『存在と時間』を読む Part.15

  第16節 世界内部的な存在者においてみずからを告示する環境世界の世界適合性

 この節では、手元存在者として使用すべき道具が、何らかの理由でその使用の適性を失ったときに、眼前存在者として認識されるという事態を考察します。
 前回に引き続き、刀鍛冶の例で考えてみましょう。刀という製品を製作するためには、道具としての槌や炉、材料としての鉄などが必要です。刀匠はそうした道具に囲まれた自身の仕事場において、必要なときは無意識にそこに手を伸ばすほどに、どこに何があるかを把握しているでしょう。ところが熱した鉄を打とうとして手に取った槌の柄がとれてしまったとします。柄がなければ鉄を打つことはできず、槌はそのとき道具としての機能を失ってしまいます。
 柄がとれるその瞬間まで、槌は道具として手元に存在していました。しかしそれが使える道具ではないことが明らかになったとき、それは「目立つ」ものとなります。それまでは槌はあるべき場所に配置され、その存在は無意識に手が伸びるほどに意識されない目立たないものでした。しかし今、それが使えないものとなったとたんに、それは邪魔なもの、場所ふさぎなものとして目立つようになるのです。
 この使える道具が、使えない場所ふさぎな邪魔ものに移行するプロセスをハイデガーは重視します。現存在の日常性は、わたしたちの生活のごくありきたりで意識されないありかたとして、ほとんど無意識的なものとなっていますが、この無意識的なありかたを意識にのぼらせるには、「欠如」を示すという方法が必要だと指摘されます。欠如というのは、否定的で消極的な事態ではありますが、ふだん意識されずに自明であると思われていたことを意識にのぼらせることができるという意味では、積極的な意味をそなえているのです。

Zur Alltäglichkeit des In-der-Welt-seins gehören Modi des Besorgens, die das besorgte Seiende so begegnen lassen, daß dabei die Weltmäßigkeit des Innerweltlichen zum Vorschein kommt. Das nächstzuhandene Seiende kann im Besorgen als unverwendbar, als nicht zugerichtet für seine bestimmte Verwendung angetroffen werden. Werkzeug stellt sich als beschädigt heraus, das Material als ungeeignet. Zeug ist hierbei in jedem Falle zuhanden. Was aber die Unverwendbarkeit entdeckt, ist nicht das hinsehende Feststellen von Eigenschaften, sondern die Umsicht des gebrauchenden Umgangs. In solchem Entdecken der Unverwendbarkeit fällt das Zeug auf. Das Auffallen gibt das zuhandene Zueg in einer gewissen Unzuhandenheit. Darin liegt aber: das Unbrauchbare liegt nur da, - es zeigt sich als Zeugding, das so und so aussieht und in seiner Zuhandenheit als so aussehendes ständig auch vorhanden war. (p.73)
世界内存在の日常性には、配慮的な気遣いという存在の様態が含まれるのであり、これによって現存在が配慮的に気遣われた存在者と出会うときに、世界内部的なものの世界適合性とでもいうものが前面に現れてくる。配慮的な気遣いをするうちに、ごく身近に手元存在する存在者が、使用できないものであったり、特定の用途にそぐわないものとして出会われたりすることがある。工作道具が損傷していたり、材料が不適切なものだったりした場合である。このどちらの場合にも、"道具"はたしかに手元に存在しているのである。しかしその道具がこのように、使用できないものであることを露呈させるのは、その特性を眺めやって確認するまなざしではなく、それらを使用する交渉において目配りするまなざしである。そしてその道具は、使用できないことが露呈されることで、目立つものとなる。手元に存在する道具が"目立つもの"となるのは、それが何らかの形で手元にあるのではない状態になることによってである。使うことのできないものが、ただそこにあることを告げているのである。そうしたものはしかじかの外見の道具的な事物としてみずからを示すが、その手元存在性において道具であるように見えながらも、実はたえず眼前存在者としても存在していたことが明らかになるのである。

