『存在と時間』を読む Part.36

  第37節 曖昧さ

 節のタイトルにもあるように、現存在の日常性における第3の頽落のありかたが、「曖昧さ」です。曖昧さは、「語り、理解、情態性」という3つの契機のうちの「情態性」が頽落したありかたです。

Alles sieht so aus wie echt verstanden, ergriffen und gesprochen und ist es im Grunde doch nicht, oder es sieht nicht so aus und ist es im Grunde doch. Die Zweideutigkeit betrifft nicht allein das Verfügen über und das Schalten mit dem in Gebrauch und Genuß Zugänglichen, sondern sie hat sich schon im Verstehen als Seinkönnen, in der Art des Entwurfs und der Vorgabe von Möglichkeiten des Daseins festgesetzt. (p.173)
あらゆることは、いかにも真の意味で理解され、捉えられ、語られているようにみえるが、根本ではそうではないことがある。反対にすべてがそのようにはみえないが、根本ではそうであることもある。この曖昧さは、現存在が使用し、享受するために近づくことのできるものを処理し、管理する営みにかかわるだけではなく、すでに存在可能としての理解のうちに、現存在のさまざまな可能性を投企し、あらかじめ与えておくやりかたのうちにも根づいているのである。

 「曖昧さ」とは、「あらゆることは、いかにも真の意味で理解され、捉えられ、語られているようにみえるが、根本ではそうではないことがある。反対にすべてがそのようにはみえないが、根本ではそうであることもある」ということです。好奇心に駆られて現存在が熱中する世間話というものは、不確かなものであり、うつろいやすいものでしょう。こうした世間話で噂されたことや、好奇心で知りたがったことは、実現されるかもしれないし、実現されないかもしれないという曖昧さをそなえています。実現されなければ、世間話と好奇心は次の話題へと現存在を誘うでしょうし、実現されたとしても、それはすでに共同相互存在としての世人が予感していたこととして、人々の関心をすぐに失わせるでしょう。
 たとえば、オリンピックである選手が金メダルを獲得するだろうという噂が聞こえてきたとします。こうした語りは、その種目のスポーツ選手やコーチといった一部の人たちだけが本来的にかかわるものであり、その他の人たちにおいては世間話になっています。この語りが世間話になっている人たちにとっては、実際にその選手が金メダルを獲るかどうかはどうでもいいことのはずであり、こうした曖昧さにおいて、気晴らしという好奇心の働きでそこに熱中しているだけなのです。一方で、その選手や関係者にとっては、オリンピックという出来事は自分たちにとって本来的な出来事でありうるでしょう。しかし世間話においては、その本来の価値はみかけだけの曖昧さのうちに忘却されてしまいます。こうした関心においては、世間話をする人たちの誰も責任を負っておらず、ただそれについて予感したり、かぎつけているだけだからです。そしてオリンピックが終わったなら、今度はすぐにそれについての関心はなくなり、誰もがそうするように、現存在はまた次の話題へと向かうことになります。

 このようにして出来事というものの価値が曖昧さによって否定されることは、現存在が自己の存在可能に真剣に直面することを妨げます。世間話に興じているとき、現存在はつねに曖昧なかたちで「そこに現に」存在しているのであり、これは共同相互存在の公共的な開示性において存在していることを意味します。そこでは、世間話や好奇心がひっきりなしに現存在を誘うのであり、自己に固有の可能性から目を逸らせるように働いているのです。曖昧さは、「すでに存在可能としての理解のうちに、現存在のさまざまな可能性を投企し、あらかじめ与えておくやりかたのうちにも根づいている」のであり、現存在の可能性のもつ力を押しつぶしてしまいます。

Diese Seinsart der Erschlossenheit des In-der-Welt-seins durchherrscht aber auch das Miteinandersein als solches. Der Andere ist zunächst >da< aus dem her, was man von ihm gehört hat, was man über ihn redet und weiß. Zwischen das ursprüngliche Miteinandersein schiebt sich zunächst das Gerede. Jeder paßt zuerst und zunächst auf den Andern auf, wie er sich verhalten, was er dazu sagen wird. Das Miteinandersein im Man ist ganz und gar nicht ein abgeschlossenes, gleichgültiges Nebeneinander, sondern ein gespanntes, zweideutiges Aufeinander-aufpassen, ein heimliches Sich-gegenseitig-abhören. Unter der Maske des Füreinander spielt ein Gegeneinander. (p.174)
しかし世界内存在の開示性のこうした存在様式が、共同相互存在そのものもまたあますところなく支配しているのである。他者はさしあたり、ひとがその他者について聞いてしまっていることに基づいて、ひとがその他者について語り、知っていることに基づいて、「そこに現に」存在している。根源的な共同相互存在のあいだには、さしあたり世間話が滑りこむのである。誰もがまずさしあたり他者に注意していて、他者がどのようにふるまい、それについてどう語るのかを見守っている。世人としての共同相互存在は、たがいに自己に閉じこもり、無関心な個人が隣り合わせで存在しているようなものでは決してない。そこでは緊張して曖昧に注意しあっているのであり、ひそかにたがいに盗み聞きしあっているのである。〈たがいのため〉という仮面のもとで、たがいの敵意が働いている。

 こうした共同相互存在においては、他者の存在は決して気持ちの良いものではなく、おたがいに監視するように目を光らせています。世人は好奇心と世間話によって、誰かが真に何かを理解するようなことは許さず、すべてを曖昧さのうちにとどめてしまうことで、世人自体の力を強めるのです。この強力な公共性においては曖昧さは隠されているのであり、人々は「生き生きとした生活」を送っていると思うのです。

 曖昧さはこのようにして、現存在の自己の内部において、自己に固有の実存を実現する可能性をあらかじめ取り除いておきます。「世間話」が世界において発生するさまざまな出来事について現存在を誘惑し、「好奇心」がさまざまな物事にたいする現存在の関心をひくとすると、「曖昧さ」はこうした誘惑や関心にひかれて、現存在が自己と自己の存在可能と直面することを妨げるという役割をはたすのです。

Die Phänomene des Geredes, der Neugier und der Zweideutigkeit wurden in der Weise herausgestellt, daß sich unter ihnen selbst schon ein Seinszusammenhang anzeigt. Die Seinsart dieses Zusammenhanges gilt es jetzt existenzial-ontologisch zu fassen. Die Grundart des Seins der Alltäglichkeit soll im Horizont der bisher gewonnenen Seinsstrukturen des Daseins verstanden werden. (p.175)
これまで世間話、好奇心、曖昧さという現象を、それら自身の現象のあいだに、すでに存在連関が存在しているのが自然に明らかになるようなやりかたで浮き彫りにしてきた。そこでいまや、こうした存在連関のもつ存在様式について、実存論的かつ存在論的に捉えることが必要になってきた。現存在についてこれまで確認された存在構造の地平において、日常性の根本的な存在様式を理解すべきなのである。

 次節ではいよいよ、「日常性の根本的な存在様式」として、これまで何度も言及されてきた「頽落」が取り上げられることになります。


 今回は以上です。また次回、よろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?