『存在と時間』を読む Part.12

 前の節では、世界内存在の素描が行われ、重要な概念がいくつか登場しました。そこで、ここまでに登場した概念をドキュメントで確認してみましょう。

 まずは >In-der-Welt-sein< で、これは「世界内存在」です。その下に >Das Wie des Daseins: phänomenologische Untersuchung.< と書かれていますが、これは「現存在が"どのように"あるかー現象学的な探究」と訳せます。次に >In-der-Welt-sein< のすぐ下、左側から順に >Welt< >Selbst< >In-Sein< となっています。これらはそれぞれ、「世界」「自己」「内存在」となりますが、このnoteでは第12節の文にしたがって、「世界内」「存在者」「内存在」と訳しています。

 現段階では以上です。それでは第13節に入っていきましょう。

  第13節 基礎づけられた様態による内存在の例示。世界認識

 第12節では、現存在にとっては、みずからの生と一体のものである世界と世界内存在は認識するのが困難なものであり、そこにさまざまな誤解や歪曲が発生すると指摘されていました。この節では、この困難な問題を主観と客観のモデルという観点から考察しますが、まずは世界を解釈するにあたって生じる誤謬について概観しておきましょう。

 世界の解決における第1の誤謬は、現存在は世界のうちで生きているというその生のありかたをそのものとして解釈し、把握しようとするのではなく、それを「認識」しようとする伝統的な哲学の傾向です。認識するということは、対象をあるものとして把握し、それを言語化することです。ハイデガーの師にあたるフッサールの現象学では、世界の存在については、それを宙づりにした後に、純粋な自我から世界を構成するという方法で、世界を認識することが重視されてきました。こうした構えでは、現存在が世界と向き合ったとき、現存在はあたかも世界の外にあるかのようであり、世界を認識する主観となったかのようです。この視点からみると、現存在は客観である世界からいかなる影響もうけない主観であるか、外部の世界を宙づりにすることのできる純粋自我であり、こうした主観や自我から世界を認識することができるとみなされることになります。前回の節でハイデガーは、こうした事情について、「"おのれ自身を"、世界を認識するものとして、<心>と世界の模範的な関係と考えてしまう。そうすると世界について認識すること(思考すること)が、あるいは「世界」について語りかけ、論じあうこと(語り)が、世界内存在の第一義的な様態として機能してしまう」と指摘していたのでした(Part.11参照)。
 こうした考え方では、世界のうちで生きる現存在のありかたである世界内存在そのものは把握されなくなってしまいます。これは認識論的な誤謬と呼ぶことができるでしょう。
 世界の解釈における第2の誤謬は、伝統的な哲学においては、世界を「広がりのあるもの」とみなす傾向があることです。これはデカルトが世界を「広がりのあるもの」(レス・エクステンサ)と呼び、世界を認識する人間の精神を「考えるもの」(レス・コギタンス)と呼んで対立させたことからも明らかでしょう。すべての事物を広がりという視点から考察するとき、人間ですら身体を見るときには広がりあるものとみなされます。これは人間を含めたすべての存在者を、主観の眼の前に存在する眼前存在者であると考えることですが、人間は事物のような眼前存在者ではないということは、これまで指摘されてきました。すべてのものを眼前存在者とみなす視点は、人間の実存のありかたを完全に無視することになります。すなわち、存在者の存在様式についての存在論的な差異を無視することになるのです。
 こうした視点からは、人間という現存在と世界との関係を考察する際にも、この存在論的な差異を無視せざるをえません。そして存在するということについても、世界内部的な存在者を存在論的な手掛かりとして、すなわち眼前存在として、把握することが試みられるのです。これは存在論的な差異を無視する誤謬と呼べるでしょう。
 世界の解釈における第3の誤謬は、認識する現存在と認識される対象の関係を、主観と客観の対立という不適切な構図に依拠して考えることにあります。この構図では、認識する主観である人間は能動的な存在者であり、認識される客観である世界は受動的な存在者であるとみなされます。このような考えにおいては、能動的な主観が一方的に、受動的な世界を認識すると想定されています。このような想定は、わたしたちの現実の認識行為の背景となっているものであり、ごく自明なものとして把握されています。しかし「それだけに、この前提の存在論的な必然性が、そして何よりもその存在論的な意味が暗がりのうちに放置されているならば、これはきわめて災いに満ちた前提なのである」と言われます(Part.11)。これは主観・客観論の陥穽の誤謬と呼べます。
 これら3つの誤謬によって、世界を客観的に存在する眼前存在者として認識するという前存在論的な理解が発生します。そのとき、人間が現存在として、世界の中で影響を受けながら実存しているという存在論的な事態は無視されるのです。

