『存在と時間』を読む Part.22

第23節 世界内存在の空間性

 現存在は世界のうちに存在することで、すでに「辺り」によって規定されているような存在者であり、手元存在者が世界内部的に存在するのに対して、この存在者は世界内存在として、世界のうちに内存在するのでした。この2つの存在様式の違いに基づいて、それらの空間性にも違いがでてきます。この節では、世界内存在としての現存在の空間性について確認されることになります。
 この考察で現存在に適用される実存カテゴリーが2つ提起されます。それは「距離を取ること」と「方向づけ」です。これらの概念のうち前者については、ドイツ語でみると理解が深まるようなものになっています。まずはそちらの方からたどってみましょう。

Unter Entfernung als einer Seinsart des Daseins hinsichtlich seines In-der-Welt-seins verstehen wir nicht so etwas wie Entferntheit (Nähe) oder gar Abstand. Wir gebrauchen den Ausdruck Entfernung in einer aktiven und transitiven Bedeutung. Sie meint eine Seinsverfassung des Daseins, hinsichtlich derer das Entfernen von etwas, als Wegstellen, nur ein bestimmter, faktischer Modus ist. Entfernen besagt ein Verschwindenmachen der Ferne, das heißt der Entferntheit von etwas, Näherung. Dasein ist wesenhaft ent-fernend, es läßt als das Seiende, das es ist, je Seiendes in die Nähe begegnen. (p.105)
わたしたちは現存在に、その世界内存在というありかたによってそなわる存在様式を、<距離を取る>と呼ぶが、これは遠隔性(近さ)とか隔たりというものとして理解すべきではない。この<距離を取る>という語は、能動的で他動詞的な意義で使うのである。これは現存在の存在機構の1つであって、これと対比して考えると、隔てることという意味の距離を置くことは、事実に依拠した特定の様態の1つにすぎない。<距離を取る>ということは、あるものの遠さを取り去ること、すなわち近づけることを意味する。現存在はその本質からして、距離を取るもののことであり、現存在は現存在であるかぎり、つねに存在者をその近さにおいて出会わせて存在しているのである。

 「距離を取ること」と訳したドイツ語は、>Entfernung< です。ハイデガーはこれを >Ent-fernung< というように、>ent< という前綴りと >fernen< という動詞の組み合わせを強調するために間にハイフンをつけて表記します。>Entfernung< は、「距離」や「間隔」を示す普通の名詞ですが、この語の動詞の形 >entfernen< には、「取り除く」「遠ざける」という意味があります。>ent< という接頭辞はここでは除去を意味しており、この語が >Ferne<(遠さ)につけられているために、全体では「遠さを取り除くこと」という意味になります。同じ段落の >Entfernen< のところには、欄外書き込みで >Ent-fernen schärfer als Näherung< (距離を取ることとは、より尖鋭に言うならば、近づけることである)とあります。遠さを取り除くことは、すなわち近づけることなのです。
 日本語で「距離を取る」と言うとき、それはあるものを遠ざけるという「距離を置く」ということを意味することもできます。ですが「距離を取る」という言葉は、遠さを「取る」ことを意味するのであり、「<距離を取る>ということは、あるものの遠さを取り去ること、すなわち近づけることを意味する」ということになります。このようにして、ハイデガーはこの語を「能動的で他動詞的な意義で使う」わけです。

Das Ent-fernen ist zunächst und zumeist umsichtige Näherung, in die Nähe bringen als beschaffen, bereitstellen, zur Hand haben. Aber auch bestimmte Arten des rein erkennenden Entdeckens von Seiendem haben den Charakter der Näherung. Im Dasein liegt eine wesenhafte Tendenz auf Nähe. (p.105)
この<距離を取る>とはさしあたりたいていは、目配りによって近づけること、近さへともたらすことであり、すなわち調達すること、準備すること、手元に用意しておくことを意味する。しかし存在者を純粋に認識的な態度で露呈させる特定の様式も、<近づけること>という性格をそなえている。”現存在のうちには、近さへの本質的な傾向がひそんでいる”。

 「距離を取る」ということは、手元存在者を遠い場所から近づけることであり、「すなわち調達すること、準備すること、手元に用意しておくことを意味」します。しかし「距離を取ること」は、存在者を手元に近づけることを意味するだけにとどまらず、その存在者についてより把握するということも含みます。この引用文では、道具的な認識の場合だけではなく自然科学的な認識もまた、存在者に近づくための1つの方法として提起されており、「存在者を純粋に認識的な態度で露呈させる特定の様式も、<近づけること>という性格をそなえている」とはそのことを言っています。世界のうちで、世界内部的な存在者と出会う「”現存在のうちには、近さへの本質的な傾向がひそんでいる”」のです。

