『存在と時間』を読む Part.31

 この節は比較的難解ではありますが、本書の中でも重要な一節であると思います。本書の目的である「存在の意味」の「意味」という概念や、「解釈学的循環」などの序論ですでに登場していた概念が、理解と解釈という実存論的な概念に注目しつつ、この節で取り上げられることになります。また「予持、予視、予握」の「予ー」構造も、ここで登場することになります。

  第32節 理解と解釈

 現存在は理解することで、世界に存在するみずからを開示します。世界において存在する現存在の存在様式について理解すること、そうした自己認識のことを、ハイデガーは理解とは別の「解釈」という概念で提起します。

Das Entwerfen des Verstehens hat die eigene Möglichkeit, sich auszubilden. Die Ausbildung des Verstehens nennen wir Auslegung. In ihr eignet sich das Verstehen sein Verstandenes verstehend zu. In der Auslegung wird das Verstehen nicht etwas anderes, sondern es selbst. Auslegung gründet existenzial im Verstehen, und nicht entsteht dieses durch jene. Die Auslegung ist nicht die Kenntnisnahme des Verstandenen, sondern die Ausarbeitung der im Verstehen entworfenen Möglichkeiten. (p.148)
理解が行う投企には、みずからをさらに発展させる独自の可能性があり、理解がこのように発展することをわたしたちは”解釈”と呼ぶ。解釈において理解は、みずから理解したことを理解しつつ、わがものとする。理解は解釈において何か別のものになるわけではなく、理解そのものになるのである。実存論的には解釈は理解に基づいて行われるのであり、解釈に基づいて理解が生まれるのではない。解釈とは、すでに理解していることについて知識を増やすことではない。理解のうちで投企されているさまざまな可能性を仕上げるのが解釈である。

 理解と解釈の関係をまず確認しておきましょう。現存在にとって理解することは、現存在の根源的なありかたの1つです。そしてこうした理解の根源性に基づいた現存在の自己認識が解釈であり、「解釈において理解は、みずから理解したことを理解しつつ、わがものとする」のです。解釈は「理解が行う投企」をさらに発展させる営みであり、「理解のうちで投企されているさまざまな可能性を仕上げる」ことです。解釈は理解の派生的なありかたであり、現存在が自己を世界から理解する方法の1つとなります。

Aus der im Weltverstehen erschlossenen Bedeutsamkeit her gibt sich das besorgende Sein beim Zuhandenen zu verstehen, welche Bewandtnis es je mit dem Begegnenden haben kann. Die Umsicht entdeckt, das bedeutet, die schon verstandene Welt wird ausgelegt. Das Zuhandene kommt ausdrücklich in die verstehende Sicht. Alles Zubereiten, Zurechtlegen, Instandsetzen, Verbessern, Ergänzen vollzieht sich in der Weise, daß umsichtig Zuhandenes in seinem Um-zu auseinandergelegt und gemäß der sichtig gewordenen Auseinandergelegtheit besorgt wird. (p.148)
配慮的な気遣いをしている存在は、手元的な存在者については、そのつど出会うものがどのような適材適所性をそなえるかを、世界の理解において開示されている有意義性に基づいて理解しようとする。目配りのまなざしが、あるものを露呈させるということは、すでに理解された世界が解釈されるということである。このようにして手元的な存在者が”明示的に”、理解するまなざしのもとに入ってくるのである。準備すること、整理すること、修理すること、改善すること、補充することなど、これらのすべては、目配りのまなざしのもとにある手元的な存在者が、<~のために>ある目的にふさわしく、解き分けられ、見やすく分けられた状態にふさわしく配慮的に気遣われるというありかたで行われるのである。

 理解の派生的なありかたとしての解釈は、世界における現存在のまなざしの存在様態におうじて、段階的に展開されると考えられます。第1に解釈は、手元的な存在者の有意義性と適材適所性を示すものとして活用されます。第2に解釈は、手元的な存在者に手を加えることが必要となったときに、そのために適切な方法を示すのに役立ちます。第3に解釈は、眼前的な存在者が純粋に知覚される様態を規定します。これらの段階を順に調べてみましょう。

 第1の段階において解釈は、手元存在者が世界においてそなえている有意義性と適材適所性を明示的に示す役割をはたします。ここで働いているのは目配りのまなざしであり、このまなざしはある手元的な存在者が「何であるか」という問いを提示します。この問いに目配りのまなざしは解釈することで、「それは~するためのものである」と答えます。

