『存在と時間』を読む Part.11

 第2章 現存在の根本機構としての世界内存在一般

  第12節 内存在そのものに基づいた世界内存在の素描

Dasein ist Seiendes, das sich in seinem Sein verstehend zu diesem Sein verhält. Damit ist der formale Begriff von Existenz angezeigt. Dasein existiert. Dasein ist ferner Seiendes, das je ich selbst bin. Zum existierenden Dasein gehört die Jemeinigkeit als Bedingung der Möglichkeit von Eigentlichkeit und Uneigentlichkeit. Dasein existiert je in einem dieser Modi, bzw. in der modalen Indifferenz ihrer. (p.52)
現存在とは、みずからの存在において、存在するということを理解しつつ、その存在にかかわっている存在者のことである。これが実存の形式的な概念である。現存在は実存する。現存在はさらに、そのつどわたし自身であるような存在者である。このように実存する現存在には、各私性という性格がそなわっていて、これが本来性と非本来性を可能にする条件となっている。現存在はそのつど、これら2つのいずれかの様態において実存しているか、あるいはこれらの様態がどちらとも区別されない様態において実存しているのである。

 これまでの導入部分を終えて、この節からハイデガーの現存在分析が本格的にはじまります。まずはすでに確認された現存在の存在性格が示されます。各私性や本来性、非本来性については、第9節で登場していましたが(Part.8参照)、ここでは「どちらとも区別されない様態」 >modalen Indifferenz< というのが出てきます。実はこれが平均的な日常性のことなのであり、したがって分析するべき現存在は、本来性と非本来性の狭間にあるということになります。
 しかし、第9節では次のように言われていました。「こうした平均的な日常性のうちにも、いやまさにこの非本来性の様態のうちにすら、実存性の構造がアプリオリに存在しているのである」。この文ではハイデガーは、平均的な日常性が非本来性の様態であると述べています。結局のところ、平均的な日常性とは、非本来的なありかたなのか、それとも本来性と非本来性の狭間のありかたなのか、ここではわかりかねます。
 この点のヒントになるのが、『存在と時間』の執筆と同時期の講義『論理学』にあります。そこでの議論では、本来性と非本来性という様態が、真正性と非真正性という様態と交差すると語られているのです。これはつまり、本来的なありかたには「真正な本来性」と「非真正な本来性」があり、非本来的なありかたについても「真正な非本来性」と「非真正な非本来性」があるということを意味します。そしてこの4つのありかたの交差したところに、差異のない平均的な日常性があると、このように考えることができるでしょう。しかし、この4つのありかたがどのようなものであるかは、少なくとも『存在と時間』においてははっきりしません。たしかにハイデガーは平均的な日常性が非本来性の様態であると述べていますが、ここでは完全に自己を忘却した非本来的なありかたと捉えるのではなく、本来的なありかたではない様態というように捉えるのが良いかもしれません。
 とにかく現存在は、多くの場合、こうしたどっちつかずのありかたで存在しているのです。上に示された現存在について、次のように言われます。

Diese Seinsbestimmungen des Daseins müssen nun aber a priori auf dem Grunde der Seinsverfassung gesehen und verstanden werden, die wir das In-der-Welt-sein nennen. Der rechte Ansatz der Analytik des Daseins besteht in der Auslegung dieser Verfassung. (p.53)
ここに示した現存在の存在規定は、わたしたちが"世界内存在"と呼ぶ存在機構に基づいて、アプリオリに眺められ、理解されるべきものである。現存在の分析論の真の出発点は、この存在機構を解釈することにある。

 「世界内存在」は現存在分析の真の出発点であり、現存在の存在機構だと言われます。存在機構と訳した語は >Seinsverfassung< で、この語は>Sein< と >Verfassung< がくっついたものになっています。>Sein< は「存在」です。そして >Verfassung< は「憲法、(心身の)状態」を意味するものとなっていますが、この文脈においてはどうにも訳しづらい語となっています。
 「存在機構」 >Seinsverfassung< は、「存在様式」と訳す >Seinsart< や「存在様態」と訳す >Seinsmodi< とは異なる概念として提起されています。存在様式については、現存在の存在である実存と、事物の存在である眼前存在との異なりについての文脈で使用されますが、存在様態は、最初の引用にも >Modi< という語がみられるように、本来性と非本来性の文脈で使用されることがあります。それに対して「存在機構」は、「世界内存在」を示すために使用される語であり、現存在についての全体的で根本的な組織を指すものとなっています。Part.8で載せた、ハンドアウトを覚えていますでしょうか。>In-der-Welt-sein< は、現存在について最初に位置する概念であることがあの図から見て取ることができるでしょう。「世界内存在」は、現存在の「存在の憲法」(Seinsverfassung)と表現されるほどに重要な概念なのです。

 ハイデガーは、この世界内存在という存在機構からは、3つの契機を取り出すことができる言います。

1. Das >in der Welt<; in bezug auf dieses Moment erwächst die Aufgabe, der ontologischen Struktur von >Welt< nachzufragen und die Idee der Weltlichkeit als solcher zu bestimmen (vgl. Kap. 3 d. Abschn).