 ところで、この「距離を取ること」という実存カテゴリーで考えられている「遠さ」や「近さ」は、物理的な間隔としての遠隔性や近接性とは明確に異なるものであることは明らかです。ハイデガーはこれについて眼鏡の例を挙げています。

Für den, der zum Beispiel eine Brille trägt, die abstandmäßig so nahe ist, daß sie ihm auf der >Nahe sitzt<, ist dieses gebrauchte Zeug umweltlich weiter entfernt als das Bild an der gegenüber befindlichen Wand. Dieses Zeug hat so wenig Nähe, daß es oft zunächst gar nicht auffindbar wird. (p.107)
たとえば眼鏡をかけている人を考えてみよう。その人にとって眼鏡は「鼻の上」にあるという意味ではきわめて近い隔たりのところにあるが、この使用中の眼鏡という道具は、向かいの壁にかかっている絵よりも、環境的にははるかに遠い距離を取って存在するものである。この道具には<近さ>がないだけではなく、その存在にまったく気づかないことも多いほどである。

 物理的な空間の配置としてみるならば、眼鏡と絵を比べたときに自分の身体に近い方は眼鏡です。しかし、配慮的な気遣いの目配りのまなざしのもとで考えてみるならば、この距離はまったく逆転します。壁にかかった絵を見ているとき、その人は自分がかけている眼鏡を意識することはせず、ときにはかけていることを忘れていることもあるでしょう。ハイデガーは、意識が何のもとにあるのかということを、「近さ」の基準にしているのです。

Ein >objektiv< langer Weg kann kürzer sein als ein >objektiv< sehr kurzer, der vielleicht ein >schwerer Gang< ist und einem unendlich lang vorkommt. In solchem >Vorkommen< aber ist die jeweilige Welt erst eigentlich zuhanden. (p.107)
「客観的には」長い道が、「客観的には」ごく短い道よりも、はるかに短く感じられることがある。そして「客観的には」ごく短い道も、「難路」であるために、その道を歩む人にとって限りなく遠いものとして現れることもある。”このようにして「現れること」のうちでこそ、そのつどの世界がはじめて本当の意味で手元的に存在するようになるのである”。

同様に、私たちは日常的に「あと一息だ」とか「目と鼻の先だ」などと口にしますが、これも目的地までの距離が本当に一息分に進む距離であるということを言っているわけではありません。「あと100m!」と言う場合でも、それは空間の中の2点間の長さのことを示しているのではないはずです。これらの尺度は、そうした言葉で「測定」することを表現するものではなく、そこへ行こうと目配りする現存在に帰属しているのです。

Man ist geneigt, aus einer vorgängigen Orientierung an der >Natur< und den >objektiv< gemessenen Abständen der Dinge solche Entfernungsauslegung und Schätzung für >subjektiv< auszugeben. Das ist jedoch eine >Subjektivität<, die vielleicht das Realste der >Realität< der Welt entdeckt, die mit >subjektiver< Willkür und subjektivistischen >Auffassungen< eines >an sich< anders Seienden nichts zu tun hat. Das umsichtige Ent-fernen der Alltäglichkeit des Daseins entdeckt das An-sich-sein der >wahren Welt<, des Seienden, bei dem Dasein als existierendes je schon ist. (p.106)
初めから「自然」を前提にしたり、「客観的に」測定された事物間の隔たりの大きさを重視したりするような場合には、こうした距離を取ることについての解釈や評価を、「主観的な」ものとみなしがちである。しかしこの「主観性」こそ、おそらくは世界の「実在性」のもっとも実在的なものを露呈させる主観性なのである。これは「主観的な」恣意とは違うものであるし、「それ自体では」別の形で存在しているものについての主観主義的な「見解」などといったものではない。”現存在が日常性において目配りで行う距離を取ることこそが、「真実の世界」のそれ自体のありかたを、実存する現存在がつねにすでにそのもとにいる存在者のそれ自体のありかたを露呈させるのである”。