Das umsichtig auf sein Um-zu Auseinandergelegte als solches, das ausdrücklich Verstandene, hat die Struktur des Etwas als Etwas. Auf die umsichtige Frage, was dieses bestimmte Zuhandene sei, lautet die umsichtig auslegende Antwort: es ist zum ... Die Angabe des Wozu ist nicht einfach die Nennung von etwas, sondern das Genannte ist verstanden als das, als welches das in Frage stehende zu nehmen ist. (p.149)
目配りのまなざしで、<~のため>の目的にふさわしく、たがいに解き分けられたものは、そのようなものとして、”明示的に”理解され、”あるものとしてのあるもの”という構造をそなえている。この特定の手元的な存在者が何であるかという目配りのまなざしからの問い掛けにたいしては、目配りのまなざしによって解釈することで、答えられる。その答えは、「それは~するためのものである」ということになる。このように<何のため>という用途を示すということは、たんにそのものを名づけるということではない。このようにして名ざされたものは、問われているものが、”~として”考えられるべきそのものとして”として”、理解されているということである。

 ある手元的な存在者が何であるかという問いに、「それは~するためのものである」と答えることは、すでに了解されていたことであって、それを明示的に示すのが解釈の役割です。目配りのまなざしは、あるものを、「~するためのもの」「~として」解釈します。解釈が示すこの「として」が、理解されたものが明示的に示されるための構造をなしており、これは手元存在者を、「”あるものとしてのあるもの”」という構造において理解するということです。
 わたしたちが手元存在者に囲まれて生活していますが、その際にどんな手元存在者を知覚するときも、それをまず木や鉄などの物質として知覚してから、その後でそれがドアであるとか、金槌であるとか把握するのではありません。ドアや金槌は最初から、ドアであり金槌であるものとして知覚されているのであり、それらが木材や金属でできた物質であることが知覚される以前に、すでに部屋に入る入口「として」、打つ道具「として」知覚されています。解釈は手元存在者を、まず何よりもある用途に役立つもの「として」認識させるのであり、それは眼前的な存在者に意義をまとわせて価値をつけるような営みとは異なります。解釈は最初から、世界の適材適所性の連関のうちに、手元存在者を認識させるのです。

Das >Als< macht die Struktur der Ausdrücklichkeit eines Verstandenen aus; es konstituiert die Auslegung. Der umsichtig-auslegende Umgang mit dem umweltlich Zuhandenen, der dieses als Tisch, Tür, Wagen, Brücke >sieht<, braucht das umsichtig Ausgelegte nicht notwendig auch schon in einer bestimmenden Aussage auseinander zu legen. Alles vorprädikative schlichte Sehen des Zuhandenen ist an ihm selbst schon verstehend-auslegend. (p.149)
「~として」は、理解されたものが明示的に示されるための構造をなしている。これが解釈を構成する。目配りのまなざしで解釈しながら環境世界的な手元的な存在者と交渉することは、この手元的な存在者をテーブル、ドア、車、橋”として”「見ている」ことであるが、目配りのまなざしで解釈されたものは、つねに特定の”言明”によって解き分けられているわけではない。手元的な存在者はすべて、端的に前述語的な形ですでに<見られている>のであり、それみずからにおいて、すでに理解されながら解釈されつつあるのである。

 手元存在者はそれが「ドアである」とは「金槌である」というように明示的に言明される必要はなく、「手元的な存在者はすべて、端的に前述語的な形ですでに<見られている>のであり、それみずからにおいて、すでに理解されながら解釈されつつある」のです。

Die Artikulation des Verstandenen in der auslegenden Näherung des Seienden am Leitfaden des >Etwas als etwas< liegt vor der thematischen Aussage darüber. In dieser taucht das >Als< nicht zuerst auf, sondern wird nur erst ausgesprochen, was allein so möglich ist, daß es als Aussprechbares vorliegt. (p.149)
存在者を解釈しながら近づけたときに理解されたものは、「あるものとしてのあるもの」を導きの糸として、その存在者についての主題的な言明よりも”前に”分節化されているのである。「として」は、この主題的な言明のうちで、初めて登場するものではなく、そこで初めて語られただけである。そもそもこのように言明することができるのは、この「として」がはっきりと語りうるものとしてすでにそこに存在しているからである。


