『存在と時間』を読む Part.28

 A <そこに現に>の実存論的な構成

  第29節 情態性としての現-存在

 現存在の実存論的な構成において最初に検討されるのは、現存在の情態性です。この情態性とは「気分」のことであると、ハイデガーは言います。

Was wir ontologisch mit dem Titel Befindlichkeit anzeigen, ist ontisch das Bekannteste und Alltäglichste: die Stimmung, das Gestimmtsein. (p.134)
わたしたちが”存在論的に”情態性という用語で語ろうとしているものは、”存在者的には”きわめて周知された日常的なもの、すなわち気分や気持ちのことを指しているのである。

 存在論的な考察において気分という概念が重要となるのは、それがたんに個人の内面的な感情ではなく、人々との間で共有されるものであり、気分はある意味では公共的なものだからです。わたしはあなたの朗らかな気分に影響されて陽気な気分になることがあるし、あなたもまたわたしのそうした陽気な気分に、逆に影響されることもあるでしょう。機嫌の悪い人といると、こちらまで機嫌が悪くなるものです。
 このため、気分という概念の考察においては、主観と客観の対立という認識論的な構図を利用することはできません。気分は誰か他人の心の中にあるわけではなく、わたしたちの心の中にもあるというわけでもなく、気分は感情的な地平のように、わたしたちのすべてを浸しているようなものです。気分はある心の内部にあって、それが目の表情に現れ出てきているというようなことでもありません。

Daß Stimmungen verdorben werden und umschlagen können, sagt nur, daß das Dasein je schon immer gestimmt ist. Die oft anhaltende, ebenmäßige und fahle Ungestimmtheit, die nicht mit Verstimmung verwechselt werden darf, ist so wenig nichts, daß gerade in ihr das Dasein ihm selbst überdrüssig wird. Das Sein des Da ist in solcher Verstimmung als Last offenbar geworden. Warum, weiß man nicht. Und das Dasein kann dergleichen nicht wissen, weil die Erschließungsmöglichkeiten des Erkennens viel zu kurz tragen gegenüber dem ursprünglichen Erschließen der Stimmungen, in denen das Dasein vor sein Sein als Da gebracht ist. Und wiederum kann die gehobene Stimmung der offenbaren Last des Seins entheben; auch diese Stimmungsmöglichkeit erschließt, wenngleich enthebend, den Lastcharakter des Daseins. Die Stimmung macht offenbar, >wie einem ist und wird<. In diesem >wie einem ist< bringt das Gestimmtsein das Sein in sein >Da<. (p.134)
現存在は気分を害されたり、急に気分が変わったりすることがあるが、そうしたことが起こりうるのは、現存在がそのつどつねにすでに気分に染められているからである。単調で活気のない気の抜けたような状態が長くつづくことがあるが、これは不機嫌な気分と混同してはならない。こうした気の抜けたような状態は無にひとしいようなものではなく、現存在はこの状態において、自分自身にうんざりしているのである。このような不機嫌な気分で、現存在にとっては<そこに現に>の存在が重荷になっていることがあらわになる。それはなぜか、誰も”知らない”。現存在はそのようなことを知ることはできない。こうした気分において、現存在は<そこに現に>としての自己の存在に直面させられるのであるが、気分のもつこの根源的な開示と比較すると、認識が開示することのできるものの範囲は、ごくかぎられたものだからである。また高揚した気分が、こうしてあらわにされた存在することの重荷を取りのぞいてくれることもある。気分がそなえているこうした可能性も、取りのぞくという形ではあるが、現存在が負っている<重荷という性格>を開示しているのである。気分は、「その人がどのような状態であるか、どのような状態になるか」をあらわにする。この「その人がどのような状態であるか」において気持ちに染められていることが、存在をその「そこに現に」のもとにもたらすのである。