 道具において発生した欠如が明らかにするのは、その道具は、それが道具として使用できていたあいだは、それが道具的な存在であることすら忘却され、意識されなかったとしても、それが道具として使えなくなり、それを使おうとする現存在の意図が挫かれた瞬間に、その存在が「目立つもの」となるということです。これが第1の欠如の存在様態です。壊れることによって道具が目立つものとなるというこの様態は、道具について3つの重要なことを教えています。
 第1に、それが道具という手元存在であったことです。刀匠は仕事場で複数の道具によって構成された道具連関のうちにいます。この道具連関の環境世界は、刀匠が生活のうちでみずから構成したものです。槌にしても大槌と小槌など数種類があり、それぞれに適した用途について熟知しています。こうした道具の配置も、すべてそこで作業を行う刀匠が作りあげた環境世界です。だからこの刀匠が、他の刀匠の仕事場で作業をしようとすると、途端にぎこちなくなるでしょう。他人の仕事場は他人の道具連関の世界であり、次の動作に必要なものがどこにあるのか、探さねばなりません。それほどにわたしたちは自分の道具連関の世界に馴染んでいるのです。
 第2に、このような道具連関に含まれる道具が壊れたりして使用できなくなると、その欠如によって、その道具がもともとどのようなものであったのかが明らかになることです。鉄を打つ際に槌の柄がとれてしまったとします。すると槌は頭と柄とにわかれますが、柄がとれたことで、槌の頭は鋼材であったこと、柄の材質は樫であったことがはっきりと自覚されるでしょう。材料となった金属は大地から掘り出されたものであり、木製の柄は樹木から取られたものです。これらのものは道具に加工されるまでは自然物だったのであり、道具はその素性からすれば、眼前存在者だったわけなのです。道具は、「その手元存在性において道具であるように見えながらも、実はたえず眼前存在者としても存在していたことが明らかになる」のです。
 第3に、この眼前存在という性格は、壊れた道具において欠如性としてかいまみられるだけであり、それはすぐに忘れられるということです。柄がとれた槌は、修理されるべきものとして、道具の予備軍とみなされます。修理さえすれば、それはもとの道具に戻ります。だから、それはたんに現前しているだけの事物として、眼前存在者になったわけではないのです。

 道具はまた、たんに壊れることで、その使用不可能性を示すだけではありません。

Der besorgende Umgang stößt aber nicht nur auf Unverwendbares innerhalb des je schon Zuhandenen, er findet auch solches, das fehlt, was nicht nur nicht >handlich<, sondern überhaupt nicht >zur Hand ist<. Ein Vermissen von dieser Art entdeckt wieder als Vorfinden eines Unzuhandenen das Zuhandene in einem gewissen Nurvorhandensein. Das Zuhandene kommt im Bemerken von Unzuhandenem in den Modus der Aufdringlichkeit. Je dringlicher das Fehlende gebraucht wird, je eigentlicher wird das Zuhandene, so zwar daß es den Charakter der Zuhandenheit zu verlieren scheint. Es enthüllt sich als nur noch Vorhandenes, das ohne das Fehlende nicht von der Stelle gebracht werden kann. Das ratlose Davorstehen entdeckt als defizienter Modus eines Besorgens das Nur-noch-vorhandensein eines Zuhandenen. (p.73)
また配慮的に気遣う交渉においては、そのつどすでに手元に存在するものの"範囲内で"、使用できないものと出会うだけではなく、それとは別の形で不在なものをみいだすこともある。その不在なものは、そこに存在しないものであるが、それはたんに「手頃ではない」ものであるというよりも、そもそも「手元にない」ために欠けているものである。このようにして不在のものが露呈されるということは、手元に存在していないものに気づくということであるから、これもまたある意味では、手元に存在するものが、たんなる眼前的な存在として露呈されることでもある。あるものが手元にないことに気づかれると、手元存在者のほうは、"催促がましさ"という様態を示すようになる。不在なものが差し迫って必要になればなるほど、それが手元にないことがますます本来の意味で明らかになればなるほど、手元にあるものはますます催促がましいものとなる。やがては手元に存在するものが、手元に存在するものという性格を失いそうになるほどである。その手元存在者は、そこにないものなしでは使うことのできないもの、たんに眼前的にしか存在しないものとして現れてくる。現存在がそのようにして途方に暮れてその前で立ち尽くすことによって、手元的な存在者は、<もはやただ存在するだけ>という眼前存在という性格をそなえていることが、配慮的な気遣いの欠如的な様態として、露呈されるのである。

