『存在と時間』を読む Part.48

 第1章 現存在に可能な全体存在と〈死に臨む存在〉

  第46節 現存在にふさわしい全体存在を存在論的に把握し、規定することが不可能にみえること

 これまでの分析の重要な欠陥を克服するために、ハイデガーは死の問題の考察に取り掛かります。死は、現存在の「終わり」であるという意味で、現存在の生に終止符をうつ瞬間であり、その時点で現存在の生の全体が終えたものとなります。
 現存在の全体性を把握するためには、全体的な現存在についての〈予持〉を獲得しなければなりません。ところが、実存する現存在はつねに「気遣い」という存在様態のもとにあることを考えると、このような予持を獲得することは不可能に思えます。

Der Sorge, welche die Ganzheit des Strukturganzen des Daseins bildet, widerspricht offenbar ihrem ontologischen Sinn nach ein mögliches Ganzsein dieses Seienden. Das primäre Moment der Sorge, das >Sichvorweg<, besagt doch: Dasein existiert je umwillen seiner selbst. (p.236)
現存在の構造全体の全体性を構成しているのは気遣いである。ところでこの気遣いの存在論的な意味を考えてみるならば、それがこの現存在という存在者の全体存在の可能性と矛盾するものであることは明らかである。というのも気遣いの構造の第1義的な契機は「自己に先立つこと」であるが、これが意味するのは何よりも、現存在はそのつど自分自身を〈そのための目的〉として実存するということである。

 現存在はつねに自分にとってその存在可能を目指して生きる存在者です。その存在可能はいまだたんなる可能性として、現時点においてまだ実現されていないものであり、現存在はみずから思い描いた望みに向かって生きつづけるのです。

Dieses Strukturmoment der Sorge sagt doch unzweideutig, daß im Dasein immer noch etwas aussteht, was als Seinkönnen seiner selbst noch nicht >wirklich< geworden ist. Im Wesen der Grundverfassung des Daseins liegt demnach eine ständige Unabgeschlossenheit. Die Unganzheit bedeutet einen Ausstand an Seinkönnen. (p.236)
気遣いのこうした構造契機が明確に告げているのは、現存在のうちには、つねになお何かが”残っている”こと、みずからの存在可能としてまだ「現実的に」なっていないあるものが残っているということである。現存在の根本機構の本質には、”絶えざる未完結性”が含まれているのである。現存在が全体性を欠如しているということは、現存在の存在可能に、まだこうした〈残りのもの〉があるということである。

 このことは「現存在の根本機構の本質には、”絶えざる未完結性”が含まれている」ことを意味しています。そして現存在がこの未完結性を喪失した瞬間が死の瞬間であり、それは世界内存在を端的に喪失するということです。そのときには現存在はもはや現存在でなくなっているのであるから、現存在がみずから自己の全体性を保持することも、予持することも不可能になると言わざるをえません。現存在には自己の全体性を経験する可能性そのものが原理的に欠落しているのです。
 しかしこのことは、現存在の実存にとって死が原理的に考察しえないものとしてあることを意味しているわけではありません。むしろ死は現存在にとって特別に重要な意味をもつ出来事なのであり、この章ではこの死と実存の問題を改めて考察することになります。

  第47節 他者の死の経験の可能性と全体的な現存在の把握可能性

 現存在が自己の死を経験することは原理的に不可能です。それでは他者の死において、死を経験することができるのではないでしょうか。他者の死は死を客観的に認識する方法であり、機会であるように思えます。しかしわたしたちは他者の死において、自分自身の死を客観的に認識することができるでしょうか。それにはいくつもの困難な問題がつきまといます。
 第1に、すでに第1篇で考察されたように、すべての現存在が「わたしのもの」という意味をもっているのであり、他者の死はこの観点からみて、わたしのものではありえません。わたしたちは世界において共同存在としての他者とともに生きることはできますが、他者の現存在の死を、みずからの死として経験することはできません。