 気分は主観と客観の対立の構図では考察できない重要な状況を明らかにするものとして、開示的な性格をもつものです。この気分において現存在は、「<そこに現に>としての自己の存在に直面させられるのであるが、気分のもつこの根源的な開示と比較すると、認識が開示することのできるものの範囲は、ごくかぎられたもの」にすぎません。人間が世界で認識という営みをしつつ生きているのはたしかですが、それが人間のもっとも重要な存在のしかたではないのです。
 これまで現存在は、世界の事物を観察するまなざしや、手元にあるものを道具として使用するまなざし、世界にともに住む他者に顧慮するまなざしをもつ存在者として、能動的な主体として存在し、行動しているようにみられてきました。しかし、気分としてある現存在は、たんにこれらの能動的なまなざしを行使することのできる主体として生きているだけではありません。気分に浸された現存在は、悲しみに浸された「わたし」であり、喜びのうちに歓喜する「わたし」です。この「わたし」は<そこに現に>ある存在として、「そこ」にある存在者ですが、「それはなぜか、誰も”知らない”」し、「現存在はそのようなことを知ることはできない」のです。現存在は気分においては、能動的な主体としてよりも、受動的な存在者として存在していることになります。
 この気分の受動性をもっとも明確に示しているのが、現存在にあっては、「単調で活気のない気の抜けたような状態が長くつづく」ことが多いという事実です。これは現存在が「自分自身にうんざりしている」ことを示すと、ハイデガーは指摘しています。この気分が明らかにするのは、現存在にとって「<そこに現に>の存在が重荷になっている」ということです。
 高揚した気分が、「うしてあらわにされた存在することの重荷を取りのぞいてくれる」こともあるでしょう。しかしその場合にも、「気分がそなえているこうした可能性も、取りのぞくという形ではあるが、現存在が負っている<重荷という性格>を開示している」のです。この存在することそのものが、「重荷」となっているということは、現存在が浸されている最大の受動性です。

 こうした現存在の受動的な存在様態に特徴的なことは、それがともかく今、「そこに」存在するということであり、現存在が「どこからきたのか」、そして「どこへ向かうのか」といったことは闇に包まれています。この事態をハイデガーは2つの概念を使って表現します。それが「事実性」と「被投性」です。

Diesen in seinem Woher und Wohin verhüllten, aber an ihm selbst um so unverhüllter erschlossenen Seinscharakter des Daseins, dieses >Daß es ist< nennen wir die Geworfenheit dieses Seienden in sein Da, so zwar, daß es als In-der-Welt-sein das Da ist. Der Ausdruck Geworfenheit soll die Faktizität der Überantwortung andeuten. (p.135)
このように、現存在の<どこから>と<どこへ>は闇に包まれたままであるが、現存在自身には、それだけあらわに開示されているという存在性格がある。それは「ともかく存在しているという事実」であり、わたしたちはこれを、現存在という存在者が、そのみずからの<そこに現に>のうちに”投げ込まれていること”(被投性)と名づける。現存在は世界内存在としてみずからの<そこに現に>を存在することで、みずからの<そこに現に>のうちに投げ込まれているのである。この被投性という表現は、”委ねられているという事実性”を示すために作られたものである。

 『事実性」という概念は、現存在について語られる実存カテゴリーであって、事物に対して語られる「実際のありかた」というカテゴリーと対比して使われることは、すでに第12節で明確にされていました(Part.11参照)。この事実性は、「ある種の岩石が実際に眼の前にある場合とは根本的に異なる」のであり、「それぞれの現存在がそのつどそのように存在しているという意味で、現存在という事実が実際にそうしたありかたをしていることを、現存在の"事実性"と呼ぶ」と定義されたのでした。
 ただし第12節のこの段落では、事実性の概念については、世界内存在は「その<運命>において、みずからの世界の内部で出会う存在者の存在としっかりと結びつけられているものとして、みずからを理解しうるのである」という観点から、世界のさまざまな存在者の存在との結びつきを「運命」とみなすことが指摘されていました。しかし第5章では、この「運命」についてもっと広い観点から、現存在が世界のうちに事実として投げだされている「被投性」という事態に注目するために、事実性という実存カテゴリーが利用されています。
 この「被投性」という概念は、現存在が<どこから>来たのか、<どこへ>行くのかということは知られていないものの、「ともかくも存在している事実」に焦点をあてるものです。ハイデガーは、「現存在は世界内存在としてみずからの<そこに現に>を存在することで、みずからの<そこに現に>のうちに投げ込まれているのである。この被投性という表現は、”委ねられているという事実性”を示すために作られた」と明確に指摘しています。「事実性」は「被投性」と切り離しがたく結びついた概念なのです。
 人は豊かな国の豊かな家庭に生まれることもある一方で、貧しい国の貧しい家庭に生まれることもあるでしょう。これは生まれてきた人にとって選択の余地のない「運命」です。すべての人間はこうした運命によって、「どこから」来たのか、「どこへ」行くのかも不明のままに、今ここに生み落とされるのです。現存在は今ここにともかく存在するのであり、存在しないわけにはいきません。人間のこの被投性という事実性は、実存のうちに取りいれられた存在性格であり、それは情態性の1つのありかたなのです。