 すべての道具は、1つの道具連関を構築しています。必要な槌がそろっていても、熱い鉄を叩くための金床がなければ鉄を打つことはできません。そして金床があったとしても、表面に傷のついたものでは満足のいく作業はできないでしょう。金床に問題があるために、槌で満足のいくように鉄を打つことができないのであれば、傷のついていない平らな金床を用意することが望ましいはずです。槌は、良い金床がいまそこで「手元にない」ことを痛感させます。槌はそれに見合う金床を「催促する」のです。このようにして、「あるものが手元にないことに気づかれると、手元存在者のほうは、"催促がましさ"という様態を示すようになる」のです。そして手元にある槌は、良い金床という「そこにないものなしでは使うことのできないもの、たんに眼前的にしか存在しないものとして現れてくる」ことになります。この欠如の存在様態は、手元存在者が、その手元存在性のゆえに、眼前存在者となることを示すものであり、手元存在性と眼前存在性の相互的な関係を示していると言えるでしょう。

 そしてさらに、欠如の存在様態には第3のものがあります。それは「邪魔になる」ことです。

Im Umgang mit der besorgten Welt kann Unzuhandenes begegnen nicht nur im Sinne des Unverwendbaren oder des schlechthin Fehlenden, sondern als Unzuhandenes, das gerade nicht fehlt und nicht unverwendbar ist, das aber dem Besorgen >im Wege liegt<. Das, woran das Besorgen sich nicht kehren kann, dafür es >keine Zeit< hat, ist Unzuhandenes in der Weise des Nichthergehörigen, des Unerledigten. Dieses Unzuhandene stört und macht die Aufsässigkeit des zunächst und zuvor zu Besorgenden sichtbar. Mit dieser Aufsässigkeit kündigt sich in neuer Weise die Vorhandenheit des Zuhandenen an, als das Sein dessen, das immer noch vorliegt und nach Erledigung ruft. (p.73)
配慮的に気遣われた世界と交渉することにおいて、現存在がこれとは別の形で、「手元にないもの」をみいだすことがある。それは手元にあるものが使用できなくなったからでも、端的に欠如しているからでもない。欠如しているわけでは"ない"し、使用できないわけでも"ない"のに、配慮的な気遣いにとって「妨げとなる」手元存在として現れることがあるのである。配慮的な気遣いが構っていることのできないもの、それに構う「時間がない」ものなどは、場違いなもの、まだ片づいていないものという形で、手元に"ない"ものなのである。こうした形で手元にないものは邪魔になるものであり、まずさしあたり配慮的な気遣いが必要なものの"煩わしさ"を浮き彫りにするのである。この煩わしさはこれまでとは別な形で、手元に存在するもののもつ眼前存在としての性格を告げる。こうしたものはわたしたちの前にいわば居座っていて、片づけられることを求めるのである。

 槌で鉄を打つ作業を行う際には、刀の注文書が近くにあっても邪魔になるだけです。こうした注文書が作業中のその場においてあるなら、炉に入っていた鉄の熱によって燃えてしまうかもしれません。注文書それ自体は、刀という製品の製作を指示する1つの道具です、しかし、それが適切な場所に配置されていないときには、「配慮的な気遣いにとって<妨げとなる>手元存在として現れることがある」のです。鉄を打っているときには、注文書は「それに構う<時間がない>もの」という形で、「場違いなもの、まだ片づいていないものという形で、手元に"ない"もの」になっています。この注文書は、仕事の妨げとなるために煩わしいものであり、道具として「手元に存在するもののもつ眼前存在としての性格を告げる」のです。その眼前存在者としての性格のために、「わたしたちの前にいわば居座っていて、片づけられることを求める」ものとなるのです。