 第2の段階に移りましょう。この段階では、手元存在者が世界のうちで有意義性のもとでの適材適所性をそなえていないと判断された場合に、解釈が働きます。ドアの取っ手が外れていたり、金槌の柄がとれていると、それらは道具としての機能を失います。そのときには、そうしたドアや金槌は改善すべき欠如があるものとして、そのままでは適材適所性を喪失したものとして解釈されることになります。この解釈によって現存在は、目配りのまなざしのもとにある手元的な存在者が、「<~のために>ある目的にふさわしく、解き分けられ、見やすく分けられた状態にふさわしく配慮的に気遣われる」ようにするために、適切な措置をとることが必要になります。
 現存在は、「準備すること、整理すること、修理すること、改善すること、補充すること」などの手段を講じて、欠如を是正することが必要になります。この段階では解釈は、手元存在者のその適材適所性の観点から、その欠如を是正するための行動を促す役割をはたすのです。

 第3の段階において、目配りのまなざしに大きな変動が生じます。変動をこうむったこのまなざしは、ドアを茶色の板が張られた四角い物体として眺めるようになります。このまなざしはつまり、目配りのまなざしから、対象をたんなる物体として眺めやるまなざしに変化したのです。このような変化は、第2段階で手元存在者に何らかの欠如があることが認識され、それが現存在の日常生活の適材適所性の連関から切り離されることで訪れます。
 このまなざしは、対象を新たな価値の観点から眺めることもできるでしょう。立派な木で作られたドアが美しいと眺めるまなざしは、ドアを日常的な道具として無意識に使っているときにそれを眺めるまなざしとは別のものであり、美的な価値という新しい観点から、ドアを眺めるまなざしです。
 眺めやるまなざしによる自然科学的な観点や美的な観点などは、手元存在者の適材適所性の連関のうちに潜在的に含められていたものです。わたしたちが日常生活で使う手元存在者について、それを最初に部屋に入れた時点では、実はこうした配慮をしていたに違いありません。素材や絵柄、価格などを見て、好みではないマグカップは使いたくないものですし、あまりにも高価なマグカップは日常の用途には適さないでしょう。しかし日常の生活の中で使い慣れているマグカップは、その機能と、部屋の中での適材適所性という観点から眺められており、その他の要因はほとんど忘却され、意識されないものになっていたのです。
 ここで重要なのは、現存在の日常性という観点から考えるならば、手元存在者はその適材適所性の連関のうちで、その機能の面から解釈されるのが基本であると、ハイデガーは考えていることです。純粋に凝視するようなまなざしは、目配りのまなざしに何らかの要因で修正が加えられないかぎり、登場することはないのです。日常における根源的なありかたは、目配りのまなざしのもとで、手元存在者がその十全な適材適所性において、意識されずに眺められている状態にあると考えられます。手元存在者は、「~として」という適材適所性の連関のうちで眺められるのがそのほんらいのありかたであり、手元存在者を、「~として」眺める姿勢こそが、実存論的なアプリオリな理解のありかたなのです。

 この「として」の理解というものがどのようなものであるかを、さらに考えてみましょう。自然の事物である樹木が存在するのは、たとえば街路樹「として」です。この街路樹は、都市の道路に沿って、歩道に木陰を作るものとして、適材適所性をそなえた形で植えられており、その存在は世界の構造、この場合には現存在が居住する都市の構造によってあらかじめ規定されています。このような構造は、あらかじめ理解を可能にする「地平」のようなものとして存在していますが、それをハイデガーは「予ー持」と呼びます。

Zuhandenes wird immer schon aus der Bewandtnisganzheit her verstanden. Diese braucht nicht durch eine thematische Auslegung explizit erfaßt zu sein. Selbst wenn sie durch eine solche Auslegung hindurchgegangen ist, tritt sie wieder in das unabgegobene Verständnis zurück. Und gerade in diesem Modus ist sie wesenhaftes Fundament der alltäglichen, umsichtigen Auslegung. Diese gründet jeweils in einer Vorhabe. (p.150)
手元的に存在しているものは、つねにすでに適材適所性の全体から理解されている。この適材適所の全体性を、主題的な解釈によって明示的に捉えている必要はない。この適材適所の全体性にたいしてこうした主題的な解釈が行われたとしても、やがてはまた目立たない了解のうちにもどってゆくものである。そしてこの目立たない様態のうちでこそ、こうした適材適所の全体性は日常のめくばりのまなざしによる解釈のための本質的な基礎となっているのである。こうした解釈は、そのおりおりに”予持”のうちに根拠づけられている。

