『存在と時間』を読む Part.53

  第52節 日常的な〈終わりに臨む存在〉と、死の完全な実存論的な概念

 これまでの死の実存論的な概念の考察では、世人のうちに頽落した現存在が死に臨む姿勢について、〈もっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことのできない存在可能性〉に臨む存在だと規定してきました。しかしこの規定は、現存在にとっては形式的なものであり、空虚なものにみえるのではないでしょうか。というのは、これらの規定は現存在がみずからの死をどのように考えているかを示さず、当の現存在ではない外部の視点から語られたものとなっているからです。
 死はたしかに第1の規定が示すように、みずからにもっとも固有なものですが、現存在は日常性においてはこのことを認識しておらず、死が現存在にとってもっとも固有なものであるということは、外部の視点から眺めて語られています。死が他者との関係を喪失したものであるという第2の規定もまた、当人の観点からではなく、当人と他者との関係を考察する外部の視点による規定です。そして、死が追い越すことのできない存在可能だという第3の規定も、現存在が生きている時間から超越して、外部の視点から眺めたものです。
 それでは現存在は自己の死について、自分ではどのように考えているのでしょうか。現存在の内部の視点からみると、死はどのようなものでしょうか。第52節では、死にたいする現存在の態度という観点から、死の実存論的な概念を仕上げていくことが試みられます。

Während zuvor die Untersuchung von der formalen Vorzeichnung der ontologischen Struktur des Todes zur konkreten Analyse des alltäglichen Seins zum Ende überging, soll jetzt in umgekehrter Wegrichtung durch ergänzende Interpretation des alltäglichen Seins zum Ende der volle existenziale Begriff des Todes gewonnen werden. (p.255)
これまでのわたしたちの探究は、死の存在論的な構造を形式的にあらかじめ素描する作業から出発して、日常的な〈終わりに臨む存在〉の具体的な分析へと進んできたのだが、ここでわたしたちは分析の方向を逆転させて、日常的な〈終わりに臨む存在〉にさらに補足的な解釈を加えながら、死についての完全な実存論的な概念を獲得しなければならない。

 
 ハイデガーは、日常的な〈死に臨む存在〉を解明する際に、〈ひとはいつかはきっと死ぬものだが、まだしばらくは死なない〉(>man stirbt auch einmal, aber vorläufig noch nicht<)という世人の世間話を手掛かりにします。前節では、この世間話から「ひとは死ぬものである(>man stirbt<)」だけを切り離して解釈してきましたが、〈死に臨む存在〉を完全にするには、「いつかはきっと死ぬものだが、まだしばらくは死なない(>auch einmal, aber vorläufig noch nicht<)」ということについても調べてみる必要があるでしょう。
 この「いつかはきっと死ぬものだが、まだしばらくは死なない」という語りからは、ひとは死が確実であることを承認しているということがみてとれます。現存在が死について抱く第1の観念は、死が確実に自分を訪れるということです。確実でないのは、その時期がいつであるかということだけであり、確実なのはそれが今ではないということです。ところがハイデガーは、現存在は日常性においては、死の確実さを曖昧にしか捉えていないと語ります。

Niemand zweifelt daran, daß man stirbt. Allein dieses >nicht zweifeln< braucht nicht schon das Gewißsein in sich zu bergen, das dem entspricht, als was der Tod im Sinne der charakterisierten ausgezeichneten Möglichkeit in das Dasein hereinsteht. Die Alltäglichkeit bleibt bei diesem zweideutigen Zugeben der >Gewißheit< des Todes stehen - um sie, das Sterben noch mehr verdeckend, abzuschwächen und sich die Geworfenheit in den Tod zu erleichtern. (p.255)
誰も、ひとが死ぬものであることを疑うことはない。しかしこの「疑うことはない」のうちに、死がこれまで性格づけてきたような傑出した可能性という意味で、現存在のうちに立ち現れているのと対応する、”そのような”確実さがそなわっているとはかぎらない。日常性はこのような死の「確実さ」を曖昧に承認しているだけであり、実はこれによって〈死ぬこと〉をますます隠蔽し、確実さを弱め、死のうちに投げ込まれていることを、耐えやすくしようとしているのである。