 このように手元存在者との「近さ」は、物理的な「隔たり」としての遠隔性や近接性という空間性とは異なるものです。眼鏡や絵などの手元存在者は、眼前存在者のように均質な3次元空間に存在するのではなく、現存在が生活において道具を使う「辺り」のうちに存在し、現存在が使うための特定の場所を占めるのです。
 現存在にとっては、この「辺り」のもとにあるすべての事物(それはまず手元存在者であり、意識の転換の後には眼前存在者)のうちで、その手元存在者と交渉しながら、距離を取られたものこそが、もっとも近い存在者になります。これに対して眼前存在者との距離は、「隔たり」として定められるものであり、この存在者が存在する空間は、物理的に測定可能な均質な3次元空間です。ハイデガーは「場所」(>Platz<)と「位置」(>Stelle<)を使い分けますが、この空間における存在者は、その遠隔性と近接性を、「場所」ではなく、「位置」によって決定されます。この位置は、自然科学的なまなざしにおいて初めて意識されるものなのです。

 それでは、現存在の空間性の第2の特徴である「方向づけ」に移りましょう。この語は >Ausrichtung< を訳したものとなっています。これは前綴り >aus< と「向ける」を意味する >richten< という動詞の名詞形 >Richtung< で作られたもので、辞書には「整列、適合、調整、(思想・意向などの)方向づけ」などの語義があげられています。>aus< という前綴りは、中から外への方向を示し、とくに「~を目指して」という意味を強める語です。ハイデガーは、「方向」を意味する >Richtung< の語に、この >aus< という前綴りをつけることで、たんなる抽象的な方位ではなく、世界に生きる現存在の「方向性」という意味を強調するために使います。
 現存在は手元存在者に対して距離を取り、手元で利用しようとします。手元存在者は「辺り」にありますが、その辺りは現存在にとってはつねに1つの方向のもとにあります。パソコンは前方に、壁にかかっている絵は後方に、コーヒーは右側に存在しており、それらのすべては記事を書く私にとって、ある「距離」をもつと同時に、ある方向をそなえています。配慮的な目配りのまなざしをする現存在にとっては、周囲のすべての事物は、ある「距離」と「方向」をそなえたものとして立ち現れています。空間性の考察には、位置や場所だけではなく、方向性が重要な意味をもってくるのです。

 この方向性の考察については、次の2つの点が重要です。第1に、現存在がそのうちで生きる世界には、自然の天体である太陽によって決定された方位としての方角があることです。先にも見たように、太陽は人間の生活の根本を決定しているのであり、東西南北は、日昇と日没、南中と不在の極の方向として定められたものとなっています。人間は生活する住居をこの方向に基づいて建築し、調度を設置するのでした。
 第2に、人間の身体がすでに右手と左手によって、方角という意味をそなえていることです。人間は身体の両腕の位置によって、自分の身のまわりの空間の方向を見に携えています。東西南北の方角がわからなくなったとき、昼間の太陽の方向(南)に向いて両手を広げたなら、右手の方が西で左手の方が東という具合に、すぐに調べることができるでしょう。このことは、人間の両腕と、方位をもつ空間とが密接な関係をもつことを示しています。世界内存在としての現存在が自分の位置をみいだすには、よく知っている、記憶している世界(太陽が存在しているような)のうちに存在している必要があります。これまで太陽について知らなかった人には、両腕を広げて方角を確認するというような手段は隠されたままでしょう。そしてこの「記憶している」ということは、根本としては現存在の実存論的な機構のことを語っているのであり、世界内存在という「主観的な」アプリオリなものに根拠づけられているのです。

 このことは方位という客観的に思われるものですら、現存在にとっては自分の生きる世界との関係で定めるしかないことを示しています。現存在は自分のうちに、つねに絶対的に方位を示すような磁石をもっているわけではないからです。方位の考察は現存在の重要な特徴を、現存在は世界のうちで生きる存在者であり、その存在は世界に左右される相対的なものであり、絶対に確実なものを欠いているということを明らかにしたのです。
 デカルトの哲学では、思考するわたし(コギト)という主体が疑うことのできない絶対的なものとされ、カントにおいても、認識する主体の条件が、すべての認識を規制し、保証していました。このような哲学のもとでは、世界でもっとも確実なものは主体だとされてきたのでした。これに対してハイデガーの考える現存在は、世界のうちに生きることで、初めて自分の正しい位置をみいだすことができるような存在者です。
 デカルト的な絶対的な主観性をそなえた主体と、世界内存在という世界に条件づけられたこのハイデガー的な主体について、ハイデガーがこの節で行っている「ここ」と「あそこ」という考察に基づいて考えてみましょう。

