『存在と時間』を読む Part.10

  第11節 実存論的な分析論と未開な段階にある現存在の解釈、「自然的な世界概念」を獲得することの難しさ

Die Interpretation des Daseins in seiner Alltäglichkeit ist aber nicht identisch mit der Beschreibung einer primitiven Daseinsstufe, deren Kenntnis empirisch durch die Anthropologie vermittelt sein kann. Alltäglichkeit deckt sich nicht mit Primitivität. Alltäglichkeit ist vielmehr ein Seinsmodus des Daseins auch dann und gerade dann, wenn sich das Dasein in einer hochentwickelten und differenzierten Kultur bewegt. (p.50)
日常性における現存在の解釈は、未開な段階にある現存在を記述することとは違うことであるーこうした知識は経験的に人類学によって与えられることがある。"日常性は未開性とは異なるものである"。日常性とはむしろ、高度に発展し差異化された文化のうちで暮らす現存在にとっても妥当する、あるいはむしろそうした現存在にとってこそふさわしい存在様態なのである。

 この節の始めにハイデガーは、現存在の日常性は未開性とは異なるものであることを指摘します。ハイデガーの言う日常性とは、あくまでも現代社会に生きるわたしたちの日常性のことであって、未開社会に生きる現存在の日常性のことではありません。未開社会に生きる現存在には、それに固有の日常性があるのであって、ある場合には非日常的な存在として生きる可能性もあるでしょう。現代社会に生きるわたしたちからすれば、未開社会の日常性がどのようなものであるかは自明なものではなく、それを想定することは新たな解釈にかかっていることになります。わたしたちが注目するべきであるのは、やはりわたしたちの日常性なのです。

Die Orientierung der Daseinsanalyse am >Leben der primitiven Völker< kann positive methodische Bedeutung haben, sofern >primitive Phänomene< oft weniger verdeckt und kompliziert sind durch eine schon weitgehende Selbstauslegung des betr. Daseins. Primitives Dasein spricht oft direkter aus einem ursprünglichen aufgehen in den >Phänomenen< (im vorphänomenologischen Sinne genommen). Die, von uns aus gesehen, vielleicht unbeholfene und grobe Begrifflichkeit kann positiv förderlich sein für eine genuine Heraushebung der ontologischen Strukturen der Phänomene. (p.51)
「未開民族の生活」に基づいて現存在を分析することが、方法論的に積極的な意味をもつことはありうるが、それは「未開の現象」というものは、分析を行う現存在のもとですでに発達した自己解釈によって覆い隠されることも、複雑なものとされることも比較的少ないからである。未開な段階にある現存在は、前現象学的な意味での「現象」に根源的に没頭していて、そこから直接的に語りだすことが多いものである。こうした人々の用いる概念装置は、わたしたちからみればおそらく稚拙で粗雑なものではあろうが、その現象の存在論的な構造を混じりものなしに提示しているために、積極的に役立つことがある。

  分析が注目するべきなのはわたしたちの日常性です。しかし未開な社会を生きる現存在の日常性から、わたしたちの日常性を分析するうえで何らかのヒントが得られるのではないでしょうか。というのも、未開人の現象は、「分析を行う現存在のもとですでに発達した自己解釈によって覆い隠されることも、複雑なものとされることも比較的少ないから」であり、「現象の存在論的な構造を混じりものなしに提示しているために、積極的に役立つことがある」からです。未開社会は、高度に発達した社会の「祖型」として役立つと考えられます。
 また、未開な段階にある現存在は、「前現象学的な意味での<現象>に根源的に没頭していて、そこから直接的に語りだすことが多い」と言われています。ということは、単に簡略的であるだけでなく、「生」に直接に近づけるかもしれないと考えられるでしょう。こうした未開人の語りは、現象に「根源的に没頭して」発信されるものであるために、現代社会を生きる現存在の日常性と比較して、やはり原型として役に立つかもしれません。

Aber bislang wird uns die Kenntnis der Primitiven durch die Ethnologie bereitgestellt. Und diese bewegt sich schon bei der ersten >Aufnahme< des Materials, seiner Sichtung und Verarbeitung in bestimmten Vorbegriffen und Auslegungen vom menschlichen Dasein überhaupt. Es ist nicht ausgemacht, ob die Alltagspsychologie oder gar die wissenschaftliche Psychologie und Soziologie, die der Ethnologe mitbringt, für eine angemessene Zugangsmöglichkeit, Auslegung und Übermittelung der zu durchforschenden Phänomene die wissenschaftliche Gewähr bieten. (p.51)
しかしこれまでのところ、こうした未開な段階にある人々についての知識は、民俗学を通じて提供されてきた。民俗学もまた、資料の最初の「収集」の際にも、そうした資料の選別と処理の際にも、すでに人間という現存在一般について、特定の既成の概念や解釈に基づいて作業をしているのである。民俗学者たちが持ち込んでいる日常の心理学や、学的な心理学や社会学が、研究すべき現象に接近するために、そしてそれを解釈し伝達するために、適切なものであるという学的な保証はないのである。