 第13節の課題は、第1の「認識論的な誤謬」についてと、その背後にある第3の「主観・客観の陥穽の誤謬」についてを具体的に考察しながら、世界内存在についての理解を深めることにあります。ここからは原文も交えつつみていきましょう。
 認識という営みそのものは、客観的な対象のもとにはみあたらず、それは認識する存在者のもとだけに属するものです。しかし認識作用は、認識する存在者にとっても眼前にあるという形で存在するものではなく、身体的な特性のように、現存在にとって外面的なものとして確認できるものではありません。すると認識作用は、現存在の内的なものであると想定されることになります。

Sofern nun das Erkennen diesem Seienden zugehört, aber nicht äußerliche Beschaffenheit ist, muß es >innen< sein. Je eindeutiger man nun festhält, daß das Erkennen zunächst und eigentlich >drinnen< ist, ja überhaupt nichts von der Seinsart eines physischen und psychischen Seienden hat, um so voraussetzungsloser glaubt man in der Frage nach dem Wesen der Erkenntnis und der Aufklärung des Verhältnisses zwischen Subjekt und Objekt vorzugehen. (p.60)
認識作用は現存在という存在者に属するものであるが、それが外面的な性質のようなものではないとすれば、それは「内的」なものであるに違いない。そして認識作用がさしあたり、そして本来は「内部に」あるものであることが確認されると、さらにそもそも身体的な存在者や心的な存在者としての存在様式をまったくそなえていないことが明確にされるようになる。そしてこの状況がさらに強調されるようになると、認識の本質を問うときに、そして主観と客観の関係を解明するときには、それだけいかなる前提もなしに考察しているかのように思い込まれるのである。

 ここで「内」を表現する語として、>innen< と >drinnen< という2つの語が提示されています。どちらにも同様に「内側」という意味があるのですが、ハイデガーはこの2つを使い分けているようです。上記の引用文をみますと、「認識作用がさしあたり、そして本来は<内部に>あるものであることが確認されると、さらにそもそも身体的な存在者や心的な存在者としての存在様式をまったくそなえていないことが明確にされるようになる」と指摘されていますが、このときの<内部に>は >drinnen< が使用されています。ですから認識作用についての「内」という性格を表現する際、それについて本来的に理解する場合には >drinnen< という語が選ばれると読み取ることができます。こうした理解において、認識作用が「内部に(ドリネン)」あるものであることが確認されると、デカルトがいうような「広がりをもつもの」や「考えるもの」の存在様式が無効になると述べられているのです。このような本来の「内」ということが理解されるなら、「認識の本質を問うときに、そして主観と客観の関係を解明するときには、それだけいかなる前提もなしに考察しているかのように思い込まれる」ようになるのです。

