『存在と時間』を読む Part.51
第50節 死の実存論的かつ存在論的な構造のあらかじめの素描
世界内存在としての現存在の根本的な存在様態は「気遣い」でした。死についてもこの気遣いという存在様態から考察する必要があります。すでに気遣いの存在構造については、次のように定義されていました。
Sich-vorweg-schon-sein-in (der Welt) als Sein-bei (innerweltlich) begegnendem Seienden. (p.249)
(世界内部的に)出会う存在者〈のもとにある存在〉として、〈(世界の)うちですでに自己に先立って存在していること〉
この定義は世界内存在の3つの特徴である、実存、事実性、頽落をすべて含むものです。
Damit sind die fundamentalen Charaktere des Seins des Daseins ausgedrückt: im Sich-vorweg die Existenz, im Schon-sein-in ... die Faktizität, im Sein bei ... das Verfallen. (p.249)
これによって、現存在の存在の基本的な性格が表現されたのである。すなわち〈自己に先立って〉において実存が表現され、〈~のうちですでに・・・存在している〉において事実性が表現され、〈~のもとにある存在〉において頽落が表現されている。
死は傑出した意味で現存在の存在に属するものですから、〈終わりに臨む存在〉は、これらの性格に基づいて規定される必要があります。
これまでの考察においてすでに、現存在の「終わり」は手元存在者や眼前存在者の「終わり」とは異なるものであることが示されてきました。現存在にとって死は、たんなる消滅でもなければ、完成を意味するものでもありません。それでは、死は実存論的にどのようなものとして規定されるでしょうか。
Das äußerste Noch-nicht hat den Charaktervon etwas, wozu das Dasein sich verhält. Das Ende steht dem Dasein bevor. Der Tod ist kein noch nicht Vorhandenes, nicht der auf ein Minimum reduzierte letzte Ausstand, sondern eher ein Bevorstand. (p.250)
極限的な〈まだない〉という状態は、現存在が”みずからそれにある態度をとっている”あるものという性格をおびている。終わりが現存在に差し迫っているのである。死は〈まだ眼前に存在しない〉ものではなく、最小限にまで縮減された最後の〈残りのもの〉ではない。死とは”眼の前に差し迫ってある”もののことである。
「極限的な〈まだない〉という状態」とは死のことです。現存在にとって「終わり」としての死は、「眼の前に差し迫ってある」1つの存在可能性のことだと、ハイデガーは指摘します。
しかしこの規定でもまだ不十分でしょう。多くのことが現存在にとって「眼の前に差し迫ってある」からです。上陸しつつある台風や、車検の期限、招待した友人というような存在者も、眼の前に差し迫っている事態です。台風は自然現象として眼前存在者のひき起こす事態であり、自動車は現存在が利用する移動手段としての手元存在者であり、友人は夕食をともにする共同現存在です。当然、眼の前に差し迫っている死は、このような存在様式をもつことはありません。
それでは死において現存在にとって何が眼の前に差し迫っているのでしょうか。もちろん自分の死です。死ぬということは、これまでの生活が終わることです。
Mit dem Tod steht sich das Dasein selbst in seinem eigensten Seinkönnen bevor. In dieser Möglichkeit geht es dem Dasein um sein. In-der-Welt-sein schlechthin. Sein Tod ist die Möglichkeit des Nicht-mehr-dasein-könnens. (p.250)
死においては、現存在にとって、”みずからのもっとも固有な”自己の存在可能性が〈眼の前に差し迫っている〉のである。この存在可能性において現存在には、端的にみずからの世界内存在そのものが問題となる。自分の死とはすなわち〈もはや現存在できなくなる〉可能性である。
それだけではありません。現存在はたんに存在しなくなるだけでなく、それまで現存在にそなわっていたあらゆる可能性も、現存在とともに喪失するのです。
Wenn das Dasein als diese Möglichkeit seiner selbst sich bevorsteht, ist es völlig auf sein eigenstes Seinkönnen verwiesen. So sich bevorstehend sind in ihm alle Bezüge zu anderem Dasein gelöst. Diese eigenste, unbezügliche Möglichkeit ist zugleich die äußerste. Als Seinkönnen vermag das Dasein die Möglichkeit des Todes nicht zu überholen. Der Tod ist die Möglichkeit der schlechthinnigen Daseinsunmöglichkeit. So enthüllt sich der Tod als die eigenste, unbezügliche, unüberholbare Möglichkeit. (p.250)