 都市の街路樹は、適材適所性としての「~のために」によって、あらかじめ規定されているのであり、「こうした適材適所の全体性は日常のめくばりのまなざしによる解釈のための本質的な基礎となってい」ます。そしてこれについて理解する解釈は、「そのおりおりに”予持”のうちに根拠づけられている」のです。
 「予持」と訳すドイツ語>Vorhabe<は、「前」を示す>vor<と、「持つ」を意味する動詞>haben<の派生形である名詞>Habe<が合成された語となっています。後でみるように、これは被投性とかかわりがある概念であるので、「あらかじめ持たされている」というようなニュアンスの語であることを念頭においておきましょう。
 この予持は、解釈の端緒として摑まれた現象です。この現象は解釈を導くめじるしとなるものであり、樹木を都市の街路樹として解釈するための手掛かりとなるものです。しかしそれはまだ「持たされている」だけであって、それを探索し、解釈するまなざしが必要です。このまなざしを提供するのが、「予ー視」です。

Sie bewegt sich als Verständniszueignung im verstehenden Sein zu einer schon verstandenen Bewandtnisganzheit. Die Zueignung des Verstandenen, aber noch Eingehüllten vollzieht die Enthüllung immer unter der Führung einer Hinsicht, die das fixiert, im Hinblick worauf das Verstandene ausgelegt werden soll. Die Auslegung gründet jeweils in einer Vorsicht, die das in Vorhabe Genommene auf eine bestimmte Auslegbarkeit hin >anschneidet<. (p.150)
解釈は、了解したことをみずからのものとして獲得することであるから、すでに理解された適材適所の全体性を理解しつつかかわる存在のうちで働いている。ところで理解されてはいるものの、まだ覆われているものをみずからのものとして獲得するためには、この<覆いを取り除く>必要があるが、そのためには理解されたものをどのような観点から解釈すべきかを定めるための<眺めやるまなざし>につねに導かれる必要がある。すなわち解釈はそのつど、何らかの”予視”に基づいているのであり、この予視はすでに予持のうちに保持されているものに、ある特定の解釈可能性を見越して、「照準を合わせて」おくのである。

 街路樹として植えられた樹木が世界のうちで適材適所性をもつのは、それが現存在の生活の幸福のために必要とされているからであり、その必要性は現存在の幸福を目指すものとして、あらかじめ規定されています。この樹木の適材適所性は、現存在の生活の必要性という観点から眺められているのであり、すなわち、そこにはあらかじめ理解のための前提となる「視点」が存在しているということです。それはハイデガーは「予ー視」と呼びます。
 「予視」と訳すドイツ語は>Vorsicht<であり、「前」を表す>vor<と、「まなざし、観点」を意味する>Sicht<という名詞から合成された語です。この概念は、世界のすべての事物をどのような視点から眺めるかが、あらかじめ規定されていることを示しています。こうした理解は、「理解されたものをどのような観点から解釈すべきかを定めるための<眺めやるまなざし>につねに導かれる必要がある」のです。
 また、世界に生きる現存在の生活に必要なものは、現存在そのものの規定によって定められています。現存在は、眼前的な存在者や手元的な存在者とは違って実存するものです。これらの事物的な存在者にたいしてはカテゴリーが適用されますが、実存する現存在にたいしては実存カテゴリーが適用される必要があります。
 たとえばここでの街路樹の用途についての問いは、問いが提起される以前にすでに、それにどのような種類のカテゴリーが適用されるべきかがすでに規定されているのであり、それをハイデガーは「予ー握」と呼びます。

Das in der Vorhabe gehaltene und >vorsichtig< anvisierte Verstandene wird durch die Auslegung begreiflich. Die Auslegung kann die dem auszulegenden Seienden zugehörige Begrifflichkeit aus diesem selbst schöpfen oder aber in Begriffe zwängen, denen sich das Seiende gemäß seiner Seinsart widersetzt. Wie immer - die Auslegung hat sich je schon endgültig oder vorbehaltlich für eine bestimmte Begrifflichkeit entschieden; sie gründet in einem Vorgriff. (p.150)
予持のうちに保持され、「予視によって」照準を合わせられると、この理解されたものは解釈によって把握できるものになる。解釈する営みでは、解釈すべき存在者に属する概念装置をこうした存在者そのものから汲み取ることもあれば、ときにはこうした存在者の存在様式には適さない概念のうちに、その概念装置を押し込めてしまうこともある。どちらにしても解釈は、最終的にあるいは留保つきで、そのつどすでに特定の概念装置を採用することを決定してしまっているのである。解釈は”予握”に基づいているのである。