 かくしてそれは大きな問題を孕むことになります。

Denn nunmehr erst kann ein Problem entstehen, die Frage nämlich: wie kommt dieses erkennende Subjekt aus seiner inneren >Sphäre< hinaus in eine >andere und äußere<, wie kann das Erkennen überhaupt einen Gegenstand haben, wie muß der Gegenstand selbst gedacht werden, damit am Ende das Subjekt ihn erkennt, ohne daß es den Sprung in eine andere Sphäre zu wagen braucht? Bei diesem vielfach variierenden Ansatz unterbleibt aber durchgängig die Frage nach der Seinsart dieses erkennenden Subjekts, dessen Seinsweise man doch ständig unausgesprochen immer schon im Thema hat, wenn über sein Erkennen gehandelt wird. Zwar hört man jeweils die Versicherung, das Innen und die >innere Sphäre< des Subjekts sei gewiß nicht gedacht wie ein >Kasten< oder ein >Gehäuse<. Was das >Innen< der Immanenz aber positiv bedeutet, darin das Erkennen zunächst eingeschlossen ist, und wie der Seinscharakter dieses >Innenseins< des Erkennens in der Seinsart des Subjekts gründet, darüber herrscht Schweigen. Wie immer aber auch diese Innensphäre ausgelegt werden mag, sofern nur die Frage gestellt wird, wie das Erkennen aus ihr >hinaus< gelange und eine >Transzendenz< gewinne, kommt an den Tag, daß man das Erkennen problematisch findet, ohne zuvor geklärt zu haben, wie und was dieses Erkennen denn überhaupt sei, das solche Rätsel aufgibt. (p.60)
なぜなら、そのように考えることで初めて、解決すべき問題が発生しうるからである。その問題とは、認識するこの主観は、どのようにして自分の内的な「領域」から外にでて、それとは「異なる外的な」領域に到達することができるのかという問題であり、認識作用はそもそもどのようにして対象をもちうるのかという問題であり、主観が他の領域にあえて飛躍するという冒険をしなくても、結局は対象を認識することができるとすれば、その場合には対象そのものはどのようなものであると考えられねばならないかという問題である。しかしこのように問いの出発点をさまざまに提起してみても、認識を営むこの主観の存在様式についての問いはつねに放置されたままである。この認識する主観の認識について議論されるときには、この主観の存在方式がつねに暗黙のうちにでも、主題となっているはずなのにである。たしかにこうした主観の内面とか、「内的な領域」というものは、「箱」や「容器」のようなものとして考えてはならないことは、しきりに強調されてきたことである。しかし認識作用がさしあたり包まれているこの内在のもつ「内面」というものが積極的に何を意味するのか、また認識作用にそなわるこの「内的存在」という存在性格が、主観の存在様式のうちにどのように根拠づけられているかと問い掛けてみても、ただ沈黙が返ってくるだけである。このような内的領域についてどのように解釈が加えられるにせよ、認識がいかにしてこうした内的領域から「外に超えでて」、「超越」することができるのかという問いばかりが立てられていることから判断すると、たしかに認識という問題構成は立てられたものの、このような謎を提起する認識そのものがどのように成立しているか、またどのようなものであるのかということが、あらかじめ明瞭にされていないのは明らかである。

 ここで発生する第1の難問は、「認識するこの主観は、どのようにして自分の内的な<領域>から外にでて、それとは<異なる外的な>領域に到達することができるのかという問題」です。これが可能であると考えるのは、認識する主観のうちに、「主観の内面とか、<内的な領域>」のようなものが存在し、それを通じて世界と交渉していると考えることになります。この難問が発生するのは、認識作用を担当する審級が、主体のうちに特別に存在するかのように考えることに起因しています。
 第2の難問は、「認識作用はそもそもどのようにして対象をもちうるのかという問題」にかかわるものです。このような問いに答えるためには、カントが現象と物自体を区別したように、認識する主観と、認識される客観の存在論的な身分がどのように異なるのかを明確にする必要があります。こうした身分の違いを明らかにしないで、人間が超越して外部の世界を認識すると考えても、現象とはその存在の性格が異なる物自体をどのようにして認識できるのかという新たな難問が提起されるだけでしょう。主観の内的領域が世界と交渉するための器官のようなものだと想定されるとしても、「認識作用にそなわるこの<内的存在>という存在性格が、主観の存在様式のうちにどのように根拠づけられているか」という問題がまったく解明されていないために、結局新たな問題が生まれるばかりになります。

 このように、出発点を主観の内的領域に設定したのでは、認識という現象に付随する難問が提起されることになります。こうした想定の代わりにハイデガーが指摘するのは、そもそも認識作用とは世界内存在の1つの存在様態であって、その存在者的な基礎づけは、世界内存在という現存在の存在機構のうちにあるということです。