 このようにハイデガーにとって、現存在が気分によって規定されている「情態性」のありかたをしていることは、現存在が世界のうちに受動的に投げ込まれて存在するという「被投性」とともに、世界内存在という「事実性」を構成するありかたなのです。ハイデガーはこの情態性というありかたを、3つの存在論的な本質性格から分析しています。
 第1の本質性格は、次のように言われます。

Als ersten ontologischen Wesenscharakter der Befindlichkeit gewinnen wir: Die Befindlichkeit erschließt das Dasein in seiner Geworfenheit und zunächst und zumeist in der Weise der ausweichenden Abkehr. (p.136)
情態性の”第1の”存在論的な本質性格として、次のことを確認する。”情態性は現存在をその被投性において開示する。ただしこの開示は、さしあたりたいていは回避し、背を向けるというありかたで行われる”。

 情態性は気分として開示されるものですが、現存在はこの気分による開示にたいして、素直に対応することが少ないということ指摘されます。現存在は気分によって<そこに現に>という事実の前に立たされますが、「さしあたりたいていは」被投性を「回避」し、それに「背を向ける」のです。
 現存在は、知識や意志によって気分を抑えることができるし、そうするべきときもあるでしょう。気分に支配された人は、周りの人から見たら厄介な存在になることもありますし、他者とのコミュニケーションを円滑にとるためには、それなりに気分の抑制が必要でしょう。その際は、心理学的にいえば「合理化」のようなしかたで気分を抑えることもできますが、だからといって気分が現存在の根源的な存在様式であることを否定することはできません。近代の哲学において、気分が考察から除外される傾向があったように、気分は不合理的なものです。しかし、現存在は事実として、合理的な理解では捉えることができない気分をもっています。むしろわたしたちは気分なしでいることはできないのですから、気分の抑制とは、気分をそれと反対の気分で制することで抑えることにすぎないのではないでしょうか。わたしたちは気分に対して素直ではないことが多いですが、現存在はこの存在様式において、すべての認識や意欲よりも前に、みずからに向かって開示されているのです。
 気分の第2の本質性格は次のように指摘されます。

Die Stimmung hat je schon das In-der-Welt-sein als Ganzes erschlossen und macht ein Sichrichten auf ... allererst möglich. Das Gestimmtsein bezieht sich nicht zunächst auf Seelisches, ist selbst kein Zustand drinnen, der dann auf rätselhafte Weise hinausgelangt und auf die Dinge und Personen abfärbt. Darin zeigt sich der zweite Wesenscharakter der Befindlichkeit. Sie ist eine existenziale Grundart der gleichursprünglichen Erschlossenheit von Welt, Mitdasein und Existenz, weil diese selbst wesenhaft In-der-Welt-sein ist. (p.137)
”気分は世界内存在をそのつどすでに全体として開示してしまっており、それが初めて<何かを志向する>ことを可能にするのである”。ある気持ちに染められていることは、さしあたり何か心的なものと関わることではないし、心の内面の状態でもない。この心の内面が、謎めいたありかたで外部へと赴き、事物と人格を染めたりするようなことはない。ここに、情態性の”第2の”本質性格が示される。実存はそれ自体が本質的に世界内存在であるから、情態性こそが世界、共同現存在、実存が”等根源的に開示される”ことを示す実存論的に根本的な様式なのである。