 このように手元存在者もまた、欠如の存在様態において、それがもともとは眼前存在者であったことを明らかにすることがあります。ただしこのように手元存在者が眼前存在者になったとしても、それは完全に眼前存在者になってしまったわけではなく、つねにそれが道具であることをわたしたちに告げつづけています。
 重要なのは、道具においてはこの手元存在性と眼前存在性がつねに共存していることです。わたしたちは道具を道具として使いながら、その道具的な性格をあらためて意識することがありません。これが主題的に意識にのぼってくるためには、その手元存在者としての性格が欠如することが必要だったのです。欠如によって、それが日常の生活のうちで必要な道具であり、それに必要な場を占めるものであったことが示されるのです。

 これまで道具には、つねに「~のため」という性格がそなわっていることが強調されてきました。あらゆる道具は、何らかの目的をそなえて存在しているのです。しかし道具には、すでに考察してきたような欠如によって初めてあらわになる逆説的な性格があります。それをハイデガーは「そのもの性」という用語で考察します。

Die Struktur des Seins von Zuhandenem als Zeug ist durch die Verweisungen bestimmt. Das eigentümliche und selbstverständliche >An-sich< der nächsten >Dinge< begegnet in dem sie gebrauchenden und dabei nicht ausdrücklich beachtenden Besorgen, das auf Unbrauchbares stoßen kann. (p.74)
道具として使われる手元存在者の存在構造は、さまざまな指示関係によって規定されている。現存在が、ごく身近にある「事物」に固有で自明なものとしてそなわっている「そのもの性」に出会うのは、それらの事物をとくに注目せずに使用する配慮的な気遣いにおいてであり、場合によってはこうした気遣いは、使用できないものに直面することもある。

 この「そのもの性」は >An-sich< を訳したものであり、この語はすでに、前節における、「"手元存在性は、<そのものとして>存在している存在者の存在論的でカテゴリー的な規定である"」とされた文において使用されていました(Part.14参照)。この文では、道具のような手元存在者の「存在論的でカテゴリー的な規定」として、「手元存在性」をあげています。ここで「存在論的」という語が示しているように、手元存在性は存在論的な目配りのまなざしにによって眺められるときに明らかになる道具の存在性格です。また「カテゴリー的な」という語は、存在者にどのようなカテゴリーを適用すべきかという問いを示すような言葉です。こうした「存在論的でカテゴリー的な規定」がなされた場合、「そのものとして」存在している道具が手元存在者であることが規定されると言われているのです。
 この >An sich< という概念は、ヘーゲルの弁証法の重要な概念であり、そこでは「即自」と訳されるものです。即自的な存在は、自己についてまだ意識していないあるがままのありかたのことであり、石のように、空間のうちにただ存在しているだけのありさまを指します。その意味で、道具が「そのものとして」存在するということは、道具の道具性についての意識がまだ生まれていないことを示しています。前節において、道具は手元存在性というありかたを「そのものの存在」としてそなえていると指摘されていました(同参照)。道具は、それが道具であることすら意識されずに手元存在者として存在しているのです。
 配慮的な気遣いのもとでは、槌は打つ道具として自明なものとして使用されるだけであり、その存在論的な性格が問われることはありません。上記の引用では、「現存在が、ごく身近にある<事物>に固有で自明なものとしてそなわっている<そのもの性>に出会うのは、それらの事物をとくに注目せずに使用する配慮的な気遣いにおいて」であるとされています。道具にそのものの存在として出会うのは、道具連関が目配りのまなざしにとって主題的になっていないことが必要なのであり、この注目されない目立たなさにおいて、道具的な存在者のそのものの存在に出会うことができるとされるのです。
 このように道具の「そのもの性」は、目配りという存在論的なまなざしにおいて初めてあらわにされますが、それは目配りが注目し、意識するようになったときには、すでに失われているという逆説的な性質をそなえています。道具の手元存在性があらわになるのは、すでに道具がその自明な用途を失ったときなのです。