Wenn wir jetzt darnach fragen, was sich an dem phänomenalen Befund des Erkennens selbst zeigt, dann ist festzuhalten, daß das Erkennen selbst vorgängig gründet in einem Schon-sein-bei-der-Welt, als welches das Sein von Dasein wesenhaft konstituiert. Dieses Schon-sein-bei ist zunächst nicht lediglich ein starres Begaffen eines puren Vorhandenen. Das In-der-Welt sein ist als Besorgen von der besorgten Welt benommen. Damit Erkennen als betrachtendes Bestimmen des Vorhandenen möglich sei, bedarf es vorgängig einer Defizienz des besorgenden Zu-tun-habens mit der Welt. Im Sichenthalten von allem Herstellen, Hantieren u. dgl. legt sich das Besorgen in den jetzt noch einzig verbleibenden Modus des In-Seins, in das Nur-noch- verweilen bei ... (p.61)
ここで、認識作用そのものの確認事項を現象的に考察したときに、何が明らかになっているかということを考察してみよう。すると最初に確認する必要があるのは、認識作用そのものは、<すでに世界のもとに存在していること>によってあらかじめ根拠づけられているということ、そして現存在の存在はこのような<すでに世界のもとに存在していること>として、本質的に構成されているということである。この<すでに~のものに存在していること>とは、さしあたりは決して純粋に眼前的に存在するものをひたすら眺めているということではない。世界内存在は配慮的な気遣いをするものであるから、配慮的に気遣いをしている世界によって"心を奪われている"のである。だから認識作用が、眼前的な存在者を考察しつつ規定するという営みとして可能となるためには、それに先立って、配慮的に気遣いながら世界と関係をもつことが、あらかじめ"欠如している"ことが必要になるのである。何かを制作するとか、何かを操作するなどのすべての営みをみずから控えるときに、配慮的な気遣いは、内存在として残されている唯一の様態である<ただ~のもとにまだとどまっている>という存在様態になるのである。

 ハイデガーは、「認識作用そのものは、<すでに世界のもとに存在していること>によってあらかじめ根拠づけられているということ、そして現存在の存在はこのような<すでに世界のものに存在していること>として、本質的に構成されている」と指摘します。前節で説明されたように、現存在は眼前的な存在者とは異なり、世界の「もと」にある存在です(Part.11参照)。このような「<すでに世界のもとに存在していること>」という存在様式においては、主観とは別に客観的な世界が存在しているとされるのではなく、主体と世界は切り離すことができないものとして考えられています。そしてハイデガーによれば、そのような存在様式に基づいて、認識作用は可能になっているのです。
 ここで「世界内存在は配慮的な気遣いをするものであるから、配慮的に気遣いをしている世界によって"心を奪われている"」という表現がされていますが、現時点ではわかりにくいものとなっていると思います。この「心を奪われている」というのは、「何かを制作するとか、何かを操作するなどのすべての営み」といった配慮的に気遣いをしている世界における活動によって心を奪われているということであり、第9節の各私性のところで引用した文章、「非本来性という形で存在している現存在は、忙しくしているとか、活気に満ちているとか、何かに関心をもっているとか、何かを楽しむことができるなど、きわめて充実した具体性において存在していることもある」と述べられていたことにもかかわってきます(Part.8参照)。こうした「心を奪われている」というありかたは非本来的なありかたではありますが、現存在の日常性を象徴するような、ごく一般的なありかたなのです。
 さしあたり現存在は配慮的に気遣う世界に心を奪われていますが、それゆえに「認識作用が、眼前的な存在者を考察しつつ規定するという営みとして可能となるためには、それに先立って、配慮的に気遣いながら世界と関係をもつことが、あらかじめ"欠如している"ことが必要になるのである」と指摘されます。「認識作用」とは、「眼前的な存在者を考察しつつ規定するという営み」のことであると言われていますが、具体的にこうした認識作用をあげてみると、学問的な認識があげられます。たとえば机について、日常的な配慮的な気遣いにおいては、それは何かを置くためだったり、書き物をするためだったり、そこで食事をとるためだったりします。ところがそうした視点が「欠如している」場合、机は単なる物として見られることになり、ここに学問的な認識の介入の余地が生まれます。というのは、そうした視点が取り払われたとき、その机がどのように使用されるかということにかかわらずに、机という「広がりをもつ」客観的な物体について、たとえば数学的・物理学的な対象となることができるからです。このとき机は、現存在が配慮的に気遣う日常的な世界からはある意味で除外され、眼前存在者として規定されることになりますが、これが認識作用の意味です。このことをハイデガーは、「配慮的な気遣いは、内存在として残されている唯一の様態である<ただ~のもとにまだとどまっている>という存在様態になる」と表現しています。
 このように認識作用とは、現存在が配慮的に気遣う世界に生きているということを根拠とした、1つの様態としての眺めやるまなざしなのであり、世界内存在の1つのありかたなのです。こうした考え方からは、認識についての先の難問は登場する余地はありません。世界に対するそもそもの理解が異なるからです。