 近代哲学の認識モデルは、灯台モデルとして考えることができます。灯火の明かりが灯台から放たれ、暗闇にあるものを照らしだすように、人間は能動的な主体として「ここ」にいて、「あそこ」にある周囲の世界を認識するとされています。現実の灯台は、周囲のものを浮かび上がらせることを意図してはいませんが、近代哲学のこのモデルでは、主体である人間は、ある意図をもって周囲の事物を知覚し、それを認識しているかのように考えるのです。
 ハイデガーのモデルはどのようなものでしょうか。まずは「ここ」と「あそこ」の考察を見てみましょう。少々長くなりますが、重要な箇所なので該当する段落全体を引用します。

Wenn das Dasein im Besorgen sich etwas in seine Nähe bringt, dann bedeutet das nicht ein Fixieren von etwas an einer Raumstelle, die den geringsten Abstand von irgendeinem Punkt des Körpers hat. In der Nähe besagt: in dem Umkreis des umsichtig zunächst Zuhandenen. Die Näherung ist nicht orientiert auf das körperbehaftete Ichding, sondern auf das besorgende In-der-Welt-sein, das heißt das, was in diesem je zunächst begegnet. Die Räumlichkeit des Daseins wird daher auch nicht bestimmt durch Angabe der Stelle, an der ein Körperding vorhanden ist. Wir sagen zwar auch vom Dasein, daß es je einen Platz einnimmt. Dieses >Einnehmen< ist aber grundsätzlich zu scheiden von dem Zuhandensein an einem Platz aus einer Gegend her. Das Platzeinnehmen muß als Entfernen des umweltlich Zuhandenen in eine umsichtig vorentdeckte Gegend hinein begriffen werden. Sein Hier versteht das Dasein aus dem umweltlichen Dort. Das Hier meint nicht das Wo eines Vorhandenen, sondern das Wobei eines ent-fernenden Seins bei ... in eins mit dieser Ent-fernung. Das Dasein ist gemäß seiner Räumlichkeit zunächst nie hier, sondern dort, aus welchem Dort es auf sein Hier zurückkommt und das wiederum nur in der Weise, daß es sein besorgendes Sein zu ... aus dem Dortzuhandenen her auslegt. Das wird vollends deutlich aus einer phänomenalen Eigentümlichkeit der Ent-fernungsstruktur des In-Seins. (p.107)
現存在は、配慮的な気遣いのもとで何かを近くに取りよせることがあるが、それは身体のある一点から最短の隔たりのところにある空間的な位置に、そのものを保持することではない。<近くに>ということは、目配りによってさしあたり手元にあるものの圏域のうちにということである。近づけることは、身体をもつ事物としての自我を中心として定められるものではなく、配慮的に気遣う世界内存在をもとにして、すなわち世界のうちに存在していることにおいて、そのつどさしあたり出会うものを中心として定められるのである。だから現存在の空間性は、身体という事物が眼前的に存在している位置を示すことによって規定されるようなものではない。たしかに現存在について、それがそれぞれある場所を占めていると語られることはある。しかし場所を「占めていること」は、手元的な存在者が、ある辺りの特定の場所にそなわっていることとは、原理的に区別しなければならない。現存在が場所を占めているということは、環境世界で手元的に存在するものに、目配りによってあらかじめ露呈されている辺りへと距離を取らせるということである。現存在は自分のいる<ここ>を、環境世界の<あそこ>に基づいて理解している。この<ここ>は、ある眼前的な存在者がある<どこに>ではなく、距離を取りつつ、<~のもとで>存在しているその<何のもとで>ということであり、しかもこの距離を取ることと一体になってということである。現存在はその空間性によって、まず<ここ>にいるのではなく、<あそこ>にいるのであり、その<あそこ>から自分の<ここ>に立ち戻ってくるのである。しかもあるものに向かう配慮的な気遣いをするみずからの存在を、<あそこ>に手元的に存在するものに基づいて解釈するという方法でのみ、みずからに立ち戻ってくるのである。そのことは、内存在の距離を取ることの構造にそなわるある現象的な特質を調べてみれば、さらに明らかになるだろう。