 頽落において現存在は、死を前にして、それを隠蔽しながら回避しているのでしたが、その意味から考えても、死を「傑出した可能性」として確実なものとみなすことはできないでしょう。そもそもこの死の「確実さ」とはどのようなことを意味しているのでしょうか。

Eines Seienden gewiß-sein besagt: es als wahres für wahr halten. Wahrheit aber bedeutet Entdecktheit des Seienden. Alle Entdecktheit aber gründet ontologisch in der ursprünglichsten Wahrheit, der Erschlossenheit des Daseins. Dasein ist als erschlossen-erschließendes und entdeckendes Seiendes wesenhaft >in der Wahrheit<. Gewißheit aber gründet in der Wahrheit oder gehört ihr gleichursprünglich zu. (p.256)
ある存在者が確実に存在しているとみなすということは、その存在者が真なるものであることを、ほんとうのことと”みなす”ことである。ところが真理とは存在者が〈露呈されてあること〉である。しかしすべての〈露呈されてあること〉は存在論的には、もっとも根源的な真理、すなわち現存在の開示性に根拠をおいているのである。現存在は開示されつつ開示し、露呈する存在者であり、その本質からして「真理のうちに」ある。”しかし確実さは真理のうちに根拠をおくものであり、あるいは真理に等根源的に属するものである”。

 デカルト以来、確実さは真理の問題と結びつけて考えられてきました。近代の哲学の根本的な原理として、ある事柄が真理であるかどうかという判断の基準は、ある事柄が確実であるかどうかということにおかれます。ここで「ある存在者が確実に存在しているとみなすということは、その存在者が真なるものであることを、ほんとうのことと”みなす”ことである」と語られているのは、こうした真理と確実さの結びつきを示しています。ハイデガーもこの真理と確実さの結びつきを容認したうえで、それを独自の真理概念のもと考察しています。
 真理についてハイデガーはすでに、古代ギリシアの真理の理論におけるアレーテイアの概念を提起し、真理(アレーテイア)とは、覆いを取り除き、あるものを忘却(レーテー)から引きだすことだと指摘していました(Part.45参照)。ハイデガーは、こうした意味での真理と確実性には、それぞれに主体という側面と客体という側面があると考えます。
 客体の側面としてみた真理とは、主体が外部の存在者を発見することです。主体は対象を忘却(レーテー)から引き出して眼の前に置き、主体のまなざしの光をあてて、その存在を確証します。その対象はそれまでも存在していたのですが、それは主体のまなざしを向けられず、忘却されたままだったのです。ところが主体がその対象に注目し、その存在を発見し、暴き、光のもとにさらします。そしてその存在がたしかに存在することを確証するのが、真理の客体的な側面です。
 真理にはさらに、主体に固有の側面があります。それは主体は現存在として、世界と世界の事物を、実際に存在している1つの対象として開示する存在者であるということです。現存在は主体として、外部に存在する対象としての事物と出会い、それが真に存在することを開示します。現存在は発見する開示性として存在します。ハイデガーは、真理における第1の客体と主体の関係の側面を真理の派生的な意味と呼び、真理における第2の主体の開示性の側面を、真理の根源的な意味と呼びます(これについてもPart.45参照)。
 これと同じように、確実性にも2つの側面があります。

Der Ausdruck >Gewißheit< hat wie der Terminus >Wahrheit< eine doppelte Bedeutung. Ursprünglich besagt Wahrheit soviel wie Erschließendsein als Verhaltung des Daseins. Die hieraus abgeleitete Bedeutung meint die Entdecktheit des Seienden. Entsprechend bedeutet Gewißheit ursprünglich soviel wie Gewißsein als Seinsart des Daseins. In einer abgeleiteten Bedeutung wird jedoch auch das Seiende, dessen das Dasein gewiß sein kann, ein >gewisses< genannt. (p.256)
「確実さ」という表現は、「真理」という用語と同じように、2重の意義がある。真理とは根源的には、現存在がその態度として開示する存在であることを意味する。そこから派生した意義として、存在者が〈露呈されてあること〉を意味する。これと同じように確実さも根源的には、現存在の存在様式として、確実な存在であることを意味する。しかし派生的な意味として、現存在がそれを確実であると言えるときに、その存在者が「確実な」ものと呼ばれるのである。