Im Sichrichten auf ... und Erfassen geht das Dasein nicht etwa erst aus seiner Innensphäre hinaus, in die es zunächst verkapselt ist, sondern es ist seiner primären Seinsart nach immer schon >draußen< bei einem begegnenden Seienden der je schon entdeckten Welt. Und das bestimmende Sichaufhalten bei dem zu erkennenden Seienden ist nicht etwa ein Verlassen der inneren Sphäre, sondern auch in diesem >Draußen-sein< beim Gegenstand ist das Dasein im rechtverstandenen Sinne >drinnen<, d. h. es selbst ist es als In-der-Welt-sein, das erkennt. Und wiederum, das Vernehmen des Erkannten ist nicht ein Zurückkehren des erfassenden Hinausgehens mit der gewonnenen Beute in das >Gehäuse< des Bewußtseins, sondern auch im Vernehmen, Bewahren und Behalten bleibt das erkennende Dasein als Dasein draußen. (p.62)
現存在はさしあたり、その内的領域のようなところに閉じ込められていて、何かを志向し、そしてそれを把握するときになってから、そこから出ていくわけではない。現存在はその第1義的な存在様式においてそもそも、つねにすでに「外に出て」存在しているのであり、そのつどすでに露呈されている世界のうちで出会う存在者のもとにあるのである。現存在は認識すべき存在者のもとに、規定するという態度においてみずから滞在するのであるが、それは内的領域を離れてそうするのではない。現存在がこのように対象のもとに「外に出て存在している」ときにも、正しく理解された意味では、「内部に」いるのである。認識するのは、世界内存在としての現存在自身だからである。さらに認識したものを知覚するということも、把握するために外に出ていたものが、獲得した獲物をもって、意識という「容器」のもとに立ち戻ってくるようなことではない。知覚するときも、保存するときも、記憶するときも、認識する現存在は"現存在として外にとどまっている"のである。

