終わりを”存在している”のである。死という言葉で語られる終わりは、現存在が〈終わりに達していること〉を意味するのではなく、むしろこの存在者の”終わりに臨む存在”を意味するのである。死とは、現存在が存在するようになるとすぐに、現存在がみずから引きうけるありかたである。「人間は誕生したときから、すでに死ぬにふさわしい年齢になっている」のである。

 死は人間の誕生から未来において必ず訪れるものとして胚胎され、その存在と同時的にあるものです。生まれた時からすでに人間はみずからの死に向きあいつづけているとも言えるのです。
 そのことをハイデガーは、現存在を「終わりに臨む存在(>Sein zum Ende<)」という言葉で表現します。「存在はむしろ、それが存在しつづけているかぎりは、すでにみずからの〈まだない〉を不断に”存在している”のであり、すでにつねにみずからの終わりを”存在している”のである」。死によって現存在は「終わりに達する」のではなく、生きていることで、現存在はみずからの死につねに直面しつづけているのです。ここで「終わりに臨む」というのは、現存在が将来のある時点におけるみずからの死を、現存在の時点から先取りして予期していることだけを意味しているのではなく、現存在は現在のこの瞬間において、自分の死を迎えるべく存在しているということです。現存在はつねに死の可能性に貫かれているのです。
 現存在にとって死は、流れるような時間が経過した後に突然に訪れるものではなく、むしろ現存在は今の瞬間においてすでに未来の死によって貫かれつづけています。これまでの「終わり」についてのさまざまな実例との対比によって明らかになったように、この未来に訪れる死によってすでに貫かれている死の概念は、流れとしての時間の終止符としての死の概念とは明確に異なるものです。現存在の全体性についても、流れる時間の概念とその終端としての死とは異なる観点から理解すべきものであり、以後の死の考察においては、この未来から現存在を貫く死の概念について、理解を深めてゆくことになるでしょう。


 第48節は以上です。次回もまた、よろしくお願いします。

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