 確実さの第1の側面は、主体の開示性にかかわるものであり、真理の根源的な意味に対応します。すなわち「現存在の存在様式として、確実な存在であること」が、根源的な確実さです。これは外部の存在者が主体によって知覚されるかどうかにかかわらず、現存在が確実な存在者として存在しつづけていることを意味します。これにたいして第2の側面は、客体との関係にかかわるものであり、「現存在がそれを確実であると言えるときに、その存在者が〈確実な〉ものと呼ばれる」ということであり、これは主体が客体を認識し、その存在を真なるものと判断したときに生まれる確実性です。これは「存在者が〈露呈されてあること〉」を意味する派生的な意味です。
 このように現存在は、まず根源的な真理と根源的な確実さにおいて存在し、そしてこの現存在が事物に出会うときに、派生的な真理と派生的な確実さが生じます。現存在が真なるものとして把握したときに、その対象となる事物の存在が確実なものとみなされるのです。このことからも明らかなように、真理と確実さの根拠は事物の側ではなく、主体である現存在のうちにあります。「現存在は開示されつつ開示し、露呈する存在者であり、その本質からして〈真理のうちに〉ある」存在者です。これにたいして事物の存在の「”確実さは真理のうちに根拠をおくもの”」なのであり、その意味で事物の存在の確実さは真理そのものではなく、「”真理に等根源的に属するもの”」にすぎないと言えるでしょう。

 このように現存在が事物と出会うことで、真理と確実さ生じるのですが、この事態はドイツ語では「知覚」という語のうちにこめられている事柄です。ドイツ語で知覚するという動詞は>wahrnehmen<ですが、この語は「真」を意味する>wahr<と、「とる、つかむ」を意味する>nehmen<で構成されています。すなわち知覚するということは、あるものの存在を「真である」と「みなす」ということになります。人間があるものを知覚するということは、それが存在することを真であるとみなすということだと、ドイツ語の動詞は語っているわけです。
 この>wahrnehmen<の語に関連して、ハイデガーは真理と確実性の関係について、〈真とみなすこと〉と〈真理のうちに身を処すこと〉という概念で考察します。

Ein Modus der Gewißheit ist die Überzeugung. In ihr läßt sich das Dasein einzig durch das Zeugnis der entdeckten (wahren) Sache selbst sein verstehendes Sein zu dieser bestimmen. Das Für-wahr-halten ist als Sich-in-der-Wahrheit-halten zulänglich, wenn es im entdeckten Seienden selbst gründet und als Sein zu so entdecktem Seienden hinsichtlich seiner Angemessenheit an dieses sich durchsichtig geworden ist. (p.256)
確実さの1つの様態が”確信”である。確信しているということは、現存在が露呈された(真なる)事柄そのものをもっぱら証拠として、理解しながらこの事柄にかかわる存在として規定される。〈真とみなすこと〉は、それが露呈された存在者そのものに根拠づけられたことである。そのように露呈された存在者に臨む存在として、みずからがこの露呈された存在者にたいして適切に向き合っていることが、この存在者において見通すようにして自覚されているときには、〈真とみなすこと〉は、十分に〈真理のうちに身を処すこと〉であると考えることができる。

 あるものを知覚するということは、その存在を「真とみなすこと」ですが、それは「露呈された存在者そのものに根拠づけられたこと」です。知覚において発見する現存在の派生的な真理は、派生的な確実さをともなっています。
 これにたいして、たんに「真とみなす」のではなく、現存在が自己を開示性として、すなわち根源的な真理において存在しているときには、現存在はみずからを「そのように露呈された存在者に臨む存在として、みずからがこの露呈された存在者にたいして適切に向き合っていることが、この存在者において見通すようにして自覚されている」はずです。その場合には、現存在の根源的な真理にたいして、根源的な確実性が等根源的に対応するのであり、そのような場合には「〈真とみなすこと〉は、十分に〈真理のうちに身を処すこと〉であると考えることができる」のです。ただ恣意的に考えだされたことや、存在者についてのたんなる見解には、このような性格が欠けているのです。