Der Tod ist, sofern er >ist<, wesensmäßig je der meine. Und zwar bedeutet er eine eigentümliche Seinsmöglichkeit, darin es um das Sein des je eigenen Daseins schlechthin geht. Am Sterben zeigt sich, daß der Tod ontologisch durch Jemeinigkeit und Existenz konstituiert wird. Das Sterben ist keine Begebenheit, sondern ein existenzial zu verstehendes Phänomen und das in einem ausgezeichneten, noch näher zu umgrenzenden Sinne. (p.240)
死とは、それが死で「ある」かぎり、その本質からしてつねにそのつど〈わたしのもの〉としてある。しかも死とは、各人に固有の現存在の存在が端的に問われるという特別な存在可能性を意味する。死ぬことにおいてあらわになるのは、存在論的には死は〈そのつどわたしのものである〉という性格と、実存によって構成されているということである。死ぬということは出来事のようなものではなく、実存論的に理解すべき現象であり、しかも傑出した性格をもつ現象である。これからこの性格について詳細に画定する必要がある。

 「死ぬことにおいてあらわになるのは、存在論的には死は〈そのつどわたしのものである〉という性格と、実存によって構成されているということ」であり、わたしが他者に代わって、あるいは他者がわたしに代わって、みずからのものでない死を経験することはできないのです。
 第2に、他者は死ぬことで、死体という「もの」となり、世界から抜け出し、もはやわたしがそれである現存在でないものに変化するように思えるかもしれません。あるいはこのように他者の身体が死体という「もの」、すなわち眼前存在となることが、わたしたちが死を客観的に認識するための手掛かりのように思えることもあるでしょう。他者が死ぬことで、他者は現存在ではなくなり、その身体は眼前存在者に変わったのであり、そのことによってわたしは他者の死をつうじて、何らかの死を経験できるのではないでしょうか。
 しかし他者の死体を眼前存在とみなそうとするこの考え方には大きな問題があります。他者の死体は、純粋な〈身体という事物〉ではないのであり、たんに眼前的に存在するものではないからです。それはまず生命を失ってしまってもはや生きていないものであり、手荒く扱われることを拒むものです。死体にもはや人格は存在しないとしても、その現存在だけに固有な唯一の人格をかつてそなえていたものであり、死体を事物のように扱うことは、かつてその身体に宿っていた人格を事物のように扱うことを意味します。わたしたちはいかなる死体にたいしても、それを事物のように扱うことはできないでしょう。
 そしてその死体はいまだ当人以外の他者の配慮の対象となっているものです。

Der >Verstorbene<, der im Unterschied zu dem Gestorbenen den >Hinterbliebenen< entrissen wurde, ist Gegenstand des >Besorgens< in der Weise der Totenfeier, des Begräbnisses, des Gräberkultes. Und das wiederum deshalb, weil er in seiner Seinsart >noch mehr< ist als ein nur besorgbares umweltlich zuhandenes Zeug. Im trauernd-gedenkenden Verweilen bei ihm sind die Hinterbliebenen mit ihm, in einem Modus der ehrenden Fürsorge. Das Seinsverhältnis zum Toten darf deshalb auch nicht als besorgendes Sein bei einem Zuhandenen gefaßt werden. (p.238)
「故人」はたんなる死者ではなく、「遺族」から引き離されたものであり、葬儀、埋葬、墓参りなどの形で行われる「配慮的な気遣い」の対象である。というのも、故人はその存在様式において、配慮的な気遣いの対象になるにすぎない環境世界の手元存在的な道具「より以上」のものだからである。遺族たちは哀悼しつつ、追憶しつつ故人のもとに佇むとき、敬虔な気持ちで顧慮的な気遣いをするという様態において、”故人と共同存在している”のである。だから死者に向かう存在関係を、手元的な存在者にたいして”配慮的な気遣い”をする存在とみなすことはできないのである。

 さらに死者の身体が葬儀の後に灰となった後にも、その灰は眼前的な存在者としての事物でも、手元的な存在者としての道具でもありません。それは死者の身体の名残として象徴的な意味をもつものです。墓や仏壇の位牌や故人の写真は、食べ物や飲み物を捧げられることが多いものであり、たんなる事物や道具とはまったく異なる意味をもつものです。人々が故人の思い出をもつかぎり、その故人は完全に死んだとは言えないのです。
 第3に、わたしたちは死者をこの世界から喪失することによって、たしかに大きな喪失感を味わいますが、その喪失感は、世界からその個人が失われたという喪失感であり、それは世界に残された者たちが、自分の世界に生まれた空虚に苦しめられる喪失感です。この喪失感は、死者が自身の死において経験するはずの喪失そのものとはまったく異なる性質のものです。わたしたちは死につつある人がこうむる存在の喪失そのものに接近することはできないのです。