現存在にこの可能性がみずからの〈眼の前に差し迫ってくる〉ときに、現存在は”その全身で”みずからにもっとも固有の存在可能に直面しているのである。このようにして現存在にとってみずからが〈眼の前に差し迫っている〉ものとなるとき、他の現存在とのすべての結びつきが解消されてしまう。この可能性はこのようにして現存在にとってもっとも固有の、それでいて関係を喪失する可能性であるが、それは同時に、もっとも極端な可能性でもある。現存在は存在可能であるが、それだけに死の可能性を追い越すことができない。死とは、端的に〈現存在であることの不可能性〉の可能性なのである。このように”死”は、”もっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことのできない可能性”であることがあらわになった。
死というものは、現存在にとって「もっとも固有の存在可能」でありながら、「他の現存在とのすべての結びつきが解消されてしまう」可能性でもあります。これは他者との「関係を喪失する可能性」です。その意味で死は、すべての可能性が喪失する可能性という意味で、「もっとも極端な可能性」ということになるでしょう。これは「〈現存在であることの不可能性〉の可能性」と表現されています。
ここでハイデガーは死を定式化して、「”死”は、”もっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことのできない可能性”である」と語っています。これには3つの顔があり、第1に、それは「もっとも固有の」可能性です。死は現存在にとってただ一度の可能性であり、他者が代替することのできない可能性であり、その当人だけが実現しなければならない可能性です。
第2に、この可能性が実現するときには、現存在はそれまでもっていたあらゆる可能性を喪失します。これには2つの側面があり、まずこの可能性によって現存在は他の現存在とのあらゆる関係を喪失します。その意味でこの可能性は他者との「関係を喪失する」可能性という意味をもちます。次にこの可能性は「もっとも極端な可能性」であり、この可能性が実現されることで、他のあらゆる可能性はその実現の道を断たれます。その意味でこの可能性は「”追い越すことのできない”」可能性です。「現存在は存在可能であるが、それだけに死の可能性を追い越すことができない」のです。
Als solche ist er ein ausgezeichneter Bevorstand. Dessen existenziale Möglichkeit gründet darin, daß das Dasein ihm selbst wesenhaft erschlossen ist und zwar in der Weise des Sich-vorweg. Dieses Strukturmoment der Sorge hat im Sein zum Tode seine ursprünglichste Konkretion. Das Sein zum Ende wird phänomenal deutlicher als Sein zu der charakterisierten ausgezeichneten Möglichkeit des Daseins. (p.250)
このようなものとして死は、”傑出した意味で”〈眼の前に差し迫っている〉ものなのである。実存論的にこれを可能にしているのは、現存在がその本質からしてみずからに開示されていること、しかも〈自己に先立つ〉というありかたで開示されていることである。気遣いにそなわるこの〈自己に先立つ〉という構造契機が、〈死に臨む存在〉において、もっとも根源的に具体化されるのである。〈終わりに臨む存在〉は、このように性格づけた現存在の傑出した可能性に臨む存在として、現象的に明確に示されているのである。
なお、この死の定式化は後の節においてさらに、「確実さ」と「無規定性」という2つの規定を加えて、定式化され直されることになります。ここで示された死の定式化を第1の定式化とし、後の定式化を第2の定式化とするなら、第1の定式化は現存在の「可能性」という観点から行われてきた「実存論的な規定」であり、第2の定式化は、いずれ考察するように、現存在の「存在論的な規定」という意味をそなえています。この死を考察する「実存論的な観点」と「存在論的な観点」という2つの観点は、『存在と時間』の考察を貫く2つの重要な観点です。
この死の考察を終えたところで、ハイデガーはすでに第40節で展開されてきた不安についての考察の結論を、この死の定式化に依拠しながら確認します(不安についてはPart.39参照)。現存在が不安を感じるのは、みずからの「可能性の不可能性」である死の訪れを予感するからです。
Die Angst vor dem Tode ist Angst >vor< dem eigensten, unbezüglichen und unüberholbaren Seinkönnen. Das Wovor dieser Angst ist das In-der-Welt-sein selbst. Das Worum dieser Angst ist das Sein-können des Daseins schlechthin. (p.251)
死を前にした不安は、もっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことのできない存在可能を「眼の前にした」不安である。現存在が〈何を前にして〉不安になるのかというと、それは現存在のみずからの世界内存在を前にしてである。現存在が〈何のために〉不安になるのかというと、それは現存在の存在可能そのもののためにである。
死の第1の定式は、現存在の実存を示す不安に適した表現となっています。死への不安は、現存在がみずから潜在的にもっているすべての可能性を喪失することへの不安です。この不安は、現存在の根本的な情態性であり、現存在は被投的な存在として、みずからの終わりに向かって実存していることを開示するものです。
このように不安がそれについて不安になっている死の〈可能性の不可能性〉は、現存在に後から付与されるような可能性ではありません。