 ここでハイデガーは世界の概念について、1つの重要な結論を示しています。この節の冒頭では、以下のようなに述べられています。

Welt ist selbst nicht ein innerweltlich Seiendes, und doch bestimmt sie dieses Seiende so sehr, daß es nur begegnen und entdecktes Seiendes in seinem Sein sich zeigen kann, sofern es Welt >gibt<. Aber wie >gibt es< Welt? Wenn das Dasein ontisch durch das In-der-Welt-sein konstituiert ist und zu seinem Sein ebenso wesenhaft ein Seinsverständnis seines Selbst gehört, mag es noch so unbestimmt sein, hat es dann nicht ein Verständnis von Welt, ein vorontologisches Verständnis, das zwar expliziter ontologischer Einsichten entbehrt und entbehren kann? Zeigt sich für das besorgende In-der-Welt-sein mit dem innerweltlich begegnenden Seienden, d. h. dessen Innerweltlichkeit, nicht so etwas wie Welt? Kommt dieses Phänomen nicht in einen vorphänomenologischen Blick, steht es nicht schon immer in einem solchen, ohne eine thematisch ontologische Interpretation zu fordern? Hat das Dasein selbst im Umkreis seines besorgenden Aufgehens bei dem zuhandenen Zeug eine Seinsmöglichkeit, in der ihm mit dem besorgten innerweltlichen Seienden in gewisser Weise dessen Weltlichkeit aufleuchtet? (p.72)
世界そのものは、世界内部的な存在者の1つではない。世界は世界内部的な存在者を規定しているのであり、世界が「与えられている」からこそ、これらの存在者が出会われ、露呈される存在者として、その存在においてみずからを示すことができるのである。それでは世界はどのようにして「与えられている」のだろうか。現存在が存在者的には世界内存在によって構成されており、現存在の存在には、自己についての存在了解が本質的にそなわっているのだとすると、個の存在了解がどれほど無規定なものであるにせよ、現存在は世界を何らかの形で了解しているのではないかーそれがまだ明確な存在論的な洞察を欠いた、あるいは欠いている可能性のある前存在論的な了解であるとしてもである。配慮的な気遣いをする世界内存在にとっては、世界内部的に出会う存在者とともに、すなわちそうした存在者の世界内部性が示されるとともに、何か世界のようなものがみずからを示しているのではないだろうか。この世界という現象は、前現象学的なまなざしのうちに入ってくるのではないか。それはすでにつねにこのようなまなざしのうちに存在していて、ただ主題的に存在論的な解釈を求めていないだけではないのだろうか。現存在みずからが配慮的な気遣いをしながら、手元に存在する道具に没頭しているときに、その状態において現存在自身は特定の存在可能性のもとにあるのではないか。この存在可能性において、配慮的に気遣われた世界内部的な存在者と"ともに"、この存在者の世界性が、何らかのありかたで現存在に閃くように示されるのではないだろうか。

 ここでは4つの問いが列挙されているのがわかります。第1の問いは、世界内存在でも世界内部的な存在者でもない世界は、どのようにして与えられているのかという問いです。
 第2の問いは、現存在は前存在論的にせよ、世界がどのようなものであるかをすでに了解しているのではないかという問いです。
 第3の問いは、現存在に世界が現れるのはどのようにしてであるかという問いです。この世界は、すでに現存在が暗黙のうちに了解していたものであり、それが存在論的に了解されるときに、現存在に現れるのではないでしょうか。
 第4の問いは、世界が現れるのは、手元存在者への配慮的な気遣いにおいてではないかという問いです。ある特定の可能性のもとで、「配慮的に気遣われた世界内部的な存在者と"ともに"、この存在者の世界性が、何らかのありかたで現存在に閃くように示される」ことがあるのではないでしょうか。
 これら4つの問いをまとめると、次のように表現することができるでしょう。現存在は「与えられた」世界に生きているが、それを存在論的に了解しているわけではない。それではどのようにすれば、配慮的な気遣いのうちに没頭していた現存在に、道具的な存在者の世界性と、現存在自身の世界性が、すなわち世界というものが、「閃くように示される」ことがありうるだろうか。
 これらの問いへの答えは、次のように総括するようにして示されます。以下の引用文は2つ前の引用文の続きとなります。