 「”気分は世界内存在をそのつどすでに全体として開示してしまっており、それが初めて<何かを志向する>ことを可能にするのである”」と語られていますが、これは、現存在は気分をもつことで、初めて世界を認識するように導かれるというハイデガーの指摘です。世界に投げ込まれて存在する現存在は、認識する存在や知覚する存在、意志する存在である以前に、何よりもまず気分に浸された存在です。認識も知覚も意志も、気分によって初めて可能になり、気分によって根拠づけられているのが実情です。伝統的な哲学では、感情は知性などに比べて下級のものであるとみなされてきました。これに対してハイデガーは、気分という下級のものを、認識や意欲よりも根源的なものと位置づけるのです。
 この気分の存在論的な優位については、次のことを考えてみてもわかります。わたしたちは「気分」というと、喜びや悲しみなどの何か強い感情を想定し、こうした極端な感情になっているときには「気分づけられている」と言います。一方でわたしたちは、物事が順調に進んでいるときのわずかな満足感や、何かに対する懸念というような気分にはほとんど気づくことなく、こうしたときには「気分づけられていない」と言います。しかしハイデガーは、実際にはこうした気分こそが、わたしたちがたいていは浸っている気分であり、もっとも強力な気分であると考えます。わたしたちが「気分づけられていない」とみなしているような状態であっても、わたしたちは気分づけられていないことは決してないのであり、これは思考や行為の帰結として付随的に発生するものではなく、こうした思考や行為のための前提であり、条件であるのです。
 そうだとすると気分はたんに現存在が自己について認識する1つの状態であるよりも、むしろ認識そのものを可能にするような現存在の存在の条件であることになります。そのことによって「”気分は世界内存在をそのつどすでに全体として開示してしまって”」いるという性格をおびているのです。
 気分の第3の本質的な性格は、それが現存在が世界内存在として、世界において実存することができるようにしているということです。

Neben diesen beiden explizierten Wesensbestimmungen der Befindlichkeit, dem Erschließen der Geworfenheit und dem jeweiligen Erschließen des ganzen In-der-Welt-seins ist eine dritte zu beachten, die vor allem zum eindringlicheren Verständnis der Weltlichkeit der Welt beiträgt. Früher wurde gesagt: Die vordem schon erschlossene Welt läßt Innerweltliches begegnen. Diese vorgängige, zum In-Sein gehörige Erschlossenheit der Welt ist durch die Befindlichkeit mitkonstituiert. Das Begegnenlassen ist primär umsichtiges, nicht lediglich noch ein Empfinden oder Anstarren. Das umsichtig besorgende Begegnenlassen hat - so können wir jetzt von der Befindlichkeit her schärfer sehen - den Charakter des Betroffenwerdens. Die Betroffenheit aber durch die Undienlichkeit, Widerständigkeit, Bedrohlichkeit des Zuhandenen wird ontologisch nur so möglich, daß das In-Sein als solches existenzial vorgängig so bestimmt ist, daß es in dieser Weise von innerweltlich Begegnendem angegangen werden kann. Diese Angänglichkeit gründet in der Befindlichkeit, als welche sie die Welt zum Beispiel auf Bedrohbarkeit hin erschlossen hat. Nur was in der Befindlichkeit des Fürchtens, bzw. der Furchtlosigkeit ist, kann umweltlich Zuhandenes als Bedrohliches entdecken. Die Gestimmtheit der Befindlichkeit konstituiert existenzial die Weltoffenheit des Daseins. (p.137)
わたしたちは情態性の2つの本質規定を示してきた。第1は、情態性が被投性を開示することであり、第2は、情態性が世界内存在の全体をそのおりおりに開示することである。次に”第3の”本質規定に注目する必要があり、これこそが何よりも世界の世界性をさらに徹底的に理解するために役立つものである。すでに述べたように、わたしたちが世界内部的なものに出会うのは、世界があらかじめすでに開示されているからである。このように<内存在>には、先立って世界を開示するという性格があるが、こうした開示性は、情態性がともに与って構成されているのである。このように世界内部的なものに出会わせる働きは、たんなる感受や凝視の働きではなく、第1義的に”目配り”のまなざしの働きである。配慮的な気遣いで<目配り>のまなざしによって出会うことには、<不意に襲われる>という性格がある。このことは、わたしたちが情態性を考察することでますます明確なものとなった。しかしこうした<不意に襲われる>ということは、手元存在者が<役に立たないこと>や<手に負えないこと>や<脅威となること>によって発生するのである。存在論的にこうしたことが起こりうるのはなぜかと言えば、内存在そのものは実存論的に、このようなありかたで世界内部的に出会うものに”迫られうる”ものであることが、あらかじめ規定されているからである。このように<迫られること>は、情態性によって規定されていることであり、情態性はたとえば<脅かされうること>を見越して、世界を開示してしまっているのである。恐れたり、恐れなかったりするような情態性において存在するものだけが、環境世界的に手元存在するものを、脅威をもたらすものとして露呈させることができる。このように情態性という気分に染められたありかたが、現存在の<世界開放性>を実存論的に構成しているのである。