 ここまでハイデガーは、真理と確実さについての一般的な考察を展開してきましたが、この考察を展開する必要があると考えたのは、真理と確実さの関係について考察することをつうじて、現存在の死と確実さの関係について考察するためでした。日常的な現存在はたいていは、みずからの〈死に臨む存在〉を隠蔽していることが指摘されてきました。真理(アレーテイア)が覆いを取るという意味で理解されているなら、このように隠蔽することは非真理として考えられねばなりません。

Diese faktische Verdeckungstendenz bewährt die These: Dasein ist als faktisches in der >Unwahrheit<. Demnach muß die Gewißheit, die solchem Verdecken des Seins zum Tode zugehört, ein unangemessenes Fürwahrhalten sein, nicht etwa Ungewißheit im Sinne des Zweifelns. Die unangemessene Gewißheit hält das, dessen sie gewiß ist, in der Verdecktheit. Versteht >man< den Tod als umweltlich begegnendes Ereignis, dann trifft die hierauf bezogene Gewißheit nicht das Sein zum Ende. (p.256)
この事実的な隠蔽傾向は、現存在は事実的な現存在であるかぎり、「非真理のうちにある」というテーゼを確証するものである。すると、〈死に臨む存在〉をこのように隠蔽しておくことに帰属している〈確実さ〉は、疑問となるという意味での〈不確実性〉なのではないとしても、〈真とみなすこと〉としては不適切なものであるに違いない。この不適切な確実さでは、それが確実だと考えていることが、隠蔽されたままになっているのである。「ひと」は、死は自分が環境世界的に出会う出来事であることを理解してはいるのだが、その理解の確実さは、〈終わりに臨む存在〉にまで届いていないのである。

 確信とは、「現存在が露呈された(真なる)事柄そのものをもっぱら証拠として、理解しながらこの事柄にかかわる存在として規定される」ことでしたが、現存在は原理的にみずからの死を経験することはできません。死が訪れたその瞬間、現存在は現存在しなくなるからです。それでも現存在は自分が死ぬことについては確信を抱いています。この確信の質はどのようなものなのか、問題になるのはそのことです。そしてハイデガーは、「〈ひと〉は、死は自分が環境世界的に出会う出来事であることを理解してはいるのだが、その理解の確実さは、〈終わりに臨む存在〉にまで届いていない」と考えるのです。

Man sagt, der Tod ist gewiß, und pflanzt damit in das Dasein den Schein, als sei es selbst seines Todes gewiß. Und wo liegt der Grund des alltäglichen Gewißseins? Offenbar nicht in einer bloßen gegenseitigen Überredung. Man erfährt doch täglich das >Sterben< Anderer. Der Tod ist eine unleugbare >Erfahrungstatsache<. (p.257)
ひとは、死は確実であると語る。そしてこれによって現存在のうちに、現存在が”みずから”自分の死を確信しているかのような見掛けを植えつけるのである。しかしこの日常的に確実であることの根拠はどこにあるのだろうか。たんにたがいに語り合って、相手を納得させたことによるのでないのは明らかである。ひとは他者が「死ぬこと」を、それでも毎日のように経験しているからである。死とは、否定することのできない「経験的な実際のありかた」なのである。

 すべての人間は死ぬということは確実ですが、この確実さは、たんに「経験的な実際のありかた」としての確実さであると指摘されています。現存在はみずからの死を経験することはできませんが、他者の死を経験することはできます。「すべての人は死ぬ」という確信は、確からしさをそなえたものではありますが、厳密にはこうした経験的な確実さがそなわるだけなのです。こうした確実さでは、「現存在のうちに、現存在が”みずから”自分の死を確信しているかのような見掛けを植えつける」だけであり、「その理解の確実さは、〈終わりに臨む存在〉にまで届いていない」のです。このような経験的な確実さは、わたしたちが現存在の存在について実存論的かつ存在論的に考察する際に得られる確実さに比べるなら、必然的に弱いものとならざるをえないでしょう。

