『存在と時間』を読む Part.80

  第76節 現存在の歴史性に基づく歴史学の実存論的な起源

 この節の課題は、現存在の歴史性に基づいて、一般に人類の「歴史」を考察する学問とされている歴史学という学問が、どのようにして現存在の存在機構から誕生してくるのかについて、存在論的な可能性を問うことにあります。現存在の歴史性ともっとも関連の深い学問である歴史学は、現存在の歴史性を前提条件としている学問であるだけに、歴史学の実存論的な起源について解明すれば、現存在の歴史性の性格と、それが時間性に根差していることをさらに明確に示すことができるはずでしょう。
 そして、この歴史学と現存在の歴史性との関係を解明するということは、方法論的には、歴史学の理念を、現存在の歴史性に基づいて、存在論的に構想するということを意味することになります。この理論の考察は、次の第77節で深められることになるでしょう。

 すべての学問の理念には、何を主題とするかについての規定が前提条件となります。歴史学の主題は人類の過去であるという一般的な考え方に依拠するなら、この過去というものが開示されていなければ、歴史を歴史学的に主題化することはできないのは当然でしょう。しかし、この「過去」という時間がどのようなものか、過去の資料というものをどのように利用すべきかは、歴史学の内部ではあまり問われることがありません。しかし現存在の時間性という問題構成からは、このように歴史学の内部で問われない問題こそが重要となります。
 最初に歴史学という学問の可能性の条件として、現存在の事実的な存在が必須であることを確認しておきましょう。

Mit dem faktischen Dasein als In-der-Welt-sein ist je auch Welt-Geschichte. Wenn jenes nicht mehr da ist, dann ist auch die Welt dagewesen. (p.393)
現存在が世界内存在として事実的に存在するからこそ、そのつど世界-歴史も”存在する”のである。現存在がもはや〈そこに現に〉存在しないならば、世界もまた〈そこに現に既往していたもの〉として存在するようになる。

 現在において存在する現存在が、自分たちがもはやそこに現に存在しない既往について理解しようとするまなざしを向けることで、歴史学が成立します。ですから歴史学は、世界のうちに既往していた存在を、その可能性から理解することを目指すべきなのです。
 ところで既往という時間は、もはや眼前的に存在することはありません。現存在がこの過ぎ去った時代について考察しようとするなら、まだ眼前的に存在している痕跡を、すなわち遺跡や記念碑、報告といった史料を利用せざるをえないでしょう。これらはそこに現に既往していた現存在を具体的に開示するために可能な資料になります。しかしこれらの資料も、たんに過去の時代における現存在の実際のありかたによって生まれた「事実」を示すものとして、安易に取り扱うべきではありません。無数にある資料から、どのような資料を「資料」としか扱うか、どのような観点から扱うかということは、その資料を扱う歴史学者の現在における生き方が重要な意味をもちます。

Die Beschaffung, Sichtung und Sicherung des Materials bringt nicht erst den Rückgang zur >Vergangenheit< in Gang, sondern setzt das geschichtliche Sein zum dagewesenen Dasein, das heißt die Geschichtlichkeit der Existenz des Historikers schon voraus. (p.394)
資料の入手、選別、確定などの作業によって、初めて「過去」にさかのぼる道が開かれるのではない。こうした作業そのものが、そこに現に既往していた現存在”とかかわって歴史的に存在すること”をすでに前提とするのであり、歴史学者の実存の歴史性をすでに前提としているのである。

 これは歴史を研究する歴史学者に求められる要件ですが、歴史の対象となる既往の現存在の解釈については別の要件が求められます。すでに「反復」という方法が、既往の出来事を現在において繰り返すものではなく、既往の現存在をその本来的な存在可能と実存のありかたから理解するということであることが強調されていました。その際には、そこに現に既往していた現存在を、この既往的で本来的な可能性において理解するということが目指されていたのでした。

Die >Geburt< der Historie aus der eigentlichen Geschichtlichkeit bedeutet dann: die primäre Thematisierung des historischen Gegenstandes entwirft dagewesenes Dasein auf seine eigenste Existenzmöglichkeit. (p.394)
歴史学が本来的な歴史性のうちから「誕生する」ということが意味しているのは、次のようなことだったのである。すなわち、歴史学の対象を第1義的に主題化する営みは、そこに現に既往していた現存在を、そのもっとも固有な実存の可能性に基づいて投企することなのである。