2. Das Seiende, das je in der Weise des In-der-Welt-seins ist. Gesucht wird mit ihm das, dem wir im >Wer?< nachfragen. In phänomenologischer Aufweisung soll zur Bestimmung kommen, wer im Modus der durchschnittlichen Alltäglichkeit des Daseins ist (vgl. Kap. 4 d. Abschn).

3. Das In-Sein als solches; die ontologische Konstitution der Inheit selbst ist herauszustellen (vgl. Kap. 5 d. Abschn). (p.53)
第1の契機は、"「世界内」"ということである。この契機との関連から、「世界」の存在論的な構造を問い求め、"世界性"そのものの理念を規定する課題が生まれる(第1篇第3章参照)。

第2の契機は、つねに世界内存在というありかたで存在する"存在者"である。この存在者について、わたしたちが「誰か?」という問いによって問い求めるものが探究される。現存在の平均的な日常性という様態で存在する者は誰なのかを、現象学的に提示しながら規定する必要がある(第1篇第4章参照)。

第3の契機は、"内存在"そのものである。内にあることそのものの存在論的な構成を解明する必要がある(第1篇第5章参照)。

 世界内存在は、3つの契機から考察することができるとされ、それらは「世界内」「存在者」「内存在」とされます。「世界内存在」は、>In-der-Welt-sein< を訳したものですが、このうち「世界内」は >In-der-Welt< の部分を、「存在者」は >sein< の部分、「内存在」は >In-sein< の部分を組み合わせたものとなっていると考えられます。
 「世界内」という契機については、世界に重点を置きながら、同時に世界のうちに生きる現存在という存在者がどのように存在しているのかを考察することが重要な課題となります。この視点からは、「"世界性"そのものの理念を規定する課題が生まれる」とされます。
 「存在者」という契機については、世界のうちで存在する存在者、すなわち現存在とは誰なのかという問いを考察することが課題となります。「現存在の平均的な日常性という様態で存在する者は誰なのかを、現象学的に提示しながら規定する」ことが目標として提示されています。
 「内存在」という契機については、世界のうちで存在する現存在について、そのように存在することがどういうことなのかを考察することになります。これは「内にあることそのものの存在論的な構成を解明する」ものです。
 『存在と時間』の第1篇は、その大部分がこれら3つの契機の考察にあてられることになります。しかしハイデガーは、現存在のアプリオリな存在機構としての世界内存在をこのように重視しつつも、この機構だけでは現存在の存在を完全に規定するにはまったく不十分であると述べています。というのも、世界内存在は現存在の日常性に注目して考察されますが、現存在はこうしたありかただけではなく、自己に固有の可能性に立ち戻った「本来的な」ありかたで存在することも可能な存在だからです。ハイデガーの想定では、こうした本来性の可能性をもたらすのが「時間性」であり、それが第2篇で考察される予定だったものでした。第1篇で語られた日常性からの覚醒の可能性についての考察が、第2篇の課題だったと言えるでしょう。

 ハイデガーは、3つの現象を主題として個別に分析するに先立って、まずは内存在の契機に注目して、導入的に性格づけを行っています。

Was besagt In-Sein? Den Ausdruck ergänzen wir zunächst zu In-Sein >in der Welt< und sind geneigt, dieses In-Sein zu verstehen als >Sein in ...<. Mit diesem Terminus wird die Seinsart eines Seienden genannt, das >in< einem anderen ist wie das Wasser >im< Glas, das Kleid >im< Schrank. Wir meinen mit dem >in< das Seinsverhältnis zweier >im< Raum ausgedehnter Seienden zueinander in bezug auf ihren Ort in diesem Raum. (p.53)
"内存在"とはどういうことだろうか。わたしたちはさしあたりこの表現を補って、「世界のうちで」の内存在であると考え、内存在とは「何かのうちにあること」であると理解しがちである。この「うちにある」という用語が示しているのは、グラスの「うちにある」水とか、タンスの「うちにある」衣服のように、他の存在者の「うち」にある存在者の存在様式のことである。わたしたちがこの「うち」という表現で考えるのは、空間の「うち」で広がりをもって存在している2つの存在者が、この空間のそれぞれの場所においてたがいに関係をもって存在している状態である。