 現存在は、目配りのまなざしによって道具的な存在者と出会いますが、こうした道具はときに、役に立たない手元存在者として、それまでに気づかなかったような相貌を示すことがあります。柄がとれた槌や、でこぼこになった金床は、刀を製作するためには現存在を困らせるものです。刀を製作できなければ、生活の糧を失うことにもなりかねません。こうした手元的な存在者は「<手に負えないこと>や<脅威となること>」によって、現存在を「襲う」ことがあるのです。そうしたときに、現存在は世界において「世界内部的に出会うものに”迫られうる”」ものであることを経験するでしょう。
 そのとき現存在は、これまで便利に使っていた道具が、突然に現存在に「脅威をもたらすもの」であることを発見します。こうしたことが可能となるのも、現存在が「恐れたり、恐れなかったりするような情態性において存在する」からにほかなりません。このように気分の第3の本質性格は、現存在が認識する主体としてだけではなく、世界に存在するものから脅かされるような受動的な存在者として存在していることを示しています。

In der Befindlichkeit liegt existenzial eine erschließende Angewiesenheit auf Welt, aus der her Angehendes begegnen kann. Wir müssen in der Tat ontologisch grundsätzlich die primäre Entdeckung der Welt der >bloßen Stimmung< überlassen. Ein reines Anschauen, und dränge es in die innersten Adern des Seins eines Vorhandenen, vermöchte nie so etwas zu entdecken wie Bedrohliches. (p.137)
”情態性には実存論的にみて、開示しながら世界へと委ねられているということが含まれているのであり、これに基づいて<迫ってくるもの>と世界の側から出会うことができるのである”。わたしたちは実際のところ”存在論的にみるかぎり”原則として世界を第1義的に露呈させることを、「たんなる気分」に委ねておかねばならない。純粋な直観というものでは、それがどれほど眼前的なものの存在の内的な核心にまで迫ったとしても、決して<脅かすもの>のようなものを露呈させることはできないだろう。

 なお、ハイデガーは、「このように情態性という気分に染められたありかたが、現存在の<世界開放性>を実存論的に構成している」と指摘しています。この「世界開放性」という概念は、ハイデガーと同じくフッサールの教え子であるマックス・シェーラーが示したものです。シェーラーによると動物は、それぞれの種の本能によって環境に拘束されていますが、本能に欠ける人間は、環境に縛られることがなく、世界のうちに生きているといいます。これが人間のもつ「世界開放性」です。
 蜂は自分の住む家を作ることができますが、それは本能で定められたようにです。このように動物は生物学的に規定された範囲において、世界を自分の生存のために利用することができますが、本能による囚われのために、世界の存在そのものを認識するような存在者であるわけではありません。これに対して人間は、あるものを自分とのかかわりで、それにある態度を取りながら、「あるもの」として規定することができる存在者であり、それが「ある」という事実を認識することができます。
 これと同時に、人間はあるものを「なすく」ことができ、その存在を否定することで、「無」を認識することができます。動物は環境に囚われていますが、人間はその環境を、そこにおいてあるものが存在したり、存在しなかったりすることのできる世界にすることができるのです。そのことによって人間は環境に囚われることがなく、シェーラーの指摘するような「世界開放性」を特徴とするのです。
 現存在は動物と同じように世界のうちに生きています。しかしそれを本能によって拘束されて結びつけられて、囚われた環境としてではなく、世界として認識し、そうした世界のうちで開かれて生きることができるのであり、「世界を第1義的に露呈させる」ことができます。それは現存在が情態性によって規定され、世界のうちで「たんなる気分」に浸されているからにほかなりません。