 第10節では、実存論的な分析論と、人間学、心理学、生物学の違いが考察されました。この節では人類学や民俗学による考察が、現存在分析の役に立つのか否かについて述べられています。しかし、こうした学問によって得られた未開な段階にある現存在についての研究成果は、「すでに人間という現存在一般について、特定の既成の概念や解釈に基づいて作業をしている」のだと指摘されます。やはりこれらの学問も、現存在についての存在論的な考察を欠いているのであり、「民俗学者たちが持ち込んでいる日常の心理学や、学的な心理学や社会学が、研究すべき現象に接近するために、そしてそれを解釈し伝達するために、適切なものであるという学的な保証はない」と批判されることになります。つまり、未開社会の人々の日常性は、現代社会に生きる現存在の日常性を解釈するためのヒントにはならないということです。
 ハイデガーは人類学の価値をひとたびは認めながらも、日常性の分析の役には立たないと批判しました。しかし、そもそも未開社会の日常性が役に立つのではないかと考察されたのには、次に述べられるような哲学上の欠落があったからです。

So leicht die formale Abgrenzung der ontologischen Problematik gegenüber der ontischen Forschung sein mag, die Durchführung und vor allem der Ansatz einer existenzialen Analytik des Daseins bleibt nicht ohne Schwierigkeiten. In ihr Aufgabe liegt ein Desiderat beschlossen, das seit langem die Philosophie beunruhigt, bei dessen Erfüllung sie aber immer wieder versagt: die Ausarbeitung der Idee eines >natürlichen Weltbegriffes<. (p.52)
存在者的な研究の領域を、存在論的な問題構成の領域と形式的に分離するのはごくたやすいことかもしれないが、現存在の実存論的な分析論を遂行するためには、とくにその"出発点を明確にする"ためには、まだ多くの困難な問題がある。この分析論の課題のうちに、長いあいだ哲学を不安にさせてきたある欠落が含まれるのであり、哲学はこの問題を解決しようと繰り返し試みてきたが、つねに失敗してきた。この欠落とは、"「自然的な世界概念」の理念をさらに明確なものにする"という課題である。

 「自然的な世界概念」とは、日常性の分析の前提となる概念であり、わたしたちがふつうに生きている世界についての概念であると言えるでしょう。そしてこの概念こそが、「長いあいだ哲学を不安にさせてきたある欠落」であり、哲学が「この問題を解決しようと繰り返し試みてきたが、つねに失敗してきた」ものなのです。しかし、これまでの哲学はなぜこの理念の確立に失敗してきたのでしょうか。

Das echte Prinzip der Ordnung hat seinen eigenen Sachgehalt, der durch das Ordnen nie gefunden, sondern in ihm schon vorausgesetzt wird. So bedarf es für die Ordnung von Weltbildern der expliziten Idee von Welt überhaupt. Und wenn >Welt< selbst ein Konstitutivum des Daseins ist, verlangt die begriffliche Ausarbeitung des Weltphänomens eine Einsicht in die Grundstrukturen des Daseins. (p.52)
秩序づけのための真の原理は、それに固有の事象的な内実をそなえたものであるはずであり、それは秩序づけを行った後に発見されるものではなく、秩序づけのうちですでに前提されている。だからさまざまな世界像を秩序づけるためには、世界一般についての明示的な理念が必要なのである。そして「世界」そのものが現存在の構成要素であるならば、世界という現象を概念的に明確なものにするには、現存在の根本的な構造を洞察することが求められるのである。

 「だからさまざまな世界像を秩序づけるためには、世界一般についての明示的な理念が必要なのである」が、「秩序づけのための真の原理は、それに固有の事象的な内実をそなえたものであるはず」です。しかしその内実はというと、「それは秩序づけを行った後に発見されるものではなく、秩序づけのうちですでに前提されている」という形で見出されるのです。
 こうして1つの循環構造が浮かび上がります。自然的な世界を理解するためにはそのための原理が必要ですが、それは「世界一般についての明示的な理念」において獲得されるものとなっています。ということは、自然的な世界を理解するには、世界についてあらかじめ想定された理念が必要だということであり、この理念は「自然的な世界概念」のうちにすでに存在しているものであるのですが、それについては決して明示的にではなく暗黙のうちに了解されているようなものなのです。
 もし、現代人とは異なる未開人の現象に対する直接さや素朴さが世界を理解するために役に立つのであれば、こうした循環は回避されるかもしれませんでした。しかし結論としては、現存在の分析論はわたしたち自身の日常性において考察されなければならないことは先に述べられたとおりです。そしてハイデガーは、未開社会の人類学的な研究が、方法として現存在の考察に役に立つのではなく、その反対に現存在の分析こそが、未開社会を考察する前提になると主張します。「<世界>そのものが現存在の構成要素であるならば、世界という現象を概念的に明確なものにするには、現存在の根本的な構造を洞察することが求められるのである」と言われているように、さまざまな世界像を秩序づけるための原理は、世界一般の理念から獲得されますが、こうした世界についての理念には現存在の分析論が必要であるのです。


 第11節は以上となります。これをもって第1章が完了し、次回からの第2章では、予告されていた「世界内存在」についての考察が展開されることになります。次回以降も、よろしくお願いします。

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