 現存在は世界において、世界内存在として存在しているのであり、認識という営みのために世界に存在しているのではありません。現存在は「内面」に閉じ込められていて、外にあるものを認識しようとしてその内面から出ていくわけではないのです。「現存在はその第1義的な存在様式においてそもそも、つねにすでに<外に出て>存在して」おり、なおかつ、「現存在がこのように対象のもとに<外に出て存在している>ときにも、正しく理解された意味では、<内部に>いる」のです。
 この「内にいる」ままで、世界という「外」に出ているというのは、少しわかりにくいかもしれません。注意すべきなのは、主観の内面を「内」として、客観としての世界を「外」としてしまった場合、先ほどの困難さが生まれてしまうことです。ここで言われている「内」や「外」は、こうした想定とはまったく異なります。ここで「内」と言われているのは、現存在がすでに世界の内に存在しているという、世界内存在としての現存在の存在のしかたのことを指しています。そして「外」というのは、世界の内で存在している現存在が、実存しているということを指しているのです。
 「内にいるままで外に出ている」という表現を理解する際にポイントとなるのは、「認識するのは、世界内存在としての現存在自身だからである」という文です。世界内存在とは現存在の存在機構のことですから、現存在はその存在性格上、世界と切り離されることはありません。現存在はどのような場合においても、世界の「内」で生きる他はないのです。そしてその世界において、「そのつどすでに露呈されている世界のうちで出会う存在者のもとにある」という指摘のとおり、現存在は配慮的に気遣うという様態で世界内部的な存在者に出会い、様々な活動を行いつつ生きています。現存在はこうしたありかたで机と出会うことで、それの上に何かを置いたり、書き物をしたりできるのであり、はたまた単なる物体として見ることもできるようになっています。「現存在は認識すべき存在者のもとに、規定するという態度においてみずから滞在する」というのは、現存在が世界内部的な存在者と関係をもつそのありかたを表現しており、現存在は机を「その上に何かを置けるもの」だとか「その上で書き物ができるもの」、「~キログラムの重さを有しているもの」というように規定することができるということを示しています。このように現存在は、世界内部的に出会う存在者に対して積極的に規定し働きかけることができますが、こうした積極性が「外に出ている」という存在様式なのであり、「外への存在(>Existenz<)」としての現存在のありかたなのです。このような意味で、現存在は決して世界の外に出ることはありませんが、世界の内でつねにすでに外に出ているような存在者だと言われるのです。

Der aufgezeigte Fundierungszusammenhang der für das Welterkennen konstitutiven Modi des In-der-Welt-seins macht deutlich: im Erkennen gewinnt das Dasein einen neuen Seinsstand zu der im Dasein je schon entdeckten Welt. Diese neue Seinsmöglichkeit kann sich eigenständig ausbilden, zur Aufgabe werden und als Wissenschaft die Führung übernehmen für das In-der-Welt-sein. Das Erkennen schafft aber weder allererst ein >commercium< des Subjekts mit einer Welt, noch entsteht dieses aus einer Einwirkung der Welt auf ein Subjekt. Erkennen ist ein im In-der-Welt-sein fundierter Modus des Daseins. Daher verlangt das In-der-Welt-sein als Grundverfassung eine vorgängige Interpretation. (p.62)
これまで、世界認識にとって構成的な意味をもつ世界内存在のさまざまな様態が、たがいに基礎づけあう連関を示してきたが、これによって明らかになったことがある。現存在は認識作用において、現存在のうちでそのつどすでに露呈された世界に向かうための新しい存在態勢を獲得するということである。この新しい存在可能性は、独立した形で形成されて課題となることも、学問という形で世界内存在を導く役割をひきうけることもありうる。しかし認識作用によって初めて、主観と世界の「交わり」が"生みだされる"わけではないし、この交わりが主観にたいして行使される世界の影響によって"発生する"わけでもない。認識作用は、世界内存在のうちに基礎づけられた現存在の1つの存在様態なのである。だからまず、根本的な機構である世界内存在について"あらかじめ"解釈しておく必要がある。

 この説では、伝統的な哲学において世界との交渉の主要な機能として考えられた「認識」という営みを例にとりながら、伝統的な主観と客観のモデルでは、認識に限らず、人間のさまざまな営みを説明できないこと、これを説明するためには「根本的な機構である世界内存在について"あらかじめ"解釈しておく必要がある」ことを明らかにしました。続く第3章では、この世界内存在を理解するために、世界の世界性について本格的に考察されることになります。


 この第13節をもって、第1編第2章が終わりました。第2章は、本書の最重要概念の1つである世界内存在が登場することで、素描でありながらも内容の濃い章であったと思いますし、それだけに多少考察の筋道が見えなくなってしまうこともあったかもしれません。しかしこれから世界内存在について詳細な考察が展開されていくにつれて、現時点でわかりにくいと思ったものでも、より理解が深まることがあると思いますので、まずは考察の大まかな流れを把握しておけば大丈夫だと思います。

 それでは、次回もよろしくお願いします。

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