An dieser >kritischen< Bestimmung der Gewißheit des Todes und seines Bevorstehens offenbart sich zunächst wieder das für die Alltäglichkeit charakteristische Verkennen der Seinsart des Daseins und des ihm zugehörigen Seins zum Tode. Daß das Ableben als vorkommendes Ereignis >nur< empirisch gewiß ist, entscheidet nicht über die Gewißheit des Todes. (p.257)
このような死の確実さと、死の差し迫っていることについての「批判的な」規定から、さしあたり明らかになるのは、現存在の存在様式と、現存在にそなわる〈死に臨む存在〉が、ここでも誤認されていることであり、これは日常性にとってまたもやきわめて特徴的なことである。まず”息絶えることを、ただ発生する出来事のようなものとみなし、それは「たんに」経験的な確実さをそなえているだけであると判断することは、死の確実さについていかなる決定を下すことでもないのである”。

 ここで「経験的な」規定にたいして「批判的な」規定ということが言われていますが、この「批判的な」まなざしというのは現存在の存在について実存論的かつ存在論的に考察することを意味しています。現存在の実存という観点からみたときの確実さは、経験的な確実さとは違い次元のものです。たしかに他者の死がきっかけとなって、死について考えるようになることはあるかもしれません。しかし経験的な確実さのうちにとどまっているかぎりは、死をそのあるがままの死として、確実なものとみなすようになることはありえないでしょう。
 それでは世人の公共性において現存在は、死のこのような経験的な確実さだけについてしか語らないのでしょうか。そのようなことはないとハイデガーは指摘します。根本においては頽落している現存在も、死については出来事としての死亡事例だけを考えているわけではないのです。

Seinem Tode ausweichend ist auch das alltägliche Sein zum Ende des Todes doch anders gewiß, als es selbst in rein theoretischer Besinnung wahrhaben möchte. Dieses >anders< verhüllt sich die Alltäglichkeit zumeist. Sie wagt nicht, sich darin durchsichtig zu werden. (p.257)
”みずからの死を回避しながらも”、この日常的な〈終わりに臨む存在〉は、純粋に理論的な考察において承認しようとしているのとはまったく違った意味で、死を確実なものだと考えている。この「違った意味で」ということを、日常性はたいていは自分にたいして隠蔽してしまう。日常性はこれについては、あえてみずからを見通すことは試みないのである。

 日常的な現存在が死にたいして抱く情態性は不安でしたが、この不安という情態性にたいして現存在はどのような態度で臨んでいたでしょうか。前節では、死の不安にたいして世人は無関心で超然とした態度をとるべきだと宣言していると指摘されていました。現存在は不安そうな配慮的な気遣いをしつつ、一見したところ不安をみせない超然とした姿勢を示そうとするのです。
 しかしこのように超然とした姿勢を示すことは、日常性はたんに経験的な確実さよりも高次の確実さを承認しているということをも示していると考えることができます。不安という情態性は、死がたんなる出来事ではないということを語っているのであり、同時に経験的な確実を超えた確実さを語っているのです。ただし、公共性における解釈のもとで不安は曖昧な恐れに転換され、「日常性はたいていは自分にたいして隠蔽してしまう」ことになります。頽落している現存在は、「あえてみずからを見通すことは試みない」のです。ひとは死が確実であるとは知ってはいるのですが、それでいて本来の意味で死を確実なものと知っているのはないと言えるでしょう。

Der verfallende Alltäglichkeit des Daseins kennt die Gewißheit des Todes und weicht dem Gewißsein doch aus. Aber dieses Ausweichen bezeugt phänomenal aus dem, wovor es ausweicht, daß der Tod als eigenste, unbezügliche, unüberholbare, gewisse Möglichkeit begriffen werden muß. (p.258)
現存在の頽落した日常性は、死の確実さを知っているが、それを確実なものと”する”ことを回避しているのである。しかしそれが回避しているそのものに注目してみると、死はみずからにもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことのできない”確実な”可能性として把握しなければならないことが、現象的に証されているのである。

 ここで死の規定に新たな規定が加えられます。これまでは死の規定は、みずからにもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことのできない可能性とされてきましたが、これに新たな「確実な」という規定を加えることができるでしょう。

