『存在と時間』を読む Part.79

  第75節 現存在の歴史性と世界-歴史

 この節の中心的なテーマは非本来的な歴史です。現存在が非本来的なありかたをしているとき、すなわち頽落しているときに、現存在の活きている歴史は当然ながら、非本来的なものとなります。すでに頽落は日常性に生きる現存在にとっては前提となるようなものであることが指摘されてきました。この頽落には2つの重要な側面があります。
 1つは、現存在は配慮的に気遣う手元的な存在者に囲まれて生きているという側面です。現存在は自分の生活のためにさまざまな事物に配慮しながら生きているのであり、反対にこうした事物のほうから自分を理解するようになります。これは非本来的な実存であり、この場合、実存する現存在が実存する存在者でない事物のほうから自分を理解することになりますが、これが頽落の1つの重要な側面です。そして頽落のこうしたありかたは、歴史についての現存在の理解に当然ながら影響を与えます。

Aus dem Besorgten errechnet sich das uneigentlich existierende Dasein erst seine Geschichte. (p.390)
非本来的に実存している現存在は、配慮的に気遣ったものごとのうちから、初めて自分の歴史を計算する。

 第2は、現存在は世人として頽落しているという側面です。現存在はつねに本来的に実存し、死への先駆において決断しているわけではありません。現存在が真の意味で実存するようになることは、日常的な現存在にすぐに期待できることではないでしょう。現存在は他者とともに共同相互存在しながら、仕事や遊びといった日常の暮らしに忙殺されているのがふつうです。この日常生活において現存在は、世人という非本来的な実存のうちに生きているのであり、この公共的な相互性のうちで、〈世人自己〉として他者と出会うのです。これが頽落の第2の重要な側面であり、現存在の歴史理解はこうした公共的な相互性に大きな影響を受けることになります。

 この頽落についての考察は、これまでの基礎存在論の考察を再確認したものですが、ここで問題なのはこのような頽落した非本来的な実存の積み重ねが、ふつうに考えられている「歴史」を構築するとみられることです。この「歴史」もまたこの頽落の2つの側面から考えられます。1つは現存在の配慮の対象となるさまざまな事物が、現存在とは独立した存在と歴史をもつことです。現存在が世界で出会うこれらの世界内部的な存在者は、それぞれに固有の「宿命」と「運命」をそなえています。

Mit der Existenz des geschichtlichen In-der-Wel-seins ist Zuhandenes und Vorhandenes je schon in die Geschichte der Welt einbezogen. Zeug und Werk, Bücher zum Beispiel haben ihre >Schicksale<, Bauwerke und Institutionen haben ihre Geschichte. (p.388)
”歴史的な世界内存在の実存とともに、手元的な存在者や眼前的な存在者が、そのつどすでに世界の歴史のうちに引き込まれているのである”。道具や製品、たとえば書物なども、それぞれの「宿命」をそなえているし、建造物や制度などにも独自の歴史がある。

 第2に、現存在の全体性は、誕生から死にいたるまでの歴史的な時間によって規定されていることはすでに確認されてきたことですが、現存在は世界において単独者として生きるものではなく、世人として頽落のうちに他者とともに存在する存在者です。そして一般に「歴史」というものは、このような他者の歴史として理解されることが多いのです。
 ここで注意したいのは、一般に人間の歴史とは独立しているとみなされる自然そのものも、歴史のうちに含まれるとハイデガーが考えていることです。わたしたちが住んでいる都市にも自然という側面があるだけでなく、風土や移住地、さらには戦場や聖地として歴史的なのです。人間が手を触れていない純粋な自然などというものはほとんど存在しません。手つかずの原生林や高山も、実際には宗教的な聖地であったり、観光の場所であったりします。
 ハイデガーは、自然を含めたこのような世界内部的な存在者を「世界-歴史的なもの(>Welt-Geschichtliche<)」と呼びます。この「世界-歴史」という表現は存在論的に理解されたものですが、その際に2重の意義をそなえていることに留意する必要があります。

