『存在と時間』を読む Part.52

  第51節 〈死に臨む存在〉と現存在の日常性

 日常的で平均的な〈死に臨む存在〉がどのようなものであるかを明らかにするためには、これまで確認された日常性のさまざまな構造にその方向性を探ることになります。現存在は日常性においては頽落存在であり、その自己は世人でした。ここで問う必要があるのは、世人はどのようにして〈死に臨む存在〉を開示しているかということです。
 死の実存論的な考察によって、現存在は日常性においても死の不気味さから逃走し、自己のもっとも固有の存在可能である死から逃走していることが明らかになりました。現存在は死に直面することを避けるという非本来的なありかたのうちにあります。この現存在の死からの逃避が、頽落というありかたのうちに見出されるなら、死からの逃避は、頽落の3つの構造的な契機である世間話、好奇心、曖昧さのもとで考察する必要があるでしょう。

 死についての「世間話」から考えてみると、世人は死をどのように語っているでしょうか。

Die Öffentlichkeit des alltäglichen Miteinander >kennt< den Tod als ständig vorkommendes Begegnis, als >Todesfall<. Dieser oder jener Nächste oder Fernerstehende >stirbt<. Unbekannte >sterben< täglich und stündlich. >Der Tod< begegnet als bekanntes innerweltlich vorkommendes Ereignis. Als solches bleibt er in der für das alltäglich Begegnende charakteristischen Unauffälligkeit. Das Man hat für dieses Ereignis auch schon eine Auslegung gesichert. Die ausgesprochene oder auch meist verhaltene >flüchtige< Rede darüber will sagen: man stirbt am Ende auch einmal, aber zunächst bleibt man selbst unbetroffen. (p.252)
日常的な共同相互存在に属する公共性は、死のことであれば、たえず現前する事件として、「死亡事例」として「知っている」。あれこれの身近なひとびとや疎遠なひとが「死んでいる」。見知らぬひとびとであれば、毎日のように、刻々と「死んでいる」のである。「死」には、世界の内部で現前する周知の出来事として出会うのである。そうした周知の出来事として、死は日常的に出会う事柄のもつ性格である〈目立たなさ〉のうちにある。そして世人はこの出来事のために、すでにある解釈を確保している。世人が死について言葉で語ること、あるいは多くの場合は控えめに「そっと」語ることは、ひとはいつかは死ぬものだ、ただしさしあたりは自分の番ではないということである。

 公共性としての世間話は、死のことを「たえず現前する事件として、〈死亡事例〉として」語ります。こうして語られる死は周知のことであり、「目立たない」性格のものです。この場合には、死は現存在のもっとも固有な存在可能としてではなく、他者の死として語られます。世間話は死について現存在にそっと、「ひとはいつかは死ぬものだ、ただしさしあたりは自分の番ではない」と語るのです。
 この世間話が語る死の重要な特徴は、それが現存在の当人の死ではなく、どこかにいる他人の死であり、現存在である当人とはかかわりのない死とみなされているということです。

Das >man stirbt< verbreitet die Meinung, der Tod treffe gleichsam das Man. Die öffentliche Daseinsauslegung sagt: >man stirbt<, weil damit jeder andere und man selbst sich einreden kann: je nicht gerade ich; denn dieses Man ist das Niemand. (p.253)
「ひとは死ぬものだ」という言葉は、死というものは、世人を襲うものであるという考え方を広める。公共的な現存在の解釈は、「人は死ぬものだ」と語るが、それは誰であれ他人が自分に向かって、わたしも自分に向かって、次のように言い聞かせることができるようにするためである。すなわち、死ぬのはそのつどほかならないわたしではない。というのも、この世人というものは、”誰でもないひと”のことだからだ、と。

 たしかにひとは死にますが、「死ぬのはそのつどほかならないわたしではない」のであり、死ぬ人は「”誰でもないひと”」だと告げるのです。
 この世間話の語る死は、現存在にとっては曖昧なものです。死ぬのは誰かが明確にされないことが多く、現存在は自己の可能性としての死に直面しており、その不気味さから逃れようとしているはずであるのに、それを自分のことではないものとしてごまかそうとするのです。