 なぜこのようなことになるのか、それはハイデガーの考える真理と客観性の概念を思い出せば明らかです。これまでハイデガーは真理を、覆いを取ってその存在を明らかにすることだと述べてきました。このことが真に可能になるのは、現存在が先駆的な決意性においてその存在を開示するときです。というのは、本来的に理解された対象には、その根源的なありかたが含まれていると考えるからであり、ここに真理と客観性が保証されると考えるからです。
 そしてこのことは、「”歴史学的な”開示も、やはり”将来から”時熟する」と考えなければならないということです。

Die Historie nimmt daher - sowenig wie die Geschichtlichkeit des unhistorischen Daseins - ihren Ausgang keineswegs in der >Gegenwart< und beim nur heute >Wirklichen<, um sich von da zu einem Vergangenen zurückzutasten, sondern auch die historische Erschließung zeitigt sich aus der Zukunft. Die >Auswahl< dessen, was für die Historie möglicher Gegenstand werden soll, ist schon getroffen in der faktischen, existenziellen Wahl der Geschichtlichkeit des Daseins, in dem allererst die Historie entspringt und einzig ist. (p.395)
だから歴史学は、非歴史学的な現存在の歴史性と同じように、「現在」のうちで、ただ今日において「現実的なもの」から出発して、過去となったものへと、そこから手探りしながら戻っていくようなものではない。”歴史学的な”開示も、やはり”将来から”時熟するのである。何を歴史学の対象とすべきかを”「選ぶ」”作業は、現存在の歴史性の事実的で実存的な”選択”のうちで、”すでに遂行されている”のである。この現存在において初めて歴史学は生まれるのであり、そしてこの現存在においてのみ”存在する”のである。

 歴史学者が何を歴史学の対象とするのかを選ぶことは、その歴史学者の「歴史性の事実的で実存的な”選択”のうちで、”すでに遂行されている”」のです。ある人が戦国時代のある大名について、歴史学的に研究するときには、すでにその人に固有の存在可能から、その対象を選ぶことが定められているのであり、現存在の本来性における選択において、歴史学の対象はあらかじめ選択されているということです。

 人間の歴史性についてはこのような現存在の実存の時間論的な考察に基づいた探究が求められるのですが、こうした考察を経ていない歴史学には、いくつかの不適切な傾向が生じるのは避けられません。第1の傾向は、普遍的な客観性を重視する傾向です。こうした傾向からみると、現存在の時間性と歴史性を重視した反復の手続きは「主観的な」ものにみえるのであり、主観主義という批判が向けられることになるでしょう。というのも、そうした歴史学の背後には世人の観点が存在していて、それが歴史学の「客観性」を要求することが多いからです。

In keiner Wissenschaft sind die >Allgemeingültigkeit< der Maßstäbe und die Ansprüche auf >Allgemeinheit<, die das Man und seine Verständigkeit fordert, weniger mögliche Kriterien der >Wahrheit< als in der eigentlichen Historie. (p.395)
どのような学問にあっても、世人とその常識は、その学問における判断基準の「普遍妥当性」を要求し、その学問が「普遍性」を主張できるものであることを要求するのだが、これらは「真理」の可能的な基準とはなら”ない”ものであり、このことは他のいかなる学問”よりもまさに”、本来的な歴史学にこそあてはまることなのである。

 しかし学問の客観性とは、歴史を考察する歴史学者の実存のありかたを「主観的なもの」として否定することによって確立できるようなものではありません。先にも指摘したように、ハイデガーの考える客観性は次のようなものです。

Die in der schicksalhaften Wiederholung gründende historische Erschließung der >Vergangenheit< ist so wenig >subjektiv<, daß sie allein die >Objektivität< der Historie gewährleistet. Denn die Objektivität einer Wissenschaft regelt sich primär daraus, ob sie das ihr zugehörige thematische Seiende in der Ursprünglichkeit seines Seins dem Verstehen unverdeckt entgegenbringen kann. (p.395)
「過去」の歴史学的な開示は、宿命的な反復に根拠を置くものである。そうした開示は決して「主観的な」ものではなく、それだけが歴史学の「客観性」を保証するのである。というのも、ある学問の客観性は第1義的には、その学問の主題とする存在者を、その存在の根源的なありかたにおいて、隠蔽することなく理解へと”もたらす”ことができるかどうかによって決まるからである。

