『存在と時間』を読む Part.75

  第71節 現存在の日常性の時間的な意味

 これまでの考察において、配慮的な気遣いの時間性が分析され、先駆的な決意性のもとで、本来的な時間性において生きる実存のありかたが考察されてきました。しかし現存在はつねに本来的な時間性のもとで生きているわけではありません。基礎存在論が考察したのは日常性における現存在であり、日常性においては現存在は多くの場合、頽落して生きています。わたしたちは世人の1人となって生きているのがつねであり、それが「日常」なのです。日常性とは、現存在がさしあたりたいていはそこに身を置いている存在様式なのであり、現存在の自己は世人自己なのです。
 ハイデガーはこのことを「さしあたりたいていは(>zunächst und zumeist<)」というこれまで常套的に使われてきた言葉のうちに込めています。

>Zunächst< bedeutet: die Weise, in der das Dasein im Miteinander der Öffentlichkeit >offenbar< ist, mag es auch >im Grunde< die Alltäglichkeit gerade existenziell >überwunden< haben. >Zumeist< bedeutet: die Weise, in der das Dasein nicht immer, aber >in der Regel< sich für Jedermann zeigt. (p.370)
「さしあたり」という語は、現存在がたとえ「根底において」日常性をすでに実存的に「克服して」しまっているとしても、公共性という共同相互性のうちで「明らかになる」ような生き方をしていることを指している。「たいていは」という語は、現存在がかならずしもつねにではないとしても、「原則として」すべての人に示されているありかたを意味している。

 「さしあたり」というのは、現存在が本来性と非本来性の2つの存在様態のあいだで、どっちつかずの生き方をしていることを示しています。完全に世人として頽落して生きている現存在が大多数であるとしても、一部の現存在は死への先駆によってみずからに固有の存在可能に直面しているかもしれません。しかしそうした目覚めた現存在もまた多くの時間においては日常の生活を送らざるをえないのであり、世人と調子を合わせて生きざるをえないのです。本来的な生に目覚めながらも、「さしあたりは」非本来的な生き方を送らざるをえません。これは「現存在がたとえ〈根底において〉日常性をすでに実存的に〈克服して〉しまっているとしても、公共性という共同相互性のうちで〈明らかになる〉ような生き方をしている」ことを意味します。
 さらに「たいていは」という言葉は、現存在のこうした日常性の克服は隠されたものであり、多くの場合は世人として生きている他の人々には、同じく世人の1人であるかのように生きているように振る舞っていることを示しています。

 現存在がこのように生きている日常性について、これまでの時間性の分析で十分に解明されたとは、すなわち日常性の実存論的な意味を画定することが成功したとはまだ言えません。大きな問題として、本来的に実存する存在様式において生きるのではなく、非本来的に頽落して生きているのが、現存在の「日常」であり「毎日」であるとすれば、現存在は頽落して生きているのが、実は本来的なありかたと言えるのではないでしょうか。これは頽落の問題が提起されたときから、本書の分析の背後にあって、分析を脅かしてきた問いなのです。この問いは解明するのが困難な問いです。発表されたかぎりの部分では、ハイデガーがこの問題をうまく解いているかはなんとも言えません。

 ハイデガーはこの節の最後で、実存論的で存在論的にみて重要な謎を抱えている日常性についてさらに考察するために、本書の第5章以下で考察される2つの問題を提起しています。第1の問題は日常性の背後に広がる長い既往の時間的な蓄積の問題、すなわち日常生活を送る現存在の歴史性の問題です。この問題を考察するための手掛かりとして、ハイデガーは時間的な”伸び広がり”という概念を提起します。

Haben wir bisher nicht ständig das Dasein auf gewisse Lagen und Situationen stillgelegt und >konsequent< mißachtet, daß es sich, in seine Tage hineinlebend, in der Folge seiner Tage >zeitlich< erstreckt? Das Einerlei, die Gewohnheit, das >wie gestern, so heute und morgen<, das >Zumeist< sind ohne Rückgang auf die >zeitliche< Erstreckung des Daseins nicht zu fassen. (p.371)
わたしたちはこれまで、現存在をたえず特定の状態や状況のうちにとどめておいたので、「その結果として」、現存在がその日その日を過ごしながら、その日々の延長のうちで「時間的な」”伸び広がり”を示すことを軽視してきたのではないだろうか。日常がいつも同じようなものであることも、習慣も、「昨日と同じように今日も明日も」ということも、「たいていは」ということも、これらのすべては現存在が「時間的に」伸びてゆくことを考慮にいれなければ、捉えられないのである。

 すべての現存在は誕生から死去にいたるまでの「〈時間的な〉”伸び広がり”」のうちで生きているのであり、1つの世代から次の世代へと、この「伸び広がり」が重なり合いながら継続して、人類史という長い歴史を構築しているのです。この問題は第5章「時間性と歴史性」において検討されることになります。
 第2の問題は、昔から現存在が時間を計測してきたという事実です。

Und gehört zum existierenden Dasein nicht auch das Faktum, daß es, seine Zeit verbringend, tagtäglich der >Zeit< Rechnung trägt und die >Rechnung< astronomisch-kalendarisch regelt? Erst wenn wir das alltägliche >Geschehen< des Daseins und das von ihm in diesem Geschehen besorgte Rechnen mit der >Zeit< in die Interpretation der Zeitlichkeit des Daseins einbeziehen, wird die Orientierung umfassend genug, um den ontologischen Sinn der Alltäglichkeit als solcher zum Problem machen zu können. (p.371)
また実存している現存在は、みずからの時間を過ごしながら、毎日のように「時間」を計算にいれているということ、そしてその「計算」を天文学的および暦法的に規制しているということもまた、現存在の事実なのではないだろうか。わたしたちは、現存在の日常的な「生起」と、この生起において現存在が配慮的に気遣っている「時間」の計算も、現存在の時間性の解釈の中に取りいれるべきではないのだろうか。これを取りいれてこそ初めて、日常性そのものの存在論的な意味を問題にしうる広範な手掛かりを手にすることができるのではないだろうか。

 このように計測された時間が、公共的な時間を作りだしているのであり、この公共的な時間と現存在の実存の関係についても考察する必要があるでしょう。この問題は第6章「時間性、ならびに通俗的な時間概念の根源としての時間内部性」において検討されることになります。
 これらの2つの問題は、現存在の歴史性を解明するために必須の手続きとなるでしょう。


 以上で第71節が終わり、第2篇第4章「時間性と日常性」が完了しました。第2篇第3章と第4章にあたる第61節から第71節までが、光文社古典新訳文庫『存在と時間』の第7分冊の内容になります。

 第3章では、現存在の本来的な存在可能であり、実存的なありかたを示す「決意性」と、現存在の死に臨む存在というありかたを示す「先駆」という2つの現象を結びつけることができるのは、現存在の時間性であることが、これまでの現存在の存在論的な分析をたどり直すことによって示されました。
 第4章では、現存在の開示性が示される構造としての理解、情態性、頽落、語りという現象について、通俗的で静的な時間性の概念とは異なる根源的で動的な時間性の概念という観点から考察され、将来、既往、現在化という本来的な時間概念が取り出されました。

 次回からは第2篇第5章に入ります。またよろしくお願いします。

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