『存在と時間』を読む Part.57

  第55節 良心の実存論的・存在論的な諸基礎

 ハイデガーは、良心は開示性の1つとしてこの構造に含まれているものですが、そのうちでも「語り」と密接な関係にあると考えています。良心は「呼び掛ける」ものであり、実存する現存在の心に「語り掛ける」ものです。良心の呼び掛けは語りの1つの様態なのです。
 この呼び掛けには3つの要素があります。序論における存在への問いの考察を覚えていますでしょうか。存在への問いには、「問い掛けられるもの」「問われるもの」「問い質されるもの」という3つの契機で構成されていました。問い掛けられるものは現存在であり、問われるものは存在であり、問い質されるものは存在の意味でした(Part.1参照)。
 この構造に依拠して考えるなら、良心は現存在に呼び掛けるのであり、現存在が「呼び掛けられるもの」です。そしてこの「呼び掛け」が呼び掛けるものは、現存在のもっとも固有な自己の存在可能であり、この呼び掛けが呼び掛ける内容において問い質されるものは、現存在にもっとも固有な〈負い目存在〉です。この呼び掛けは、現存在をみずからの〈負い目存在〉へと呼び覚ますことを目指すのであり、呼び掛けるもの(>Ruf<)としての良心が、現存在に呼び掛ける(>Anruf<)ことによって、現存在をその〈負い目存在〉へと呼び起こす(>Aufruf<)ことを目指すのです。

 このように、良心は現存在に呼び掛けるのですが、現存在の開示性のうちではこの「呼び掛け」は「語り」という開示性に含まれるものです。この語りという開示性については、すでに第34節「現-存在と語り。言語」という説で詳細に検討されてきました(Part.33参照)。そこでは、「語りを構成する契機としては、語りが〈それについて〉語る事柄(語られたこと)、語られている事柄そのもの、伝達、告知などがある」と指摘され、この契機に基づいて、語る言明の伝達、沈黙、聞くことという3つの様態が考察されてきました。良心についてもまた、語りの開示性として、これらの契機と様態について考察する必要があるでしょう。


  第56節 良心の呼び掛けとしての性格

 それではまず、良心の呼び掛けの構造について考察してみましょう。第1の契機として、良心が”誰に”呼び掛けるのかが問われます。良心が呼び掛けるのが、わたしたち現存在であるのは明らかでしょう。しかしたんに現存在というだけではあまりに未規定で、漠然としたものです。

Der Ruf trifft das Dasein in diesem alltäglich-durchschnittlich besorgenden Sich-immer-schon-verstehen. Das Man-selbst des besorgenden Mitseins mit Anderen wird vom Ruf getroffen. (p.272)
呼び掛けは現存在に、この日常的で平均的な配慮的な気遣いのうちで〈つねにすでにみずからを理解している〉というありかたのうちにある現存在に出会うのである。他者との配慮的な気遣いのもとで共同存在している世人自己が、呼び掛けに打たれるのである。

 良心が呼び掛けるのは、「日常的で平均的な配慮的な気遣いのうちで〈つねにすでにみずからを理解している〉というありかたのうちにある現存在」です。このように規定された現存在は、すでに確認したように、「他者との配慮的な気遣いのもとで共同存在している世人自己」です。現存在がもしも自己に固有の存在可能に直面しているなら、現存在は良心の呼び掛けに「打たれる」ようなことにはならないでしょう。現存在が自己の実存と自己に固有の存在可能を忘却しているからこそ、良心は現存在に語り掛けるのであり、その必要があるのです。
 それでは第2の契機として、呼び掛けられる内容はどのようなものでしょうか。良心は現存在にたいして、何を呼び掛けるのでしょうか。

Was ruft das Gewissen dem Angerufenen zu? Streng genommen - nichts. Der Ruf sagt nichts aus, gibt keine Auskunft über Weltereignisse, hat nichts zu erzählen. (p.273)
良心は呼び起こされた者に、”何を”呼び伝えているのだろうか。厳密には何も呼び掛けてはいないのである。良心の呼び掛けは何も言明せず、世界の出来事についていかなる情報も与えず、物語るべきものは何ももっていないのである。

 良心が呼び掛ける内容は、無です。良心は呼び掛ける相手である現存在には、何も語ることをもっていません。

Dem angerufenen Selbst wird >nichts< zu-gerufen, sondern es ist aufgerufen zu ihm selbst, das heißt zu seinem eigensten Seinkönnen. Der Ruf stellt, seiner Ruftendenz entsprechend, das angerufene Selbst nicht zu einer >Verhandlung<, sondern als Aufruf zum eigensten Selbstseinkönnen ist er ein Vor-(nach->vorne<-)Rufen des Daseins in seine eigensten Möglichkeiten. (p.273)
呼び掛けられた自己には、「いかなるものも」呼び”伝えられ”てはおらず、自己はみずから自身に、すなわちそのもっとも固有な存在可能に向かって、”呼び起こされている”のである。呼び掛けは、その呼び掛けとしての本来の意図にしたがって、呼び起こされた自己を「話し合い」の場に連れだそうとするのではなく、そのもっとも固有な自己の存在”可能”に向かって呼び起こしながら、現存在をそのもっとも固有な可能性へと(その「前へと」)呼び掛けるのである。