 情態性の重要性を強調することは、理性を重視する伝統的な哲学の傾向とは明確に対立したものです。人間の認識の端緒においては、情動に浸された認識や、対象を道具として使おうとする意図に基づいた認識が、客観的で科学的なまなざしによる認識よりも根本的なものであり、先立つものであると考えるべきなのです。

Gerade im unsteten, stimmungsmäßig flackernden Sehen der >Welt< zeigt sich das Zuhandene in seiner spezifischen Weltlichkeit, die an keinem Tag dieselbe ist. Theoretisches Hinsehen hat immer schon die Welt auf die Einförmigkeit des puren Vorhandenen abgeblendet, innerhalb welcher Einförmigkeit freilich ein neuer Reichtum des im reinen Bestimmen Entdeckbaren beschlossen liegt. Aber auch die reinste θεωρία hat nicht alle Stimmung hinter sich gelassen; auch ihrem Hinsehen zeigt sich das nur noch Vorhandene in seinem puren Aussehen lediglich dann, wenn sie es im ruhigen Verweilen bei ... in der ῥᾳστώνη und διαγωγή auf sich zukommen lassen kann. - Man wird die Aufweisung der existenzial-ontologischen Konstitution des erkennenden Bestimmens in der Befindlichkeit des In-der-Welt-seins nicht verwechseln wollen mit einem Versuch, Wissenschaft ontisch dem >Gefühl< auszuliefern. (p.138)
まさにわたしたちが定めなく、気分におうじて揺らぎながら「世界」を眺めているときにこそ、手元的な存在者はそれに固有な世界性を示してくるのであり、この世界性は1日として同じ姿を示すことはない。理論的に眺めやる営みでは、世界には純然たる眼前的な存在者だけが一様に存在していると想定するのであり、そのことで世界はつねにすでに外部からの光を遮断されてしまっている。たしかにこの一様に存在しているものを純粋に規定することで露呈させることのできるものによって、新たに豊かな知識が生まれることだろう。しかしいかに純粋な観想であっても、すべての気分を脱ぎ捨てているわけではない。もっとも純粋な観想のまなざしのもとで、わずかに眼前的に存在するにすぎないものが、純粋な外見を示しながら現れてくるのは、この観想のまなざしが<~のもとに>”落ち着いて”滞在するとき、そして安楽な暮らしと閑暇のある暮らしにおいて、そうした存在者をみずからに近づけさせうるときにかぎられるのである。ただしこのように認識による規定の営みが、世界内存在の情態性のうちで実存論的かつ存在論的に構成されることを指摘したところで、学問を存在者的な意味で「感情」に委ねる試みだと誤解する人はいないだろう。

 ハイデガーは、アリストテレスの『形而上学』での議論を援用しながら、情動的な認識や道具的な認識の先行を指摘します。アリストテレスは人間の認識というものは、「安楽な暮らし」や「閑暇のある暮らし」が達成されてから、初めて生まれたものであると語っています。世界に必要な道具は、配慮するまなざしのもとで獲得され、使われるものです。これらの道具を使うことで、人間が世界のうちで安楽に生きることができるようになり、そのあとで初めて、純粋な知への欲望が生まれると、アリストテレスは考えます。それと同じようにハイデガーは、まず生活を安楽にするためのさまざまなまなざしと知識が働き、こうした欲求が満たされた後に、初めて「純粋な観想」という観想のまなざしが生まれると考えるのです。人間の「認識による規定の営みが、世界内存在の情態性のうちで実存論的かつ存在論的に構成される」のであって、最初から純粋な観想のまなざしが働いていたわけではありません。