 ここはドイツ語で読むとわかりやすい箇所でしょう。この「予握」と訳すドイツ語>Vorgriff<は、先の2つと同様、「前」を意味する>vor<と、「つかむ、把握する」を意味する動詞>greifen<の派生形である>griff<が合成された語となっています。この>greifen<という語は、「概念装置、概念性」と訳す>Begrifflichkeit<にもみられるように、「概念としてつかむ、把握する」というようなニュアンスをもっています。ですからこの>Vorgriff<は、「あらかじめ概念として把握する」というような意味で、問いで問われる概念が、すでに問いが提起される以前から定められ、把握されているということを示す語であると考えることができるでしょう。
 わたしたちはふつう、友人を街路樹と同様の存在様式で存在する存在者であるとみなすことはありません。友人は共同存在するものとして、街路樹は手元存在するものとして把握されているはずです。すなわちすべての解釈は、「そのつどすでに特定の概念装置を採用することを決定してしまっている」のであり、「解釈は”予握”に基づいている」のです。

 これらの予持、予視、予握の3つの予ー構造が、現存在の存在構造に固有なものであることについては、後の節で改めて考察されることになります。ここではこの構造がもつ解釈学的な循環の問題について取り上げられます。
 「解釈学的な循環」は、すでに序論でも登場していました(Part.1参照)。Part.1では、問うべき存在が、現存在という存在者の存在様態である問いそのもののうちに<先行的に含まれて>いるということが、本質的なことであると指摘されていたのであり、ハイデガーはここに論理学的な意味での循環はないと説明していたのでした。この「先行的に含まれて」いるということが、ここで予ー構造の概念によって改めて提示されたのです。
 解釈において、すでに予ー構造が背後に控えているということは、解釈がどのようなものになるか、その問い掛けの対象、問いの内容、問い求めるものが、すでに規定されているということに他なりません。これは問いを立てる前から、すでに答えがあからじめ素描されているということであり、それが循環だと言われています。この循環論の問題にたいして、ハイデガーはこの部分で明確に答えようとします。『存在と時間』で問われているものは、存在の意味ですが、その問いにおいては、存在の意味が論理的な意味で前提とされているわけではありません。ハイデガーは、この循環論の非難には、大きく分けて3つの観点から反論することができると考えています。

 第1に、「あるものをあるものとして」解釈するという営みは、まったくの白紙から行うことはできない性格のものです。すべての解釈は、あるものについて、それがどのようなものであるかを考察しますが、そのあるものについて考察する時点で、すでに多くのことが前提として含まれています。たとえば街路樹について考察するときには、街路樹とは何か、樹木とは何かということがすでに確定されている必要があります。こうした概念的な定義のうちには、すでにそのものが「何のために」あるものであるかが含まれている場合が多く、街路という概念は都市という概念を前提としますし、都市という概念は人間が集まって居住する場所として、すでに人間という概念と居住という概念を含んでいます。そこには都市がどのような目的で構築されているかということが前提とされているのです。

Die Auslegung von Etwas als Etwas wird wesenhaft durch Vorhabe, Vorsicht und Vorgriff fundiert. Auslegung ist nie ein voraussetzungsloses Erfassen eines Vorgegebenen. Wenn sich die besondere Konkretion der Auslegung im Sinne der exakten Textinterpretation gern auf das beruft, was >dasteht<, so ist das, was zunächst >dasteht<, nichts anderes als die selbstverständliche, undiskutierte Vormeinung des Auslegers, die notwendig in jedem Auslegungsansatz liegt als das, was mit Auslegung überhaupt schon >gesetzt<, das heißt in Vorhabe, Vorsicht, Vorgriff vorgegeben ist. (p.150)
<あるものをあるものとして>解釈することは、本質的にこれらの予持、予視、予握に基礎を置いている。解釈とは、あるものがまず与えられ、次にいかなる前提もなしに、これを把握することなどではない。わたしたちは精密なテクスト解釈において、具体的に特別な解釈を実行する場合などには、「そこに書かれていること」を引き合いにだすことを好む。それでもさしあたり「そこに書かれていること」というものは、解釈者にとって自明に思われ、議論の対象になっていない先入観にほかならない。この先入観は、そもそも解釈とともにすでに「定められたもの」として、すべての解釈の端緒のうちに、必然的に含まれているのである。すなわち予持、予視、予握においてあらかじめ与えられているのである。

 街路樹が、都市の街路に沿ってある間隔をおいて植えられ、その都市が人間の居住のために設計されたものであることは「解釈者にとって自明に思われ、議論の対象になっていない先入観にほかならない」のだとしても、こうした先入観なしではそもそも議論は成立しません。こうした先入観は、「予持、予視、予握においてあらかじめ与えられている」ものなのです。