Sondern, wenn Dasein existiert, ist es auch schon in diese Möglichkeit geworfen. Daß es seinem Tod überantwortet ist und dieser somit zum In-der-Welt-sein gehört, davon hat das Dasein zunächst und zumeist kein ausdrückliches oder gar theoretisches Wissen. Die Geworfenheit in den Tod enthüllt sich ihm ursprünglicher und eindringlicher in der Befindlichkeit der Angst. (p.251)
現存在が実存するならば、現存在はすでにこの可能性のうちに”投げ込まれている”のである。現存在はさしあたりたいていは、自分が死に委ねられた存在であること、それとともに死は世界内存在に属したものであることを、明示的な知識としてはもたず、ましてや理論的な知識としてはもたずにいる。しかし死のうちに投げ込まれていることは、不安という情態性において、根源的に差し迫ったものとして、現存在にあらわになるのである。
死は世界内存在に本質的に属したものであり、現存在は現存在するかぎり、死の可能性のうちに「”投げ込まれている”」存在者です。この被投性は「不安という情態性において、根源的に差し迫ったものとして、現存在にあらわになる」のです。
さらにハイデガーは、事実的には多くの人々は、死について知らないということを指摘し、そのことは現存在がみずからのもっとも固有な〈死に臨む存在〉を覆い隠していること、それを眼の前にしてそこから逃走していることの証拠にほかならないと語ります。現存在は自分の究極の終末に直面することは避けたいのであり、このような可能性に向き合わずに逃走してしまうのです。現存在は「さしあたりたいていは”頽落”のありかたで死につつある」のです。
Das Dasein stirbt faktisch, solange es existiert, aber zunächst und zumeist in der Weise des Verfallens. Denn faktisches Existieren ist nicht nur überhaupt und indifferent ein geworfenes In-der-Welt-sein-können, sondern ist immer auch schon in der besorgten >Welt< aufgegangen. In diesem verfallenden Sein bei ... meldet sich die Flucht aus der Unheimlichkeit, das heißt jetzt vor dem eigensten Sein zum Tode. (p.251)
現存在は事実として、実存するかぎりは死につつあるのだが、さしあたりたいていは”頽落”のありかたで死につつあるのである。というのは、事実的に実存することは、ただ一般に、そして無差別のありかたで、被投された〈世界内存在可能〉であるだけではなく、つねにすでに配慮的に気遣われた「世界」のうちに没頭しているからである。この〈~のもとに頽落している存在〉のうちに、不気味さからの逃走が、すなわちここではみずからにもっとも固有な〈死に臨む存在〉からの逃走が告げられているのである。
このことを世界内存在の3つの存在論的な様態から振り返ってみましょう。世界内存在は実存論的には語り、理解、情態性という様態のもとにありましたが、存在論的には実存、事実性、頽落のうちにあったのでした。まず何よりも〈終わりに臨む存在〉としての現存在は、死への不安のうちに”実存して”います。さらに現存在は「一般に、そして無差別のありかたで、被投された〈世界内存在可能〉」として、世界に投げ込まれて”事実的に”存在しています。最後に現存在はたんに世界に被投されているだけではなく、「つねにすでに配慮的に気遣われた〈世界〉のうちに没頭している」存在として、”頽落して”いるのです。
Existenz, Faktizität, Verfallen charakterisieren das Sein zum Ende und sind demnach konstitutiv für den existenzialen Begriff des Todes. Das Sterben gründet hinsichtlich seiner ontologischen Möglichkeit in der Sorge. (p.252)
このように実存、事実性、頽落が、〈終わりに臨む存在〉の性格であり、それによって死の実存論的な概念を構成するのである。”死ぬことは、その存在論的な可能性からみて、気遣いにもとづいているのである”。
現存在は死において、自己に固有の可能性に直面することで実存し、世界のうちに投げ込まれた事実性に直面し、それだけにその世界への被投性のうちに、頽落することで、「不気味さからの逃走」のうちにあります。
次の課題は、この現存在のありかたを、現存在が日常性のうちにこうした〈死に臨む存在〉として存在していることを、明らかにすることです。というのは、〈死に臨む存在〉が本質からして現存在の存在に属するものであるなら、非本来的なありかたではあっても、日常性のうちにこうした〈死に臨む存在〉を示すことができなければならないからです。今節において、〈死に臨む存在〉と気遣いの結びつきがあらかじめ素描されましたが、それだけではまだ不十分です。この結びつきは、現存在のもっとも身近な具体的な姿において、すなわち現存在の日常性において明らかにされなければならないのです。
今回は以上になります。次回は〈死に臨む存在〉と現存在の日常性について考察されることになります。
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