 ハイデガーが取り上げる日常的な世間話の例は>man stirbt auch einmal, aber vorläufig noch nicht<(ひとはいつかきっと死ぬが、しかしまだしばらくは死なない)でしたが、この文中の「しかし(>aber<)」によって世人は、死が確実であることを否定しようとします。そして「しばらくはやってこない(>vorläufig noch nicht<)という言葉は、たんなる否定的な言明ではなく、世人の自己解釈であるとハイデガーは指摘します。この自己解釈によって世人は、まだ現存在が接近することのできる、配慮的な気遣いをすることのできるものへと、自分を向かわせます。日常的な現存在は配慮的な気遣いへと急き立てられ、死に向き合うことを阻まれ、それを後回しにするのです。

So verdeckt das Man das Eigentümliche der Gewißheit des Todes, daß er jeden Augenblick möglich ist. Mit der Gewißheit des Todes geht die Unbestimmtheit seines Wann zusammen. Ihr weicht das alltägliche Sein zum Tode dadurch aus, daß es ihr Bestimmtheit verleiht. Solches Bestimmen kann aber nicht bedeuten, das Wann des Eintreffens des Ablebens zu berechnen. Das Dasein flieht eher vor solcher Bestimmtheit. Die Unbestimmtheit des gewissen Todes bestimmt sich das alltägliche Besorgen dergestalt, daß es vor sie die übersehbaren Dringlichkeiten und Möglichkeiten des nächsten Alltags schiebt. (p.258)
このようにして世人は、”死はいついかなる瞬間にも、訪れるかもしれない”という、死の確実さの特異な性格をみずからに隠蔽してしまう。死の確実さには、死が〈いつ訪れるか〉は”規定されていない”ことが結びついている。このように死の訪れの時期が規定されていないことを回避するために、日常的な〈死に臨む存在〉は、それにある規定性を付与しようとする。しかしこのように規定することは、息絶えることが訪れる時期が〈いつなのか〉を算定しようとすることを意味しえない。現存在はこうした規定をすることからはむしろ逃走する。日常的な配慮的な気遣いは、身近な日常生活のうちで見通すことのできる差し迫った用事や機会を眼の前に持ち出すことで、確実な死をその背後に追いやるのであり、それによって確実な死の無規定性を、自分のために規定しようとするのである。

 ふつうなら、人間は100年以内に死ぬでしょう。ですがそれは今日かもしれませんし、明日かもしれませんし、80年後かもしれません。しかし世人としての現存在は、死が次の瞬間にでも訪れる可能性があることを直視しようとしません。死が後回しにされることで、「世人は、”死はいついかなる瞬間にも、訪れるかもしれない”という、死の確実さの特異な性格をみずからに隠蔽してしまう」のです。これは死の確実性が確実なものでありながら、差し迫ったものとして自覚されず、そうした自覚が回避されていることによって必然的に生まれた性格です。死は確実ですが、「死の確実さには、死が〈いつ訪れるか〉は”規定されていない”ことが結びついている」のです。
 現存在は自分の死の確実さを確信していますが、その背後には自分の死の確実さが無規定であること、そしてそれがいつ訪れることは不明であることについての信念が潜んでいるのです。死は確実ですが、無規定なものです。死はいつ、どの瞬間にも訪れるかもしれないという性格をそなえているにもかかわらず、それが隠蔽されてしまうのです。こうして死の新たな規定が確認されます。

Die vollständige Interpretation der alltäglichen Rede des Man über den Tod und seine Weise, in das Dasein hereinzustehen, führte auf die Charaktere der Gewißheit und Unbestimmtheit. Der volle existenzial-ontologische Begriff des Todes läßt sich jetzt in folgenden Bestimmungen umgrenzen: Der Tod als Ende des Daseins ist die eigenste, unbezügliche, gewisse und als solche unbestimmte, unüberholbare Möglichkeit des Daseins. Der Tod ist als Ende des Daseins im Sein dieses Seienden zu seinem Ende. (p.258)
わたしたちはこれまで、死について、そして死が現存在のうちに現れるあり方について、世人が日常的にどのように語るかを詳しく解釈してきたが、この解釈によって死の確実さと無規定性という性格が明らかになった。死の完全な実存論的かつ存在論的な概念は、次の規定によって画定することができる。すなわち”現存在の終わりとしての死は、みずからにもっとも固有で、関係を喪失し、確実であり、しかも無規定な、追い越すことのできない可能性である”。”死は現存在の”終わりであるから、この存在者がみずからの終わりに”臨んでいる”存在のうちに”存在している”のである。