Er bedeutet einmal das Geschehen von Welt in ihrer wesenhaften, existenten Einheit mit dem Dasein. Zugleich aber meint er, sofern mit der faktisch existenten Welt je innerweltliches Seiendes entdeckt ist, das innerweltliche >Geschehen< des Zuhandenen und Vorhandenen. (p.389)
まずこの表現は、現存在と、本質からして実在的な統一を形成している世界そのものの生起を意味する。しかしこの表現は同時に、事実的に実在する世界とともに、そのつど世界内部的な存在者が露呈されていることに基づいて、手元的な存在者と眼前的な存在者の世界内部的な「生起」をも意味しているのである。

 「世界-歴史」ということで、世界そのものの生起と、それとともに世界内部的な存在者の生起が示されていると、ハイデガーは説明しています。このように頽落している日常的な存在としての現存在は、他者とともに実存しながら伝統的な世界の歴史を構築するのですが、この世界史には、道具などの手元的な存在者や自然などの眼前的な存在者も、そして自然一般も、「世界-歴史的なもの」として含まれているのです。
 そのようなわけで、現存在はみずからの実存の歴史性についても、この「世界-歴史的なもの」の観点から理解しようとしがちです。

Und weil das faktische Dasein verfallend im Besorgten aufgeht, versteht es seine Geschichte zunächst welt-geschichtlich. Und weil fernerhin das vulgäre Seinsverständnis >Sein< indifferent als Vorhandenheit versteht, wird das Sein des Welt-Geschichtlichen im Sinne des ankommenden, anwesenden und verschwindenden Vorhandenen erfahren und ausgelegt. (p.389)
そして事実的な現存在は頽落しながら配慮的に気遣ったもののうちに没頭しているために、現存在はみずからの歴史もまた、さしあたりは世界-歴史的に理解している。さらに通俗的な存在了解は、「存在」ということを無差別に、眼前性として理解しているために、世界-歴史的なものの存在も、到来し、現前し、消滅していく眼前的なものという意味で経験され、解釈されるのである。

 存在一般の意味は自明なものとみなされているために、世界-歴史的なものの存在様式がどのようなものなのか問うことはなされず、現存在の存在と区別されることもないのです。

 このようにして、現存在が頽落のうちにあるために、現存在は歴史を本来の意味で理解することがなくなります。そしてこうした理解によって生まれた土台のために、歴史性の問いは不適切なものにならざるをえません。すなわち、このような考え方は現存在の歴史性への問いを、誕生と死のあいだのさまざまな体験の統一についての問いとみなすものであり、これは現存在の存在を世界内部的な存在者の存在と同一なものとみなしていることに基づいています。ですから、これを存在論的な根拠のある問題という形で提起するときに、現存在の本来的な歴史性である宿命と反復によっては、どうしても現象的な土台を提供することができないのです。

Die Frage kann nicht lauten: wodurch gewinnt das Dasein die Einheit des Zusammenhangs für eine nachträgliche Verkettung der erfolgten und erfolgenden Abfolge der >Erlebnisse<, sondern: in welcher Seinsart seiner selbst verliert es sich so, daß es sich gleichsam erst nachträglich aus der Zerstreuung zusammenholen und für das Zusammen eine umgreifende Einheit sich erdenken muß? (p.390)
だから、すでに起こり、さらに今も起こりつつある「諸体験」のつながりを事後的に連鎖させようとして、現存在はその連関の統一をどのようにして獲得するのかというように問い掛けてはならないのである。そうではなく、”現存在は、気を散らした状態から、いわば事後的に初めて自己を取り集め、その取り集めたものに包括的な統一を案出しなければならないと考えるほどに、自己を喪失してしまう”のは、現存在自身がどのような存在様式にあるからなのかと、問わねばならないのである。

 このように現存在は世人と「世界-歴史的なもの」へと自己喪失しているのであり、それが死に臨んでの逃走であることは、すでに明らかにされてきたとおりです。この自己喪失は過去の歴史の忘却につながります。