 数学は、数学において主題となる存在者を、その存在者の存在にふさわしい形で理解へともたらすからこそ、模範的な学問であるのでした(Part.72参照)。歴史学の場合には、現存在という存在者が歴史的であり、それは時間性に基づいているのですから、「〈過去〉の歴史学的な開示は、宿命的な反復に根拠を置くものである」ということになります。本来的な時間性においてこそ、「その存在の根源的なありかたにおいて、隠蔽することなく理解へと”もたらす”ことができる」からです。
 第2の不適切な傾向は、こうした世人の客観主義を否定するあまり、主観主義的な見方をすることを好むことです。そうした傾向に陥りがちな歴史学者は、初めからある時代の世界観のうちに身を投じてしまい、それは歴史を本来的に理解する方法ではなく、歴史的な対象を恣意的に理解しているにすぎないだけかもしれないのです。たとえば、軍記物に傾倒し戦国時代は派手で格好のよいものと捉えている人は、当時の凄惨な戦のありかたを本来的に理解することはなく、語られている武将たちの活躍によって戦を美化して理解する傾向をもつかもしれません。
 第3の不適切な傾向は、歴史主義です。これは20世紀のドイツで重要な役割をはたした歴史学の傾向で、歴史学には自然科学とは独立した学問的な地位と価値があることを主張するものであり、次の節で考察されるディルタイもこうした歴史主義の立場を半ば肯定していました。この立場については、次に検討するニーチェがすでに批判を展開していましたが、ハイデガーもこうした歴史主義には、現存在をその本来的な歴史性から疎外させる傾向があるとみて、問題としています。

 このように現存在が歴史的な既往を学問の対象とすることにまつわる問題については、すでにニーチェが『反時代的な考察』の第2篇「生に対する歴史の功罪」でユニークな考察を展開しています。この書物でニーチェは歴史学を3種類に分類しました。それらは「記念碑的な歴史学」「好古的な歴史学」「批判的な歴史学」です。ハイデガーは。歴史学についてのニーチェのこの指摘は、決して偶然なものではなかったと主張するのです。
 まず記念碑的な歴史学についてニーチェは、古代から歴史を学ぶことが、国家の統治のための準備となるものと考えられていたのは、歴史の警告が他者の災難を思い出させることによって、運命の変転に毅然として堪えさせてくれるからであると指摘します。そしてこうした歴史の警告に耳を傾けて、危機において活躍した英雄たちの行為を語る歴史学の営みは、「記念碑的な歴史学」になると考えます。これは歴史とは、危機における人間の勇気ある決断と、それによってもたらされた結果を物語るものであると考えようとするものであり、記念碑としての過去から学ぼうとする立場です。現存在の世界内存在としての日常性は、こうした歴史学からは完全に無視されることになるでしょう。
 ハイデガーはこの記念碑的な歴史とは、歴史を人間の決断の歴史とみようとする立場であると、次のように指摘しています。

Das Dasein existiert als zukünftiges eigentlich im entschlossenen Erschließen einer gewählten Möglichkeit. Entschlossen auf sich zurückkommend, ist es wiederholend offen für die >monumentalen< Möglichkeiten menschlicher Existenz. Die solcher Geschichtlichkeit entspringende Historie ist >monumentalisch<. (p.396)
現存在が将来的なものとして本来的に実存するのは、みずから選び取った可能性を、決断しながら開示することによってである。決断しながらみずからへと立ち戻ってくるときに、現存在は人間的な実存の「記念碑的な」可能性に向かって、反復的に開かれているのである。このような歴史性から生まれてくる歴史学が、「記念碑的な」歴史学である。

 現存在が決意性において将来の可能性という観点から、過去の歴史を参考にしようとするときに、記念碑的な歴史学が生まれるのです。
 またニーチェによると好古的な歴史学とは、過去を保存し、尊敬する者の歴史学です。こうした歴史学者は、歴史を祖先伝来の品のように大切にします。祖先がみずからの家を守るためにそれで戦った刀は、独特の犯しがたい品位をそなえています。歴史学者のうちには、こうした古くなったものへの愛着を抱く人も少なくないでしょう。
 こうした傾向が生まれることについて、ハイデガーは次のように指摘します。