 現存在の自己は「みずから自身に、すなわちそのもっとも固有な存在可能に向かって、”呼び起こされている”」だけであり、この呼び掛けによって現存在は、自己に固有な存在可能に直面するよう、促されるだけなのです。
 第3の契機である「問い質されるもの」は、ここではまだ明確に示されません。呼び掛けは、現存在を何らかの「〈話し合い〉の場に連れだそうとするのではなく」、現存在はただもっとも固有な可能性の前に呼びだされ、自己の可能性に直面させられるだけです。何が問い質されるかを考察するためには、良心の呼び掛けの様態をまず考察してみる必要があります。

 この呼び掛けには、いくつかの否定的な性格がそなわっています。第1に、すでに指摘したように、いかなる特定の事柄についても呼び掛けるのではないということです。「呼び掛けられた自己には、〈いかなるものも〉呼び”伝えられ”て」いません。何も伝達されるものはないのです。
 第2の否定的な性格は、それが沈黙という形をとることです。

Der Ruf entbehrt jeglicher Verlautbarung. Er bringt sich gar nicht erst zu Worten - und bleibt gleichwohl nichts weniger als dunkel und unbestimmt. Das Gewissen redet einzig und ständig im Modus des Schweigens. (p.273)
この呼び掛けには、いかなる口頭での発話も欠けている。呼び掛けは何も言葉にはしないのだが、それでいて不明瞭なものでも、無規定なものでもない。”良心はたえずひたすら沈黙という様態で語るのである”。

 しかしこの沈黙は中身のつまった沈黙です。言葉にされない呼び掛けは、現存在自身も沈黙するようにさせ、第3の様態としての「聞くこと」が生じます。良心は何も言葉にしては表現しませんが、それだけに現存在は、その言葉にされなかった呼び掛けの内容に耳を澄ませることを求められるのです。
 この沈黙は、このように呼び掛けが沈黙し、現存在に沈黙を強いることで、それまで世人自己の言葉を聞きつつ、みずからに固有の自己を聞き逃している現存在にたいして、このような自己喪失の状態から離脱する手助けをします。現存在はそれまでは世人自己の世間話の言葉に心を奪われていたのですが、良心が沈黙のうちで現存在に呼び掛けることで、世人自己の言葉に聞き入っていた状態を打破するような新しい聞き方がもたらされるのです。

 この良心の呼び掛けが開示しているものは、それが言葉にされないにもかかわらず、明確なことです。良心は個々の現存在の理解の可能性の違いにおうじて、さまざまに解釈されることがありえるし、それだけにその内容は無規定なものにみえるかもしれません。しかし、この呼び掛けが向かおうとする方向はしっかりと決まっていることを見逃すことはできません。すなわち、良心はどのように解釈されようとも、個々の現存在にもっとも固有な存在可能に向かうという性格は一貫していると、ハイデガーは考えるのです。ですから良心に錯誤が生じるとすれば、それは現存在の聞き方においてであると指摘されます。

Die >Täuschungen< entstehen im Gewissen nicht durch ein Sichversehen (Sichver-rufen) des Rufes, sondern erst aus der Art, wie der Ruf gehört wird - dadurch, daß er, statt eigentlich verstanden zu werden, vom Man-selbst in ein verhandelndes Selbstgespräch gezogen und in seiner Erschließungstendenz verkehrt wird. (p.274)
良心において「錯誤」が発生するとしたら、それは呼び掛けが間違える(呼び違える)ことによって発生するものではなく、その呼び掛けがどのように”聞きとられる”か、その聞き方において発生するのである。この錯誤は、呼び掛けが本来の意味で理解されることなく、世人自己によって話し合いのような自己との対話のうちに巻き込まれ、呼び掛けの開示へ向かう性向が倒錯してしまうことによって、初めて生まれるのである。

 良心の呼び掛けは、「世人自己によって話し合いのような自己との対話」を引き起こすものではまったくなく、沈黙において無を語るものです。言葉として語られない以上は、その内容において間違えることはなく、錯誤は「その呼び掛けがどのように”聞きとられる”か、その聞き方において発生する」ということになります。このとき良心の呼び掛けは、その本来の働きを失うのです。

 このように、良心は現存在に呼び掛け、現存在にその固有の存在可能について目覚めさせることを目的とします。その際に良心は何も伝達せず、沈黙という様態によって語り、現存在に呼びかけに耳を澄ませる新しい「聞き方」を教えるのです。
 ただし、呼び掛けの第3の契機である「問い質されるもの」、すなわち呼び掛けの意味については、まだ十分に考察されていません。それについて考察するには、呼び掛けについてのさらに深い問いを必要とします。これまで呼び掛けるのは良心であり、呼び掛けられるものは現存在であると考えてきました。しかし良心というものは、それが呼び掛ける現存在の外部に存在する第三者として、現存在に呼び掛けるわけではありません。ここに新たな問いが発生します。

Eine ontologisch zureichende Interpretation des Gewissens gewinnen wir aber erst dann, wenn sich verdeutlichen läßt: nicht nur wer der vom Ruf Gerufene ist, sondern wer selbst ruft, wie der Angerufene zum Rufer sich verhält, wie dieses >Verhältnis< als Seinszusammenhang ontologisch gefaßt werden muß. (p.274)
しかし良心を存在論的に深く解釈するためには、次のことについて明確にしておく必要がある。すなわち呼び掛けが”誰を”呼ぶのかということだけではなく、”呼び掛ける者”自身は”誰なのか”、呼び起こされた者と呼び掛ける者はどのような関係にあるのか、存在連関としてのこの「関係」は、存在論的にはどのように把握する必要があるのか、これらの点を明確にしておくべきなのである。


 今回は以上になります。次回もまた、よろしくお願いします。

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