 このようにして死の最初の3つの規定にたいして、さらに「確実であること」という規定と、いつ、どこで現存在を死が訪れるかは明らかではなく、「無規定である」という規定が追加されました。

 ところで、〈終わりに臨む存在〉の実存論的な構造を画定しようとしたのは、現存在の全体存在の可能性を考察するためでした。これまでの分析からは、日常的な現存在も逃走しながらではありますが、みずからの死と不断に取り組んでいることが確認されました。これは全体存在を規定し、それを完結させるこうした〈終わり〉は、現存在が息絶えることによって初めて到達するような終わりではないということを示しています。現存在の終わりとしての死の概念は、時間軸に沿って、生まれた時点から死ぬ時点までを時の流れとして把握するものではありません(Part.49参照)。

Das aus dem Sich-vorweg entnommene Phänomen des Noch-nicht ist so wenig wie die Sorgestruktur überhaupt eine Instanz gegen ein mögliches existentes Ganzsein, daß dieses Sich-vorweg ein solches Sein zum Ende allererst möglich macht. (p.259)
〈自己に先立つこと〉から取りだされた〈まだない〉という現象は、気遣いの構造一般と同じように、可能的に実存する全体存在にたいする反証となるものではない。それどころがむしろこの〈自己に先立つこと〉そのものが、このような〈終わりに臨む存在〉を初めて可能にしているのである”。

 現存在の全体存在の可能性という問題は、現存在の根本機構としての気遣いが死と結びついているために、正当な問題となります。現存在が本来性において存在していようが非本来性において存在していようが、〈終わりに臨む存在〉は気遣いに固有のありかたなのです。〈死に臨む存在〉は気遣いを根拠としています。
 ただし、これまでの考察で、現存在の全体存在の可能性という問題が十分に考察されてきたかというと、まだ疑問です。というのは、〈死に臨む存在〉は、まだ現存在の片方のありかたでしか考察されていないからです。死についての最終的な定式化に含まれる5つの規定はどれも「死について、そして死が現存在のうちに現れるあり方について、世人が日常的にどのように語るかを詳しく解釈」することによって確認された規定なのであり、日常的に頽落しながら、死を回避することは、”非本来的な”〈死に臨む存在〉です。しかし非本来性とは、現存在が採用することのできる存在様式の特徴であり、それは必然的なことではありません。現存在は実存するものですから、自分がどのような存在者であるかを、そのつどみずからそれを存在し、理解している可能性に基づいて、みずから規定するものです。ですから、現存在には本来性を選択する可能性も開かれているのです。

Kann das Dasein seine eigenste, unbezügliche und unüberholbare, gewisse und als solche unbestimmte Möglichkeit auch eigentlich verstehen, das heißt sich in einem eigentlichen Sein zu seinem Ende halten? Solange dieses eigentliche Sein zum Tode nicht herausgestellt und ontologisch bestimmt ist, haftet an der existenzialen Interpretation des Seins zum Ende ein wesentlicher Mangel. (p.259)
現存在は、〈みずからにもっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことができず、確実であり、しかも無規定な可能性〉を、”本来的にも理解する”ことができるのだろうか、そして〈みずからの終わりに臨む本来的な存在〉のうちに身を置くことができるのだろうか。この本来的な〈死に臨む存在〉を取りだして存在論的に規定しないかぎり、〈終わりに臨む存在〉についてのわたしたちの実存論的な解釈には、まだ本質的な欠陥がつきまとうことになるのである。

 本来的な〈死に臨む存在〉は、現存在の実存的な可能性の1つであり、ここからはこの可能性の実存論的な条件について考察していく必要があるでしょう。


 今回は以上になります。次回もまた、よろしくお願いします。

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