 第2に、解釈は「あるものをあるものとして」解釈するということですが、この「として構造」は、理解における「予持、予視、予握」という3つの構造契機を前提とするものです。そしてこの理解と解釈という営みは、実存論的に存在している現存在の「投企」という存在様態につきもののありかたです。現存在は世界内存在として存在することのうちにおいて、さまざまな事物を手元存在者とみなして生活しています。ドアは部屋に入るための入口であり、ドアの用途はそのようなものとして理解され、ドアは入口や出口「として」すでに解釈されています。ドアについて考察する以前に、現存在は世界内存在としてつねに投企しつつ、世界のうちで出会うものを、「予ー構造」のうちで理解し、「としてー構造」によって解釈しているのであり、このような理解と解釈のうちで、現存在はすでに生きています。

Im Entwerfen des Verstehens ist Seiendes in seiner Möglichkeit erschlossen. Der Möglichkeitscharakter entspricht jeweils der Seinsart des verstandenen Seienden. Das innerweltlich Seiende überhaupt ist auf Welt hin entworfen, das heißt auf ein Ganzes von Bedeutsamkeit, in deren Verweisungsbezügen das Besorgen als In-der-Welt-sein sich im vorhinein festgemacht hat. (p.151)
理解の投企において、存在者はその可能性において開示されている。こうした可能性という性格は、そこで理解されている存在者の存在様式に、そのおりおりに対応したものとなっている。世界内部的な存在者一般は、世界に向けて、すなわち有意義性の全体に向けて投企されている。そしてこの有意義性の指示連関のうちに、世界内存在としての配慮的な気遣いが、あらかじめ固定されているのである。

 現存在が実存するということは、すでにあらかじめ理解の「予ー構造」のうちで、あるものをあるもの「として」解釈しつつ生きるということであり、それはすでにこうした理解と解釈が、現存在の生そのものの前提となっているということを示しています。この意味での循環論は、論理的な誤謬ではなく、現存在の生にそなわったものなのであり、これを否定したり排除したりすることは、現存在の世界内存在を否定するのと同じことなのです。

 第3に、この現存在の生のありかたを「意味」という観点から考えることで、この循環論という非難に反論できます。

Wenn innerweltliches Seiendes mit dem Sein des Daseins entdeckt, das heißt zu Verständnis gekommen ist, sagen wir, es hat Sinn. Verstanden aber ist, streng genommen, nicht der Sinn, sondern das Seiende, bzw. das Sein. Sinn ist das, worin sich Verständlichkeit von etwas hält. Was im verstehenden Erschließen artikulierbar ist, nennen wir Sinn. (p.151)
世界内部的な存在者が、現存在の存在とともに露呈されて、了解されるにいたるとき、それは”意味”をもつと言われる。しかし厳密には、理解されたのはその意味ではなく、存在者であるか、あるいは存在である。意味とは、あるものの了解可能性がそこで保たれているもののことである。理解による開示のうちで分節することのできるもののことを、わたしたちは意味と呼ぶのである。

 現存在はつねにその生において、「意味」について考える存在です。ここで意味(>Sinn<)という語は、意義(>Bedeutung<)という語や、それと密接な関係にある有意義性(>Bedeutsamkeit<)という語と密接に結びついています。>Sinn<も>Bedeutung<はどちらも「意味」と訳されますが、この2つが対比される場合には、意義(>Bedeutung<)は有意義性の連関のうちで定められ、意味(>Sinn<)はその手元存在者が現存在に提供する役割という文脈で考えられることが多いです。
 有意義性とは、世界において手元存在者がどのような適材適所性の連関のうちにあるかという問いのもとで定められます。街路樹は、たとえば夏に日陰を作るという適材適所性をそなえており、街路樹の「意義」は、その日陰を提供するという目的のうちに示されます。そしてこのようにして示された街路樹のもつ「意義」が、実存する現存在の存在にたいしてもつ「意味」が示されることで、街路樹のもつ「意味」も同時に明らかになります。街路樹は、それが現存在の幸福という最終的な「そのための目的」の観点からみて、日陰を提供するもの「として」解釈され、その「意義」が理解されたときには、それが現存在にとってもつ「意味」が明らかになっているのです。これをハイデガーは、「世界内部的な存在者が、現存在の存在とともに露呈されて、了解されるにいたるとき、それは”意味”をもつと言われる」と説明しています。