 他者の死をそのものとして経験することができないことは、このようにさまざまな観点から指摘しうるものです。ハイデガーは、この他者の死の経験の不可能性を確認した上で、このような他者の死の経験を、現存在の完結性と全体性の存在論的な分析を補完するための主題として利用するというやり方には、根本的な欠陥があることを強調します。
 ただしこのような考え方が生まれたのは、それなりの根拠があることです。というのも、現存在の日常生活においては、ある人の代わりになること、ある人の代理になることが頻繁に行われているからです。

Zu den Seinsmöglichkeiten des Miteinanderseins in der Welt gehört unstreitig die Vertretbarkeit des einen Daseins durch ein anderes. In der Alltäglichkeit des Besorgens wird von solcher Vertretbarkeit vielfältig und ständig Gebrauch gemacht. Jedes Hingehen zu ..., jedes Beibringen von ... ist im Umkreis der nächstbesorgten >Umwelt< vertretbar. Die weite Mannigfaltigkeit vertretbarer Weisen des In-der-Welt-seins erstreckt sich nicht nur auf die abgeschliffenen Modi des öffentlichen Miteinander, sondern betrifft ebenso die auf bestimmte Umkreise eingeschränkten, auf Berufe, Stände und Lebensalter zugeschnittenen Möglichkeiten des Besorgens. (p.239)
世界のうちでの共同相互存在のさまざまな存在可能性のうちには、ある現存在を別の現存在で”代理させることができる”ということが含まれているのは、疑問の余地がない。配慮的な気遣いの日常性のうちでは、このような代理の可能性が多様に、そして不断に利用されている。身近に配慮的に気遣われている「環境世界」の領域においては、〈~に赴くこと〉とか〈~を持参すること〉は、どれも代理可能な行為である。世界内存在の代理可能なありかたは広範で、多様なものであり、公共的な相互性のありふれたありかたで頻繁にみられるだけでなく、職業、地位、年齢などにおうじて、特定の領域に限定された配慮的な気遣いの可能な領域においても、頻繁にみられることである。

 日常生活においては、代理可能な行為は多様です。会議には代理人を派遣することができるし、誰かのおつかいをすることも可能です。また大学生なら講義の出席を代理で済ませることもあるでしょうし、アルバイトを代わってもらうこともできるでしょう。代理は「職業、地位、年齢などにおうじて、特定の領域に限定された配慮的な気遣いの可能な領域においても、頻繁にみられること」であり、日常生活を円滑に行うためにはなくてはならないものとして、普段わたしたちも利用しているものです。

Solche Vertretung aber ist ihrem Sinne nach immer Vertretung >in< und >bei< etwas, das heißt im Besorgen von etwas. Das alltägliche Dasein versteht sich aber zunächst und zumeist aus dem her, was es zu besorgen pflegt. >Man ist< das, was man betreibt. Bezüglich dieses Seins, des alltäglichen Miteinanderaufgehens bei der besorgten >Welt<, ist Vertretbarkeit nicht nur überhaupt möglich, sie gehört sogar als Konstitutivum zum Miteinander. Hier kann und muß sogar das eine Dasein in gewissen Grenzen das andere >sein<. (p.239)
しかしこうした代理はその意味からしても、つねにあることに「おける」代理であり、あることの「もとでの」代理であり、何かを配慮的に気遣うことにおいて代理することである。ところで日常的な現存在は、さしあたりたいていは自分がいつも”何に”ついて配慮的な気遣いをしているその”何か”のほうから、自分を理解している。「ひと」は、自分が従事しているところのもので「”ある”」。このような存在については、すなわち配慮的に気遣われた「世界」において、日常的に相互に没頭しあっている存在においては、代理可能性は一般に可能であるだけでなく、相互性を構成する役割をはたすものですらある。”ここでは”ある現存在が特定の限度までは他の現存在で”「ある」”ことができるし、そうで”「ある」”のでなければならない。