Ein Zeug ist unverwendbar - darin liegt: die konstitutive Verweisung des Um-zu auf ein Dazu ist gestört. Die Verweisungen selbst sind nicht betrachtet, sondern >da< in dem besorgenden Sichstellen unter sie. In einer Störung der Verweisung - in der Unverwendbarkeit für ... wird aber die Verweisung ausdrücklich. Zwar auch jetzt noch nicht als ontologische Struktur, sondern ontisch für die Umsicht, die sich an der Beschädigung des Werkzeugs stößt. Mit diesem umsichtigen Wecken der Verweisung auf das jeweilige Dazu kommt dieses selbst und mit ihm der Werkzusammenhang, die ganze >Werkstatt<, und zwar als das, worin sich das Besorgen immer schon aufhält, in die Sicht. Der Zeugzusammenhang leuchtet auf nicht als ein noch nie gesehens, sondern in der Umsicht ständig im vorhinein schon gesichtetes Ganzes. Mit diesem Ganzen aber meldet sich die Welt. (p.74)
ある道具が使用できないということは、その道具にそなわる<~のため>としての用途を、<そのために>という使い道に向けて構成的に指示することが妨げられるということである。こうした指示はそれとして考察されることなく、配慮的に気遣いつつ、そうした指示にしたがうときに、「現にそこに」存在しているのである。しかしこの"指示が妨げられると"、~のために使用することができないことによって、こうした指示がはっきりと姿を現すことになる。ただしその場合にも、それはまだ存在論的な構造として示されるわけではなく、道具の損傷に直面した目配りにとって、存在者的にあらわになるだけである。このようにそれぞれの<そのために>という使い道を示す指示が、目配りによってあらわにされてくると、この使い道そのものが見えてくる。そしてそれとともに道具連関が、全体の「仕事場」が、しかも配慮的な気遣いがつねにすでに働いていた場所として、あらわにされてくるのである。道具連関は、まだ見たことがない全体としてではなく、目配りにおいてすでに最初からたえず眺められていた全体として、閃いてくるのである。そしてこの全体とともに、世界がみずからを告げるのである。

 ここでは、現存在が日常的に住んでいる世界が「道具連関」の世界であることが示されるのは、道具の使用可能性が欠如することによってであることが、結論的に語られています。この日常の世界はあまりにも自明で、現存在にとってはその存在が意識されることはありません。それが意識されるようになるのは、こうした道具連関の機能が喪失した場合です。その欠如によって、「そしてそれとともに道具連関が、全体の「仕事場」が、しかも配慮的な気遣いがつねにすでに働いていた場所として、あらわにされてくる」のです。この道具連関は、「目配りにおいてすでに最初からたえず眺められていた全体として、閃いてくる」のであり、「この全体とともに、世界がみずからを告げる」のです。

Was so aufleuchtet, ist selbst kein Zuhandenes unter anderen und erst recht nicht ein Vorhandenes, das das zuhandene Zeug etwa fundiert. Es ist im >Da< vor aller Feststellung und Betrachtung. Es ist selbst der Umsicht unzugänglich, sofern diese immer auf Seiendes geht, aber es ist für die Umsicht je schon erschlossen. (p.75)
閃いてくるのは、ほかのさまざまな手元存在者のうちにある1つの手元存在者ではないし、ましてや手元にある道具を何らかの形で基礎づけているような"眼前的な存在者"でもない。そこで閃くのは、あらゆる確認と考察に先立って「そこに現に」ある存在である。目配りはつねに存在者だけに向けられるものであるから、このまなざしにはこの「そこに現に」ある存在には近づくことができないが、これはそのつどすでに目配りに開示されているものである。