Das >Sterben< wird auf ein Vorkommnis nivelliert, das zwar das Dasein trifft, aber niemandem eigens zugehört. Wenn je dem Gerede die Zweideutigkeit eignet, dann dieser Rede vom Tode. Das Sterben, das wesenhaft unvertretbar das meine ist, wird in ein öffentlich vorkommendes Ereignis verkehrt, das dem Man begegnet. (p.253)
「死ぬ」ことは、現存在にかかわる出来事ではあるが、誰にとっても自分のことではないたんなる出来事に、平板化されてしまうのである。世間話というものにはそのつど曖昧さがつきものだが、この死についての語りにも、曖昧さはつきものなのである。死ぬことはその本質からして、代理することのできないものとして〈わたしが死ぬこと〉であるはずなのに、それが公共的な出来事へと転倒されて、世人が出会うものとなる。

 死ぬのはこのわたしではなく、誰でもない世人なのです。死は現存在のもっとも固有な可能性であり、現存在はそれに直面しながらも、みずからを「”誰でもないひと”」である世人のうちに喪失してしまいます。死が「誰にとっても自分のことではないたんなる出来事」に転倒し、そこに生じる「曖昧さ」によって、自己の固有の可能性としての実存という性格が隠蔽されると同時に、それが他者との関係を喪失したものであるという性格と、追い越すことのできないものであるという性格もまた隠されてしまうのです。

 世人は死についての世間話をすることで、このように現存在を死の実存論的な意味から眼を背けさせ、逃避させます。それは死から逃避することで、不安を回避することができるからであり、同時に死に直面することからの「慰め」を与えるという利点が存在するからです。ハイデガーによれば、世間話は2つの方法で、この死からの逃避を実現しようとします。
 第1に世間話は現実に死を迎えようとしている人に、死に直面することを免れさせることで、「慰め」を与えようとします。

Das verdeckende Ausweichen vor dem Tode beherrscht die Alltäglichkeit so hartnäckig, daß im Miteinandersein die >Nächsten< gerade dem >Sterbenden< oft noch einreden, er werde dem Tod entgehen und demnächst wieder in die beruhigte Alltäglichkeit seiner besorgten Welt zurückkehren. Solche >Fürsorge< meint sogar, den >Sterbenden< dadurch zu >trösten<. Sie will ihn ins Dasein zurückbringen, indem sie ihm dazu verhilft, seine eigenste, unbezügliche Seinsmöglichkeit noch vollends zu verhüllen. (p.253)
死に臨んでそれを隠しながら回避する態度は、日常生活をきわめて執念深く支配しているので、共同相互存在する「近親者」たちは「死にゆくひと」に語りかけて、〈あなたは死ぬようなことはない、あなたが配慮的に気遣う世界のあの穏やかな日常性に戻ることができる〉と信じさせようとする。この「顧慮的な気遣い」は、「死にゆくひと」を「慰めている」つもりなのである。そして「死ぬゆくひと」が、自分のもっとも固有で関係を喪失するような存在可能性に直面することを妨げて、これをそのひとから完全に隠してしまうように手助けすることで、そのひとを自分の現存在に立ち戻らせようと、努めているのである。

 しかしこの慰めは、死を迎えようとしている人だけに向けられているのではありません。世間話は第2に、近親者たちもまたこうした言葉で慰めて、彼らが死に直面することを避けさせます。それによって、近親者たちは自分たちでも、「死についての不断の安らぎ」を確保しようとするのです。