 周囲のものはわたしたちに押しよせて、わたしたちは眼を開いているかぎり、これらの周囲のものを見ざるをえません。そしてわたしたちが周囲のものを眺めているとき、わたしたちは自己について意識していません。外界の事物を意識するとき、わたしたちの意識はその事物に吸い取られているかのようではないでしょうか。ということは、わたしたちが周囲の事物を認識しているときには、わたしたちの意識は自己のもとにではなく、外にあるということになります。わたしが庭の木を眺めているとき、わたしの意識は、外にある木のところ、「あそこ」にあるのであって、「ここ」には存在しません。
 そしてわたしの意識が「ここ」に戻ったときに初めてわたしは自己を意識するか、この「ここ」においては、わたしの自己は外界の事物の印象によって埋め尽くされています。そして外界のさまざまな事物の印象から反照されるようにして、わたしの「ここ」が、わたしの意識が成立します。これが「現存在は自分のいる<ここ>を、環境世界の<あそこ>に基づいて理解している」ということです。光を放つ灯台のように、まず「ここ」にあって、意識を光のようにさまざまな「あそこ」へと向けて、そこに事物を浮かび上がらせるのではありません。現存在の意識はまず「あそこ」にあり、そこから「ここ」に戻ってくるだけなのです。「現存在はその空間性によって、まず<ここ>にいるのではなく、<あそこ>にいるのであり、その<あそこ>から自分の<ここ>に立ち戻ってくるのである」というのが、ハイデガーの考えるモデルとなっています。これは反照モデルと呼べるでしょう。
 このモデルでは、主体の場は空虚であり、外界の印象からの反照によって映し出されたスクリーンのようなものであり、外界の事物への配慮のうちに埋没していて、自己というものは、こうした気遣いからふと「われに返る」ときにみいだすものにすぎません。意識する主体は充実したものではなく、さまざまな印象や気遣いによって世界の事物のうちに意識を奪われており、ときおり立ち戻ることで、さまざまな印象によって反照されるようにして主体が成立するというのが、反照モデルなのです。
 この主体のモデルは、灯台モデルのような能動的な権能を想定しないモデルであり、むしろ主体は世界のうちに投げこまれるようにして存在することで、初めて自己の存在を認識することができるというような、受動的な主体の概念が想定されているものです。たしかに現存在は配慮的な気遣いをする主体ではありますが、この主体は世界のさまざまな事物に心を奪われている存在であり、「あるものに向かう配慮的な気遣いをするみずからの存在を、<あそこ>に手元的に存在するものに基づいて解釈するという方法でのみ、みずからに立ち戻ってくる」ような存在なのです。現存在は世界に没頭している存在です。
 この世界への没頭と、反照的な自己の認識は、存在論的には2つの重要な意味をそなえています。第1は、このように自己を世界の側から理解することが、現存在の実存についての理解を歪めていることです。後に考察されるように、現存在は自己を実存する主体としてではなく、「世人自己」として理解するようになりがちです。このような自己理解は「頽落」と非本来性をもたらす重要な源泉となるでしょう。
 第2は、世界のうちで配慮しながら生きる現存在には、自己の存在について、存在論的な思い違いをする可能性があることです。現存在は客観的な外界の事物の存在様式に基づいて、自己を理解しがちなのです。このことはすでに序論において、現存在はその存在様式のために、「自らの存在を、現存在が本質的に絶えずさしあたりかかわっている"その"存在者の方から理解しようとする傾向がある」と指摘されていたとおりです(Part.3参照)。

 最後に、これまで解明してきたことの役割を確認するこの節の最後の段落を引用して、このパートを終えることにしましょう。

Ent-fernung und Ausrichtung bestimmen als konstitutive Charaktere des In-Seins die Räumlichkeit des Daseins, besorgend-umsichtig im entdeckten, innerweltlichen Raum zu sein. Die bisherige Explikation der Räumlichkeit des innerweltlich Zuhandenen und der Räumlichkeit des In-der-Welt-seins gibt erst die Voraussetzungen, um das Phänomen der Räumlichkeit der Welt herauszuarbeiten und das ontologische Problem des Raumes zu stellen. (p.110)
<距離を取る>ことと<方向づけ>は、内存在を構成する性格なのであり、露呈された世界内部的な空間のうちで、配慮的な気遣いによって目配りしながら存在している現存在の空間性を想定するものである。これまで世界内部的に存在する手元的な存在者の空間性と、世界内存在の空間性を解明してきたが、これらの解明によって初めて、世界の空間性という現象を浮き彫りにして、空間の存在論的な問題を構築するための前提が与えられたことになる。


 第23節は以上となります。ハイデガーの魅力的な「ここ」と「あそこ」の考察はいかがだったでしょうか。次章では、こうした場所の副詞にみえる言葉が、実は手元存在者にかかわるカテゴリー的な規定ではなく、実存カテゴリー的な規定であることが語られることになります。

 次回の第24節をもって、第3章「世界の世界性」は完了します。次回もまた、よろしくお願いします。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?