Der Begriff des Sinnes umfaßt das formale Gerüst dessen, was notwendig zu dem gehört, was verstehende Auslegung artikuliert. Sinn ist das durch Vorhabe, Vorsicht und Vorgriff strukturierte Woraufhin des Entwurfs, aus dem her etwas als etwas verständlich wird. Sofern Verstehen und Auslegung die existenziale Verfassung des Seins des Da ausmachen, muß Sinn als das formal-existenziale Gerüst der dem Verstehen zugehörigen Erschlossenheit begriffen werden. Sinn ist ein Existenzial des Daseins, nicht eine Eigenschaft, die am Seienden haftet, >hinter< ihm liegt oder als >Zwischenreich< irgendwo schwebt. Sinn >hat< nur das Dasein, sofern die Erschlossenheit des In-der-Welt-seins durch das in ihr entdeckbare Seiende >erfüllbar< ist. (p.151)
”意味という概念”は、理解する解釈が分節するものに必然的に属する形式的な枠組みを含むのである。”意味とは投企が目指していた<その向かうところ>であり、それは、予持、予視、予握によって構造化されているのである。この構造化された<その向かうところ>に基づいて、<あるものとしてのあるもの>が理解できるようになる”。理解と解釈は、<そこに現に>の存在の実存論的な機構を構成するものなのだから、意味とは、理解にそなわる開示性の形式的で実存論的な枠組みであると考える必要がある。意味は現存在の実存カテゴリーであって、存在者に付着していて、存在者の「背後」にあったり、どこかの「あいだの領域」に漂っていたりする属性のようなものではない。意味を「持つ」のは現存在だけであり、それは世界内存在の開示性が、その開示性において露呈させることのできる存在者によって「充実させることができる」からである。

 「意味」は「意義」とは違って、「として」構造のうちで、適材適所性を明らかにすることを目指すものではありません。意味は、現存在が理解し、解釈するときに現存在が把握する「形式的な枠組み」であり、「意味とは、理解にそなわる開示性の形式的で実存論的な枠組みであると考える必要がある」のです。
 すなわち「意味」とは、「現存在の実存カテゴリーであって、存在者に付着していて、存在者の<背後>にあったり、どこかの<あいだの領域>に漂っていたりする属性のようなものではな」く、「意味を<持つ>のは現存在だけ」なのです。「意味」が現れるのは、「世界内部的な存在者が、現存在の存在とともに露呈されて、了解されるにいたるとき」です。そして意味されるのは世界内部的な存在者そのものではなく、「あるものの了解可能性がそこで保たれているもののこと」であり、「理解による開示のうちで分節することのできるもののこと」なのです。ある事物が意味をもつというのは、現存在そのものが世界において存在する理由と根拠を理解する可能性がそこに示されているということです。
 すべてのものは「意味」をもつことで現存在によって理解可能になります。ですから「意味」とは、「”投企が目指していた<その向かうところ>であり、それは、予持、予視、予握によって構造化されている”」のです。そして「”この構造化された<その向かうところ>に基づいて、<あるものとしてのあるもの>が理解できるようになる”」のです(<その向かうところ>と訳した>Woraufhin<という語については、Part.17参照)。意味が理解されるときには、すでにこうした「予持、予視、予握によって構造化されている」現存在の世界内存在というありかたが前提とされているのであり、これが前提とされることは循環ではなく、世界の事物が意味をもつ可能性の条件なのです。

Und wenn wir nach dem Sinn von Sein fragen, dann wird die Untersuchung nicht tiefsinnig und ergrübelt nichts, was hinter dem Sein steht, sondern fragt nach ihm selbst, sofern es in die Verständlichkeit des Daseins hereinsteht. Der Sinn von Sein kann nie in Gegensatz gebracht werden zum Seienden oder zum Sein als tragenden >Grund< des Seienden, weil >Grund< nur als Sinn zugänglich wird, und sei er selbst der Abgrund der Sinnlosigkeit. (p.152)
そしてわたしたちが存在の意味を問うということは、ことさらに深い意味を考えだしたり、存在の背後に控えているものをあれこれと考えだしたりするということではなく、現存在の了解可能性のなかに現れた存在それ自体を問うということである。存在の意味を、存在者と対立するものと考えたり、存在者を支える「根拠」としての<存在>と対立するものと考えたりしてはならない。わたしたちが「根拠」に近づくことができるのは、意味としてだけだからである。この根拠そのものが、無意味さの深淵であるとしてもである。

 日本語で読むとこの文章は少しわかりにくいかもしれませんが、ハイデガーが言いたいのは、存在の意味への問いは、現存在の了解可能性において現れるかぎりで存在そのものを問うということです。存在は決して存在了解のおかげで存在しているわけではありませんが(Part.30参照)、現存在が存在そのものに出会うのは、やはりその了解可能性においてです。本書の問いそのものも、現存在の<先行的なありかた>なしには立てることはできず、問う営みは「予-構造」に基づいているのです。

 このようにハイデガーは、解釈において「予ー構造」が働くことは、論理的な誤謬としての循環論ではないことを、基礎存在論の方法論的な立場から明らかにします。これは解釈が成立するための前提となる条件なのです。