 情態性についてのまとめに入ります。

Die Befindlichkeit erschließt nicht nur das Dasein in seiner Geworfenheit und Angewiesenheit auf die mit seinem Sein je schon erschlossene Welt, sie ist selbst die existenziale Seinsart, in der es sich ständig an die >Welt< ausliefert, sich von ihr angehen läßt derart, daß es ihm selbst in gewisser Weise ausweicht. Die existenziale Verfassung dieses Ausweichens wird am Phänomen des Verfallens deutlich werden. (p.139)
情態性は、現存在の存在とともにつねにすでに開示されている世界に、現存在をその被投性において開示し、さらに現存在がそこに<差し向けられていること>を開示する。それだけでなく情態性とはそれ自体が1つの実存論的な存在様式であって、この存在様式において現存在はつねにみずからを不断に「世界」へと委ねている。そして現存在は自分自身を回避するという形で、世界から迫られているのである。この回避の実存論的な機構については、いずれ頽落という現象によって明確にされるだろう。

 このまま引用を続けます。

Die Befindlichkeit ist eine existenziale Grundart, in der das Dasein sein Da ist. Sie charakterisiert nicht nur ontologisch das Dasein, sondern ist zugleich auf Grund ihres Erschließens für die existenziale Analytik von grundsätzlicher methodischer Bedeutung. Diese vermag, wie jede ontologische Interpretation überhaupt, nur vordem schon erschlossenes Seiendes auf sein Sein gleichsam abzuhören. Und sie wird sich an die ausgezeichneten weittragendsten Erschließungsmöglichkeiten des Daseins halten, um von ihnen den Aufschluß dieses Seienden entgegenzunehmen. Die phänomenologische Interpretation muß dem Dasein selbst die Möglichkeit des ursprünglichen Erschließens geben und es gleichsam sich selbst auslegen lassen. Sie geht in diesem Erschließen nur mit, um den phänomenalen Gehalt des Erschlossenen existenzial in den Begriff zu heben. (p.139)
このように情態性は、現存在がみずからの<そこに現に>であるような実存論的に根本的な存在様式である。情態性は存在論的に現存在を特徴づけるだけでなく、その開示の働きのために、実存論的な分析論にとって、原理的に方法論的な意義をそなえている。一般にどんな存在論的な解釈にもあてはまることだが、実存論的な分析論によっては、あらかじめすでに開示されている存在者について、その存在をいわば<聞き取る>ことしかできない。現存在には、きわめて広範な開示可能性がそなわっている。この実存論的な分析論がこれらの開示可能性のうちから、現存在という存在者の解釈をいわば<受け取る>ことができるためには、こうした開示可能性を手放さずに、問いつづける必要があるのである。現象学的な解釈は、現存在自身に根源的な開示の可能性を与え、それによって現存在が同時にみずからを解釈するようにさせねばならない。現象学的な解釈はこの現存在の開示にいわば同伴し、そこに示された開示の現象的な内容を、実存論的に概念化するだけでよいのである。

 ハイデガーが行う実存論的な分析では、「あらかじめすでに開示されている存在者について、その存在をいわば<聞き取る>ことしかできない」のです。そうした<聞き取り>のためには、現存在が抱く感情を分析する作業にはきわめて重要な「原理的に方法論的な意義」がそなわっているのです。この分析は、現存在が開示されているところ、すなわちその気分という情動において、その開示に「いわば同伴」することから始め、次に「そこに示された開示の現象的な内容を、実存論的に概念化」することを試みるのです。


 第29節は以上となります。現存在の根本的な存在様式である「情態性」についてはいかがだったでしょうか。この節では他にも、「被投性」や「事実性」といった重要な概念が登場する内容の濃い節だったと思います。次回はこの情態性の現象が、「恐れ」という特定の様態において具体的に示されることになります。

 それでは、また次回よろしくお願いします。

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