 閃いてくる「そこに現に」ある存在とは、道具連関の世界のことでした。この連関そのものは、「ほかのさまざまな手元存在者のうちにある1つの手元存在者ではないし、ましてや手元にある道具を何らかの形で基礎づけているような"眼前的な存在者"でもない」ものです。「開示」という語については序論の説明の際にも述べましたが(Part.2参照)、「あけ開く」とか「あけ開かれている」ことを意味する用語として使用されます。道具連関が「そのつどすでに目配りに開示されている」というのは、それが目配りにとってあけ開かれているということであり、世界内部的な存在者を対象とする目配りを可能にするような、暗黙の前提になっているものだということです。

Daß die Welt nicht aus dem Zuhandenen >besteht<, zeigt sich u. a. daran, daß mit dem Aufleuchten der Welt in den interpretierten Modi des Besorgens eine Entweltlichung des Zuhandenen zusammengeht, so daß an ihm das Nur-vorhandensein zum Vorschein kommt. Damit im alltäglichen Besorgen der >Umwelt< das zuhandene Zeug in seinem >An-sich-sein< soll begegnen können, müssen die Verweisungen und Verweisungsganzheiten, darinnen die Umsicht >aufgeht<, für diese sowohl wie erst recht für ein unumsichtiges, >thematisches< Erfassen unthematisch bleiben. Das Sich-nicht-melden der Welt ist die Bedingung der Möglichkeit des Nichtheraustretens des Zuhandenen aus seiner Unauffälligkeit. Und darin konstituiert sich die phänomenale Struktur des An-sich-seins dieses Seienden. (p.75)
世界が手元存在者によって「構成されている」のではないことは、これまで解釈してきた配慮的な気遣いのさまざまな様態において世界が閃いてくるとともに、手元存在者の非世界化が起こり、そこにおいて<たんに眼前的に存在するだけのもの>というありかたが浮かび上がってくることからもわかる。「環境世界」の日常的な配慮的な気遣いにおいて、手元にある道具に「そのものの存在」で出会うことができるためには、目配りが「没頭している」指示連関とそれらの全体的な関連が、目配りにとって主題的にならずにいること、まして目配りではない「主題的な」把握にとって、あくまでも非主題的なままであることが必要である。手元存在者がその目立たなさから抜けださないでいることが可能となる条件は、世界が"みずからを告げないこと"である。この目立たなさにおいて、この存在者の<そのものの存在>の現象的な構造が形成される。

 「構成されている」と訳した語は >bestehen< という動詞ですが、これは>aus< と一緒になって使用されることで、「~から成り立つ、構成されている」という意味を示します。道具連関の世界は手元存在者から成り立っているのではないと言われます。これまでの考察から、欠如を通して「世界が閃いてくるとともに、手元存在者の非世界化が起こり、そこにおいて<たんに眼前的に存在するだけのもの>というありかたが浮かび上がってくる」と指摘されるように、欠如において手元存在者は世界と切り離されることがあります。注意すべきは、手元存在者と世界とは別の存在であるということです。道具連関とは、「目配りにおいてすでに最初からたえず眺められていた全体」のことであって、手元存在者としての道具とは異なる存在なのです。世界というときには、手元存在者の集合というように把握しないようにしましょう。

Wenn die Welt aber in gewisser Weise aufleuchten kann, muß sie überhaupt erschlossen sein. Mit der Zugänglichkeit von innerweltlichem Zuhandenen für das umsichtige Besorgen ist je schon Welt vorerschlossen. Sie ist demnach etwas, >worin< das Dasein als Seiendes je schon war, worauf es in jedem irgendwie ausdrücklichen Hinkommen immer nur zurückkommen kann. (p.76)
ところで世界がある形で閃いてくることがありうるならば、世界はそもそもすでに開示されていたのでなければならない。目配りの配慮的な気遣いが、世界内部的に存在する手元存在者に近づくことができるようになることで、世界はすでにあらかじめ開示されているのである。そうだとすると世界とは、現存在が存在者としてもともとすでに「そのなか」で存在して"いた"ところであり、現存在がそこにどうにかして到達しようとしたとしても、つねに戻ってくるという形でしか到達できないところである。