 すでに指摘されてきたように、日常生活において現存在は、「さしあたりたいていは自分がいつも”何に”ついて配慮的な気遣いをしているその”何か”のほうから、自分を理解している」ような存在者です。このことは、その個人が誰であるかは、その人が社会でどのような地位を占めているかによって決まるところが大きいということを意味しています。
 ある人はこどもの父親としては、たとえば家の中で父親としての役割を演じ、ある女性の夫としての役割もこなします。仕事場では刀匠として、刀を作成する人物として振る舞い、またお茶会では、会の一員として他の仲間とともに茶の湯を楽しむ人間です。その人が自分は誰かと考えるときに、ある刀鍛冶であり、こどもの親であり、妻の夫であり、お茶好きの人間であると考えます。自己のアイデンティティはこうした地位と役割の集まりによって形成されることが多いものです。「〈ひと〉は、自分が従事しているところのもので〈”ある”〉」。
 このように現存在は日常生活においてさまざまなことを配慮的に気遣い、それから自分を理解して暮らしていますが、こうしたものは代理されうるものです。刀匠の役割も、父親の役割も、お茶の会員の役割も、すべて代理を派遣することで果たすこともできるものです。このように、「配慮的に気遣われた〈世界〉において、日常的に相互に没頭しあっている存在においては、代理可能性は一般に可能であるだけでなく、相互性を構成する役割をはたすものですら」あります。世界で生きるということは、このような共同相互存在の網の目のうちに生きるということなのです。
 ですから他者の死の経験によって、自己の死を経験すること、あるいは自己の死の経験について考察できるという考え方は、このような現存在の日常生活のありかたからして、ごく自然に生まれるものだということができます。
 しかしすでに考察したように、「存在論的には死は〈そのつどわたしのものである〉という性格と、実存によって構成されている」のであり、死において絶対的に問われる「各人に固有の現存在の存在」を、他者が身代わりすることはできません。誰かの身代わりに死ぬということについても、それはある事柄において死を迫られていた誰かの代わりに、その事柄において迫られていた死を引き受けるということにすぎません。身代わりによって、ある人がいますぐ死ぬことから免れることができたとしても、死すべき人間の身であることに変わりはなく、やがて訪れる自分の死から逃れることはできません。誰も自分の死を代理にさせることはできないのです。
 このように現存在にとっては、みずからの死は他者に代理させることのできないその人に固有の実存を明らかにするものです。その意味で死は、現存在の実存分析にとって非常に重要な意味をもつ出来事であり、ハイデガーはこのような実存的な出来事である死を手掛かりにして、「終わり」とは何かについて、現存在の全体性と存在の全体性について考察しようとするのです。

 このように死は、現存在という生き物に固有の実存的な出来事です。そしてハイデガーは、死ぬことができるのは人間だけであることを指摘し、現存在ではない生き物の死は落命という概念で区別します。

Ferner zeigte sich bei der Charakteristik des Übergangs vom Dasein zum Nichtmehrdasein als Nicht-mehr-in-der-Welt-sein, daß das Aus-der-Welt-gehen des Daseins im Sinne des Sterbens unterschieden werden muß von einem Aus-der-Welt-gehen des Nur-lebenden. Das Enden eines Lebendigen fassen wir terminologisch als Verenden. Der Unterschied kann nur sichtbar werden durch eine Abgrenzung des daseinsmäßigen Endens gegen das Ende eines Lebens. (p.240)
また、現存在が〈もはや世界内存在でない〉ものとなり、〈もはや現存在しないもの〉に移行する事態を特徴づけた際に明らかになったのは、”現存在”が死ぬという意味で〈世界の外に出ていく〉ことは、〈たんなる生き物〉が〈世界の外に出ていく〉こととは明確に区別しなければならないということだった。わたしたちは生き物が終わりを迎えることを「落命する」という用語で呼ぶことにする。この違いを明確にするには、現存在にふさわしい〈終わり〉と、生き物の〈終わり〉を対照させて境界を画定する必要がある。

 死は将来において訪れるものとして人間を襲うものです。もしも将来という時間の意識が存在しない場合には、死という観念は生まれることはないでしょう。動物は一般に時間意識をもたず、未来という時間がない生き物だとされています。そのような生き物には、死はただその瞬間に訪れるものであり、死に向かって何らかの態度をとることはないでしょう。現存在が実存という存在様態において、未来と過去という時間意識をもって生きているからこそ、現存在は死ぬことができるとハイデガーは考えるのです。それは世界をもつのは人間だけであると語るのと同じです。
 人間だけが実存する存在者であり、そのような実存するものとして初めて「死ぬ」ことができるようになります。そしてハイデガーは、この未来と過去の時間意識に基づいた死という観念を考察することによって、人間の実存の全体性を解明する手掛かりが手に入ると考えたのでした。


 今回は以上になります。次回もよろしくお願いします。

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