Das Dasein ist als gewesendes seiner Geworfenheit überantwortet. In der wiederholenden Aneignung des Möglichen liegt zugleich vorgezeichnet die Möglichkeit der verehrenden Bewahrung der dagewesenen Existenz, an der die ergriffene Möglichkeit offenbar geworden. Als monumentalische ist die eigentliche Historie deshalb >antiquarisch<. (p.396)
現存在は既往的なものとしては、みずからの被投性に委ねられている。可能的なものを反復しながらみずからのものとすることのうちに同時に、そこに現に既往していた実存に敬意を表明しながら、それを守護する可能性があらかじめ素描されている。そうした実存において、掴み取った可能性があらわにされるからである。このようにして、本来的な歴史学は記念碑的なものであると同時に、「好古的な」歴史学である。

 現存在はその被投性において、既往を反復しようとするのであり、その時に好古的な歴史学が生まれるのです。
 これらの2つの歴史学は、歴史学者によくみられる類型ですが、第3の批判的な歴史学は、こうした歴史学に批判的なまなざしを向けるものです。というのも、将来に向けて生きるためには、過去を尊重し、愛好すると同時に、既存のものを破壊することもまた重要なことだからです。ニーチェによると、この批判的なまなざしからみると好古的な歴史は、生を保存する術を知っているだけであって生を生産しはしないのです。
 ハイデガーはこの批判的な歴史学は、決意性によって将来から立ち戻る記念碑的な歴史学と、既往を反復することで過去を尊重する好古的な歴史学という2つの歴史学から必然的に生まれてくると考えています。

Das Dasein zeitigt sich in der Einheit von Zukunft und Gewesenheit als Gegenwart. Diese erschließt, und zwar als Augenblick, das Heute eigentlich. Sofern dieses aber aus dem zukünftig-wiederholenden Verstehen einer ergriffenen Existenzmöglichkeit ausgelegt ist, wird die eigentliche Historie zur Entgegenwärtigung des Heute, das ist zum leidenden Sichlösen von der verfallenden Öffentlichkeit des Heute. Die momumentalisch-antiquarische Historie ist als eigentliche notwendig Kritik der >Gegenwart<. (p.397)
現存在は、将来と既往性の統一において、〈現在〉として時熟する。この現在は瞬視として、〈今日〉を本来的に開示する。ところがこの〈今日〉は、掴み取った実存の可能性を、将来的に反復しながら理解することから解釈されるものであるから、本来的な歴史学はここにおいては、〈今日〉を〈脱現在化すること〉である。この歴史学は、今日の頽落した公共性から苦しみつつみずからを解放する営みである。このようにして記念碑的で好古的な歴史学は、本来的なものであるかぎり、必然的に「現在」の批判となる。

 このようにして批判的な歴史学において現存在が将来の決断を下すための参考にしようとして、将来の時間性から生まれる記念碑的な歴史学と、過ぎ去った時代の遺産を大切にしようとして、既往の時間性から生まれる好古的な歴史学が、現在の時間性から生まれる批判的な歴史学によって統一されることになります。この3つの時間性に依拠することによって、本来的な歴史学が誕生します。現存在の本来的な歴史性こそが、歴史学の3つのありかたが統一されうることの土台となるのです。というのも、本来的な歴史学の土台の根拠は、気遣いの実存論的な存在意味としての時間性にあるからです。ハイデガーはニーチェの3つの歴史学を、将来、既往、現在という3つの時間性の表現として根拠づけるのです。

 ハイデガーはこのようにニーチェの歴史学の理論を時間性の理論によって裏づけながら、同時代の歴史学の動向に注目します。というのも、ディルタイなどの哲学者による歴史学の研究は、歴史学の根本概念がすべて実存概念であるので、現存在の歴史性を主題とした実存論的な解釈を前提とする精神科学として提起されているからです。この実存論的な歴史学については、次の第77節で、ディルタイとヨルク伯の研究を手がかりとして、さらに掘り下げて検討されることになるでしょう。


 今回は以上になります。次節をもって、第5章が完了します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?