Das Man besorgt dergestalt eine ständige Beruhigung über den Tod. Sie gilt aber im Grunde nicht nur dem >Sterbenden<, sondern ebenso sehr den >Tröstenden<. Und selbst im Falle des Ablebens noch soll die Öffentlichkeit durch das Ereignis nicht in ihrer besorgten Sorglosigkeit gestört und beunruhigt werden. (p.253)
世人はこのようにして、”死についての不断の安らぎ”が与えられるように配慮的に気遣っているのである。しかしこの〈安らぎ〉というものは根本的に、「死にゆくひと」のためだけではなく、「慰めているひと」にとっての安らぎでもある。そして誰かが実際に〈息絶えた〉ときにも、公共性はこの出来事によって、公共性が配慮的に気遣っている気掛かりのなさが攪乱されたり、動揺させられることがないようにしているのである。

 世間話は、死という重要な事件をあたかも存在しなかったことであるかのように語ります。世人は死を社会的に迷惑なことだとみなしたり、ときには不作法なものだとして、そうしたものを忌避しようとする姿勢を示すこともあるでしょう。そうすることで、死によって「公共性が配慮的に気遣っている気掛かりのなさが攪乱されたり、動揺させられることがないようにしている」のです。

 このように他者の死は、周囲の人々に死に直面する機会を与えると同時に、みずからの死から眼を背ける道を提示します。しかし死は厳然として眼の前にある差し迫った出来事であり、それから眼を背けることは許しません。死は現存在に自分の死を直視し、理解するように求めるのです。
 理解は頽落においては「好奇心」というありかたで表現されていました。頽落というありかたで把握される死は、好奇心を掻き立てます。たとえば芸能人の自殺が報道されると、それについての原因や経緯についての詮索が目立ち始めます。その死は当人にとっては重要なものであったはずですが、世人の公共性のうちにもたらされるとすぐに、人々の「好奇心」の的になってしまうのです。死は、1人の人間の死去という出来事であると同時に、その人の死がもたらすさまざまな出来事への好奇心を掻き立てる出来事になります。
 それだけではなく、死は現存在に自己の死について理解する機会を与えるはずですが、頽落した現存在は、それを自己に固有の存在可能の実現という観点から眺めることはありません。芸能人の死は、人々の好奇心のもとで世間話の1つとして語られるようになるでしょう。それによって現存在は、みずからの傑出した存在可能に直面しながらも、そうした存在可能に直面することを妨げられ、これを理解することを妨げられるのです。

 現存在は他者の死に直面することで不安を感じ、自己の死の可能性を認識させられ、そしてまだ実現されていない自己の存在可能に思いを馳せ、みずからの実存にたち戻ることができるはずです。しかし世人はこうした不安を曖昧な形で恐れに変えてしまい、現存在が実存に立ち戻るきっかけとなるはずの不安という情態性を、現存在の弱気であるとみなすようになります。

Das Man setzt sich aber zugleich mit dieser das Dasein von seinem Tod abdrängenden Beruhigung in Recht und Ansehen durch die stillschweigende Regelung der Art, wie man sich überhaupt zum Tode zu verhalten hat. Schon das >Denken an den Tod< gilt öffentlich als feige Furcht, Unsicherheit des Daseins und finstere Weltflucht. Das Man läßt den Mut zur Angst vor dem Tode nicht aufkommen. (p.254)
世人はこのようにして現存在を死から遠ざけて、〈安らぎ〉を与えるだけではない。”ひと”はそもそも死にたいしてどのような姿勢を示すべきかについても、暗黙のうちに規制を加えることで、権威と威信を確保するのである。公共的にみると、「死について考える」だけでも、臆病な恐れを示すものであり、現存在の不確かさを示すものであり、陰気な現実逃避であるとみなされるのです。”世人は、〈死に臨む不安〉に直面する勇気をもつことを妨げる”のである。

 世人による公共的に解釈されたありかたが支配的であるために、死に臨む態度を規定する情態性までもが、あらかじめ決定されてされてしまっています。世人は死にたいする不安を手掛かりにして、それをこれから起こる死という出来事への恐れに転換させようと配慮的に気遣います(恐れについてはPart.29参照)。世人は不安に恐れという曖昧な性格をもたせ、それを現存在にあってはならない弱気であると言い募り、現存在はみずからにもっとも固有な存在可能から疎外されるのです。