Das Man weicht der Wahl aus. Blind für Möglichkeiten vermag es nicht, Gewesenes zu wiederholen, sondern es behält nur und erhält das übrig gebliebene >Wirkliche< des gewesenen Welt-Geschichtlichen, die Überbleibsel und die vorhandene Kunde darüber. In die Gegenwärtigung des Heute verloren, versteht es die >Vergangenheit< aus der >Gegenwart<. (p.391)
世人は選択することを避けようとする。世人はさまざまな可能性にたいして盲目であり、既往のものを反復することができない。むしろ世人は、既往した世界-歴史的なもののうちに残存する「現実的なもの」、すなわち遺物やそれについて眼前的に存在している情報を保有しているだけである。世人は〈今日〉を現在化することだけに専念して自己を喪失しており、「過去」は「現在」から理解するのである。

 これとは対照的に、現存在が先駆的な決意性のうちにあるとき、現存在は〈死に臨む存在〉を本来的な実存のうちにもたらすことになり、現存在の歴史性は本来的な歴史性となっているでしょう。すでに現存在は誕生と死のあいだの「伸び広がり」という不断のありかたをしつつ生きていることが確認されていました。

Die Entschlossenheit des Selbst gegen die Unständigkeit der Zerstreuung ist in sich selbst die erstreckte Ständigkeit, in der das Dasein als Schicksal Geburt und Tod und ihr >Zwischen< in seine Existenz >einbezogen< hält, so zwar, daß es in solcher Ständigkeit augenblicklich ist für das Welt-Geschichtliche seiner jeweiligen Situation. (p.390)
自己の決意性を、気を散らした情態の〈非自立性〉と比較してみると、自己の決意性には、それ自身において”伸び広がる不断のありかた”がそなわっていることが分かる。現存在はそうした不断のありかたのうちで、誕生と死とこれらの「あいだ」を、宿命としてすでにみずからの実存のなかに「取り入れて」保持しているのである。そしてこのような不断のありかたにおいて、現存在はそのつどの状況における世界-歴史的なものに向かって、瞬視的に存在しているのである。

 頽落における「〈非自立性〉(>Unständigkeit<)」とは「不断に自己でないこと」であり、みずからの本来的な実存を生きる「”伸び広がる不断のありかた”(>erstreckte Ständigkeit<)」とは対照的なものです。
 この本来的な歴史性の時間的な規定はどのようなものでしょうか。現存在は本来的なありかたにおいては、さまざまな既往の可能性を宿命的に反復しながら、既往していたもののところに脱自的にみずからを連れ戻します。すなわち、遺産をみずからに伝承するのです。
 先にみたように、「世人は〈今日〉を現在化することだけに専念して自己を喪失しており、〈過去〉は〈現在〉から理解」します。

Die Zeitlichkeit der eigentlichen Geschichtlichkeit dagegen ist als vorlaufend-wiederholender Augenblick eine Entgegenwärtigung des Heute und eine Entwöhnung von den Üblichkeiten des Man. Die uneigentlich geschichtliche Existenz dagegen sucht, beladen mit der ihr selbst unkenntlich gewordenen Hinterlassenschaft der >Vergangenheit<, das Moderne. Die eigentliche Geschichtlichkeit versteht die Geschichte als die >Wiederkehr< des Möglichen und weiß darum, daß die Möglichkeit nur wiederkehrt, wenn die Existenz schicksalhaft -augenblicklich für sie in der entschlossenen Wiederholung offen ist. (p.391)
ところが本来的な歴史性の時間性は、先駆しながら反復する瞬視であるから、〈今日〉を”脱現在化”して、世人の習慣から脱却する。これにたいして非本来的な歴史的な実存は、自分でも見分けることのできなくなった「過去」の遺物の重みを負いながら、〈現代的なもの〉を追い求めている。本来的な歴史性は、歴史というものは可能なものが「回帰」してくることだと理解しており、そうした可能なものが回帰してくるのは、実存が決断した反復のうちで、宿命的かつ瞬視的に、可能性に向かって開かれているときだけであることを知っているのである。

 ハイデガーはこのように現存在の本来的な実存と非本来的な実存を基礎として、本来的な歴史と非本来的な歴史の違いを明確にします。この区別に基づいて、次の節では、どのようにして学問としての歴史学が、現存在の歴史性から存在論的に成立してきたかを考察することが試みられます。


 今回は以上です。また次回よろしくお願いします。

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