Das Verstehen betrifft als die Erschlossenheit des Da immer das Ganze des In-der-Welt-seins. In jedem Verstehen von Welt ist Existenz mitverstanden und umgekehrt. Alle Auslegung bewegt sich ferner in der gekennzeichneten Vor-Struktur. Alle Auslegung, die Verständnis beistellen soll, muß schon das Auszulegende verstanden haben. Man hat diese Tatsache immer schon bemerkt, wenn auch nur im Gebiet der abgeleiteten Weisen von Verstehen und Auslegung, in der philologischen Interpretation. (p.152)
理解は<そこに現に>の開示性であるから、つねに世界内存在の全体にかかわる。世界をどのように理解するとしても、そこでは実存がともに理解されているのであり、また実存をどのように理解するとしても、そこには世界がともに理解されているのである。さらにすべての解釈はすでに示したような<予-構造>のもとで行われる。解釈とは、了解に寄与することを目指しながらも、一方では解釈すべきものをすでに理解してしまっているのでなければならない。理解と解釈の派生的なありかたである文献学的な解読においては、この実際の事柄につねにすでに気づいていた。

 ここで解釈が、「了解に寄与することを目指しながらも、一方では解釈すべきものをすでに理解してしまっている」ということについて、「理解と解釈の派生的なありかたである文献学的な解読においては、この実際の事柄につねにすでに気づいていた」と言われています。これが「解釈学的な循環」のことであり、歴史的に先立つ時代の著者のテクストを解釈する際に発生する循環の重要性を指摘するものです。
 あるテクストを理解しようとするとき、その理解はそのテクストの個別の部分の理解によって成立します。個々の文を理解することで、初めて全体の文が理解できると考えるのが通例でしょう。しかしその個別の文を理解するためには、そのテクストの全体が理解されていなければなりません。個別の文を理解せずに全体を理解することはできませんが、個別の文を理解するためには、全体を理解していることが前提となるのです。
 ハイデガーの思想を深く理解するためには、初期の学位論文から晩年の講義録にいたるまでのハイデガーの思想の軌跡の全体を理解している必要があるでしょう。ハイデガーの思想の全体像の理解に基づいて、初めてハイデガーの個別のテクストは理解できるようになりますが、この全体像というものを把握するためには、個別のテクストをそれぞれに理解し、把握しておく必要があります。ここにある種の循環的なありかたが存在するのは明らかですが、これは論理学で指摘されるような誤謬推論ではありません。1人の思想家を理解するために、誰もがたどらなければならない道です。ほぼ白紙の状態から個別のテクストを読み始めたとしても、その思想家の全体のテクストを読み終えてから、そのテクストを改めて再読することで、そのテクストの理解が深まります。個別から全体へ、全体から個別へと、毎回循環を反復することによって、テクストの理解が次第に深まってゆくのであり、この循環は、反復しつつ、深めるべき循環です。
 このような意味での解釈学的な循環は、回避する必要のある誤謬ではありません。「予ー構造」は非難されるべき悪循環ではなく、解釈の前提であるものです。

Das Entscheidende ist nicht, aus dem Zirkel heraus-, sondern in ihn nach der rechten Weise hineinzukommen. Dieser Zirkel des Verstehens ist nicht ein Kreis, in dem sich eine beliebige Erkenntnisart bewegt, sondern er ist der Ausdruck der existenzialen Vor-Struktur des Daseins selbst. (p.153)
決定的に重要なのは、循環のうちから抜けだすことではなく、正しいありかたで循環の中に入りこむことである。この理解の循環というものは、任意の認識様式がそのうちで働いている円環のようなものではなく、現存在そのものの実存論的な”予ー構造”を表現したものなのである。

 自然科学的な学問では、対象となるのは人間ではない事物であり、そこに主観的な要素が含まれることを避け、客観的で厳密な認識を目指すべきです。こうした学問においては、前提に結論を含めるような循環は誤謬でしょう。しかし現存在を考察の対象とする歴史学や文献学、基礎存在論では、このような客観的な理想は通用しません。これらの学問においては、循環を回避するのではなく、その循環のうちに入りながら、洞察を深めてゆかねばならないのです。
 この解釈学的な循環の問題も、後の節でふたたび検討されることになり、実存論的な分析では、循環は避けられないものであることが改めて指摘されることになります。


 第32節は以上になります。今回は理解の「予ー構造」と解釈の「として構造」が登場し、「意味」についても説明されました。次節では、解釈の派生的な様態としての言明について考察されます。

 それではまた次回、よろしくお願いします。

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