 これらの誘惑と安らぎと疎外は、頽落という存在様式にそなわる特徴であり、こうしたありかたにおいて現存在は、死から逃走し、終わりを回避するという様態のうちにあると、ハイデガーは指摘します。

Das alltägliche Sein zum Tode ist als verfallendes eine ständige Flucht vor ihm. Das Sein zum Ende hat den Modus des umdeutenden, uneigentlich verstehenden und verhüllenden Ausweichens vor ihm. Daß das je eigene Dasein faktisch immer schon stirbt, das heißt in einem Sein zu seinem Ende ist, dieses Faktum verbirgt es sich dadurch, daß es den Tod zum alltäglich vorkommenden Todesfall bei Anderen umprägt, der allenfalls uns noch deutlicher versichert, daß >man selbst< ja noch >lebt<. (p.254)
日常的な〈死に臨む存在〉は、頽落しつつ、普段に”死から逃走している”。〈終わりに”臨む”存在〉は、終わりにたいして曖昧にごまかし、非本来的にそれを理解して覆い隠しながら、”終わりを回避”するという様態のうちにある。各自の現存在は、事実としてはつねにすでに死につつあるのであり、みずからの終わりに臨む存在のうちで存在している。しかし現存在は死を、日常的に他者において発生している死亡事例に変造することによって、この事実を覆い隠す。ひとは死ぬが「自分だけは」まだ「生きている」ことを、わたしたちにそれだけはっきりと確証してくれるのである。

 しかし現存在は、日常性において死から逃走しながらも、つねに〈死に臨む存在〉として定められているのであり、逃走しているということのうちに、そのことを証してしまうのです。というのも、いくら現存在が死の可能性に抵抗して、それに煩わされないように無関心をよそおっても、そうした配慮的な気遣いにおいて、死という存在可能に直面させられていることが暴かれるからです。平均的な日常性においても、「各自の現存在は、事実としてはつねにすでに死につつあるのであり、みずからの終わりに臨む存在のうちで存在している」のです。

 ハイデガーはこのように死の実存論的な概念を、日常性における頽落という観点から考察してきました。それによって新たな課題が生まれます。

Die Herausstellung des alltäglichen Seins zum Tode gibt aber zugleich die Anweisung zu dem Versuch, durch eine eindringlichere Interpretation des verfallenden Seins zum Tode als Ausweichen vor ihm den vollen existenzialen Begriff des Seins zum Ende zu sichern. An dem phänomenal zureichend sichtbar gemachten Wovor der Flucht muß sich phänomenologisch entwerfen lassen, wie das ausweichende Dasein selbst seinen Tod versteht. (p.255)
このように日常的な〈死に臨む存在〉についての詳細な考察によって、同時に1つの指示が得られた。それは頽落した〈死に臨む存在〉について、それを”死を前にして”それから回避する存在として詳細に解釈し、それによって〈終わりに臨む存在〉についての完全な実存論的な概念を確定することを試みよという指示である。逃走が”それから逃走しようとしているもの”について、現象的に十分に明確にすることによって、回避しつつある現存在が自己の死をみずからどのように理解しているかを、現象学的に描き出すことができるはずである。

 これまでの考察は、死を前にした現存在にとって死とは、もっとも固有で、関係を喪失し、追い越すことのできない存在可能性であることを、死の実存論的な概念として提起し、同時に現存在が日常性において、この死に直面することをいかにして回避しているかという頽落のありかたを実存論的に考察してきたのでした。これから必要になるのは、この「頽落した〈死に臨む存在〉について、それを”死を前にして”それから回避する存在として詳細に解釈し、それによって〈終わりに臨む存在〉についての完全な実存論的な概念を確定する」ことです。これは現存在の死について、さらに完璧な実存論的な考察を必要とするものとなるでしょう。


 今回は以上になります。次節では、死の実存論的な概念がさらに鋭く規定されることになります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?