『存在と時間』を読む Part.50

  第49節 死の実存論的な分析と、死の現象について可能なその他の解釈の領域の確定

 これまで現存在について獲得されてきた根本機構である気遣いの現象を導きの糸として、死についての実存論的な分析が行われることになります。その際、わたしたちが獲得すべき死の概念についての分析が、好ましくない脇道にそれないようにするためには、死についての存在論的な解釈に、一義的な方向づけを行う必要があるでしょう。それを明確にするのがこの節であり、この解釈は何を問うことができないのか、この解釈にどのような情報や指示を期待しても無駄であるかが、指摘されることになります。

 前節でハイデガーが示した現存在のありかたである「終わりに臨む存在」を考察するのが、死の実存論的な分析となります。この分析は、死についてのその他のさまざまな分析とは明確に異なるものであるでしょう。
 まず死の生物学的・生理学的な分析が考えられますが、これは現存在を実存する者としてではなく、純粋な生命として、生物として考察するものです。その場合には人間は動物の一種として考察されることになり、生物としての死という観点から眺められることになります。すでに動物は「落命(>Verenden<)」しますが、人間は「死ぬ(>Sterben<)」ことが指摘されていました(Part.48参照)。ただし、前節で指摘されたように、人間も本来的な意味で死ぬ前に、命を落とすことがあります。ハイデガーはこの>Sterben<ではないが>Verenden<でもありえない中間的な現象を「息絶えること(>Ableben<)」という概念で呼びますが、いずれにしても現存在の死は存在論的に考察すべきなのであり、動物の落命とは区別すべきなのです。
 第2の考察方法としては、人間を医学的・生物学的に探究するという観点から考察するものがあげられます。人間がそもそも病気になったり息絶えたりするということは、動物とは違う現象として存在論的に考察する価値のあるものです。わかりやすいのが精神医学のように個人を対象とするような医学であり、人間が言語を使用することによって自身の症状を訴えたりできるような場合です。また人間にとって死は個体的に切実なものであり、近代において死を考察することではじめて個人が科学の対象となったことが指摘できるでしょう。
 第3の分析方法として、死の心理学的・民族学的な分析があります。ハイデガーによれば、心理学は死そのものを解明するのではなく、死につつある人の生を解明するものであり、死を前にした人間の心理学的な考察を行います。これには古代からの死の儀礼の歴史的な研究を含めることができるでしょう。死に対する態度についての歴史的な考察は、現存在の生と死についての基本的な姿勢の変化として考察できます。また死の民族学的な考察は、未開人における死の捉え方とか、宗教儀礼において示された死への態度などを考察するものです。こうした死の考察もまた、現存在にとって死とは何かを理解するために役立つものでしょう。
 第4に、死の宗教学的な考察が挙げられます。キリスト教を基盤とする社会に生きる人々にとっては、死後の世界において人々の魂が救済されるかどうか、魂は不死であるかどうかは、きわめて重要な問題です。たとえばカントは『純粋理性批判』などで、道徳性と幸福の両立の可能性を、来世の存在と魂の不死によって根拠づけたのであり、これは現世における道徳的な生と良心という問題を経由して、『存在と時間』にもかかわってくる問題です。
 第5の考察方法として、哲学と形而上学という領域の死の考察が挙げられます。人間はなぜ死ぬのかという疑問は、西洋においては哲学の問題であるとともに宗教の問題として考察されてきました。こうした問題は神学的な問いであるとともに、人間の存在の意味と起源という哲学ほんらいの問題にかかわるものであり、存在論的な考察に依拠しないかぎり、考察するのが困難なものです。
 以上あげてきた考察は、死の実存論的な分析に方法論的に依拠すべきものであり、現存在がどのような存在者であるかという考察から始めることで、初めて解決できる問題であると、ハイデガーは考えます。とくに生物学や心理学などでは、人間をあたかも眼前的な存在者であるかのように客観的かつ科学的に考察する方法を採用することが多いために、実存する現存在についての考察が無視されてしまうことになりかねません。存在論的な考察抜きのこうした考察から、現存在の死について有意義な洞察がえられることはないと、ハイデガーは考えるのです。