 道具連関の世界には、次の5つの特徴があると考えることができます。第1の特徴は、この環境世界は、現存在が出会う世界のすべてではなく、そのうちの1つにすぎないことです。道具連関が作りだす環境世界は、現存在の根本機構としての世界内存在一般の1つの契機にすぎないのであり、世界内存在のその他の契機においても、現存在に閃くようにして、またほかの世界が開示されるのです。
 第2の特徴は、道具連関の作りだす環境世界は、現存在にとってはごく自明なものであり、道具の機能が失われることによって、道具を使用しようとする目配りに初めて閃いてくるものなのです。
 第3の特徴は、環境世界は、それがわたしたちにおいて本来の機能をはたしているときには、わたしたちには無意識的で目立たないものとなっていることです。それが目立つようになり、わたしたちに世界が閃いてくるようになったときには、その本来の機能が失われているという逆説的な性格がそなわっているのです。
 第4の特徴は、この逆説のために世界とは現存在が「もともとすでに<そのなか>で存在して"いた"」ところであり、しかも世界が現れるためには、「そのなか」の自明性が失われ、「到達しようとしたとしても、つねに戻ってくるという形でしか到達できない」ことにあります。
 第5の特徴は、このように世界は手元存在とともに現存在が生きているところでありながら、その手元存在の機能が喪失されるときに初めて「閃く」ものであり、そのときに手元存在とは異なる存在のカテゴリーである「眼前存在性」があらわになることです。道具は手元的に存在していながら、その手元存在性が失われることで、実はたえず眼前存在者としても存在していたことがあらわになるのです。

In-der-Welt-sein besagt nach der bisherigen Interpretation: das un thematische, umsichtige Aufgehen in den für die Zuhandenheit des Zeugganzen konstitutiven Verweisungen. Das Besorgen ist je schon, wie es ist, auf dem Grunde einer Vertrautheit mit Welt. In dieser Vertrautheit kann sich das Dasein an das innerweltlich Begegnende verlieren und von ihm benommen sein. Was ist es, womit das Dasein vertraut ist, warum kann die Weltmäßigkeit des Innerweltlichen aufleuchten? Wie ist näherhin die Verweisungsganzheit zu verstehen, darin die Umsicht sich >bewegt<, und deren mögliche Brüche die Vorhandenheit des Seienden vordrängen? (p.76)
これまでの解釈によると世界内存在とは、道具全体の手元存在性を構成するさまざまな指示にたいして非主題的に、しかし目配りしつつ没頭しているありかたのことである。配慮的な気遣いは、世界との親しみ深さに基づいて、そのつどすでに配慮的な気遣いとなっている。この親しみ深さのおかげで、現存在は世界内部的に出会うものに没頭してしまい、それに心を奪われがちなのである。現存在がこのように親しんでいるものは何だろうか。そして世界内部的なものの世界適合性が閃いてくることができるのはどうしてだろうか。目配りがその中で「動き」、ときどきそれが中断されることで、存在者の眼前存在性があらわになってくるこの指示連関の全体というものは、どのようにすればさらに深く理解できるだろうか。

 これらの問いは、世界性の現象と問題とを浮き彫りにすることを目指す問いであり、これらの問いに答えるためには、これらの問いが向けられている構成連関の構造をさらに具体的に分析する必要があります。この作業は次節に引き継がれます。


 第16節は以上になります。第9節からこの第16節までが、光文社古典新訳文庫の『存在と時間』の第2分冊にあたります。

 序論のときと同様に、今回も記事執筆のために大いに参考にさせていただきました。

 次回は第3章のAの続きからとなります。

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