Dieser biologisch-ontischen Erforschung des Todes liegt eine ontologische Problematik zugrunde. Zu fragen bleibt, wie sich aus dem ontologischen Wesen des Lebens das des Todes bestimmt. In gewisser Weise hat die ontische Untersuchung des Todes darüber immer schon entschieden. Mehr oder minder geklärte Vorbegriffe von Leben und Tod sind in ihr wirksam. Sie bedürfen einer Vorzeichnung durch die Ontologie des Daseins. Innerhalb der einer Ontologie des Lebens vorgeordneten Ontologie des Daseins ist wiederum die existenziale Analyse des Todes einer Charakteristik der Grundverfassung des Daseins nachgeordnet. (p.246)
死についてのこのような生物学的で存在者的な研究の根底には、ある存在論的な問題構成がひそんでいる。生命の存在論的な本質からは、死の存在論的な本質がどのように規定されるのかという問いが残っているのである。ある意味では死の存在者的な探究はつねにすでに、これについて決定を下しているのである。こうした存在者的な探究においては、生命と死についてさまざまな予備概念が利用されているのであり、こうした概念はよく解明されていることも、あまり解明されていないこともある。これらの予備概念については、現存在の存在論によってあらかじめ素描しておく必要がある。現存在の存在論は生命の存在論よりも”前に位置し”、この現存在の存在論の内部においてはまた、死の実存論的な分析が、現存在の根本機構の性格づけよりも”後に位置している”ことが必要なのである。

 またこの分析では、何か宗教的な目的で、死に臨む態度を定める規範や規則を提示するものではなく、来世やその可能性についても、現世についても、いかなる存在者的な決定を下すものではないと、ハイデガーは断ります。死の分析は、死の現象を解釈するかぎりにおいて、この現象が現存在の存在可能性として、どのように現存在のうちに現れるかということだけを問おうとするものです。

Mit Sinn und Recht kann überhaupt erst dann methodisch sicher auch nur gefragt werden, was nach dem Tode sei, wenn dieser in seinem vollen ontologischen Wesen begriffen ist. Ob eine solche Frage überhaupt eine mögliche theoretische Frage darstellt, bleibe hier unentschieden. Die diesseitige ontologische Interpretation des Todes liegt vor jeder ontisch-jenseitigen Spekulation. (p.248)
死の存在論的な本質が完全に把握された後になって初めて、”死の後に何があるのか”などという問いを、方法論的に確実に、意味のある形で正当に”問う”ことができるようになるのである。このような問いが”理論的な”問いとして、そもそも成立するかどうかということは、ここでは決定しないでおく。死の現世的な存在論的な解釈は、どのような存在者的で彼岸的な思弁にも、先立っているのである。

 死の実存論的な分析は、方法論的に、死についての生物学や心理学的な問い、神学の問いなどに先立つものです。現存在は実存する存在者ですから、現存在そのものが眼前的な存在者としては接近できないものとなっています。そして死は現存在の傑出した可能性であることを考えるなら、死の実存論的な分析は、死のあらゆる存在者的な分析よりも「”前に位置”」しているものであることが指摘されるべきでしょう。また死の実存論的な分析は、「現存在の根本機構の性格づけよりも”後に位置している”ことが必要」であると指摘されているように、死の実存論的な分析は、気遣いという現存在の根本機構に基づいて解釈する必要があります。死の現象は〈終わりに臨む存在〉として、現存在のありかたとして考察されるからです。
 死の実存論的な問題構成では、現存在の〈終わりに臨む存在〉の存在論的な構造を詳細に考察することだけを目的とします。ですから実存論的な概念規定を行う際には、特定の実存的な態度に捉えられないように注意する必要があるでしょう。


 今回は以上になります。次節では、これから考察される死の存在論的な構造があらかじめ素描されることになります。


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