 ハイデガーは内存在を独自の意味で用いますが、この概念が内存在ということで一般的に思い浮かべられる「うちにある」ということとは異なるものであることを示します。
 何かの中に別の何かがある、ということで、わたしたちは「うちにある」というように述べることができます。それがグラスのうちにある水だとか、タンスのうちにある衣服という表現であり、このときに考えられているのが、「空間の<うち>で広がりをもって存在している2つの存在者が、この空間のそれぞれの場所においてたがいに関係をもって存在している状態」です。このありかたの特徴は、次の3点にまとめることができるでしょう。
 第1点目としては、「うちにある」とは、より大きな空間のうちに含まれるように存在することです。上記の例ですと、タンスというより大きな空間の中の衣服についてこれが言えます。これはあるものが別のもののうちに存在するための「空間内存在条件」と呼べます。
 第2点目としては、2つの事物が占める空間の大きさにかかわりなく、これらの空間がさらに大きな空間のうちで、たがいに同質なものとして併存していることです。タンスが占める空間と衣服が占める空間では大きさが異なりますが、これらの事物はその両方を含むようなさらに大きな空間の「うちにある」と言えます。こうしたさらに大きな空間のうちで、2つの事物は併存しているのです。これは「空間内併存条件」と呼べます。
 第3点目としては、この2つ事物は眼前存在していることです。2つの事物が空間の「うちにある」と言えるためには、タンスと衣服は同じ資格、同じ存在性格をそなえたものとして現存在に眺められることになります。これは「眼前存在条件」と呼べるでしょう。

Diese Seienden, deren >In<-einandersein so bestimmt werden kann, haben alle dieselbe Seinsart des Vonrhandenseins als >innerhalb< der Welt vorkommende Dinge. Das Vorhandensein >in< einem Vorhandenen, das Mitvorhandensein mit etwas von derselben Seinsart im Sinne eines bestimmten Ortsverhältnisses sind ontologische Charaktere, die wir kategoriale nennen, solche, die zu Seiendem von nicht daseinsmäßiger Seinsart gehören. (p.54)
たがいに「うちに」あるこれらの存在者は、世界の「内部に」現れるものとして、どれも眼前存在という同じ存在様式をそなえている。眼前存在すると規定できるものの「うちに」眼前存在すること、同じ存在様式をそなえたものとともに眼前存在すること、特定の位置関係という意味でこのように語られる存在関係は、わたしたちが"カテゴリー的"と呼ぶ存在論的な性格であり、これは現存在にふさわしくない存在様式をそなえた存在者の存在論的な性格なのである。

 上記の3つの特徴をもつ「うちにある」ということは、「わたしたちが"カテゴリー的"と呼ぶ存在論的な性格」だと言われています。ハイデガーは、存在様式の違いによって、2つのカテゴリーを設けていたのを覚えておりますでしょうか。1つが眼前存在者に適用される「カテゴリー」であり、もう1つが現存在に適用される「実存カテゴリー」でした(Part.8参照)。ここでハイデガーが「カテゴリー的」と指摘しているのは、「うちにある」ということで捉えられる存在者が、眼前存在者であるということを示しています。これに対して現存在は実存しますから、「これは現存在にふさわしくない存在様式をそなえた存在者の存在論的な性格なのである」と言われることになります。このように、「うちにある」ということは、眼前存在者に適用される表現であるということが主張されており、現存在の存在機構の契機である内存在とは異なることが指摘されます。

 内存在について、少々長いですが引用します。

In-Sein dagegen meint eine Seinsverfassung des Daseins und ist ein Existenzial. Dann kann damit aber nicht gedacht werden an das Vorhandensein eines Körperdinges (Menschenleib) >in< einem vorhandenen Seienden. Das In-Sein meint so wenig ein räumliches >Ineinander< Vorhandener, als >in< ursprünglich gar nicht eine räumliche Beziehung der genannten Art bedeutet; >in< stammt von innan-,wohnen, habitare, sich aufhalten; >an< bedeutet: ich bin gewohnt, vertraut mit, ich pflege etwas; es hat die Bedeutung von colo im Sinne vo habito und diligo. Dieses Seiende, dem das In-Sein in dieser Bedeutung zugehört, kennzeichneten wir als das Seiende, das ich je selbst bin. Der Ausdruck >bin< hängt zusammen mit >bei<; >ich bin< besagt wiederum: ich wohne, halte mich auf bei ... der Welt, als dem so und so Vertrauten. Sein als Infinitiv des >ich bin<, d.h. als Existenzial verstanden, bedeutet wohnen bei ..., vertraut sein mit ... In-Sein ist demnach der formale existenziale Ausdruck des Seins des Daseins, das die wesenhafte Verfassung des In-der-Welt-seins hat. (p.54)
これに対して内存在は、現存在の存在機構であり、"実存カテゴリー"の1つである。そのため内存在ということで、ある物体的なもの(人間の身体)が、ある眼前的な存在者の「うち」に、眼前存在しているような事態を考えることはできない。内存在とは、複数の眼前的な存在者が、空間的な意味で、「たがいのうちにある」ことを意味することはありえないし、「内」は根源的には、このような意味での空間的な関係を示すことはありえないのである。「内」は、インナンという語から派生した語である。このインナンとは<住む><居住すること>(ハビターレ)や<滞在すること>を意味する。また<において>(アン)という語は、<わたしは慣れている><わたしは馴染んでいる><わたしは何かを世話している>ことを意味する。このためハビトー(わたしは住む)とかディリゴー(わたしは愛する)という意味でのコロー(わたしは世話する)という語義をそなえているのである。このような意味での内存在をそなえた存在者を、わたしたちはそのつどわたし自身である(ビン)存在者として性格づけたのである。わたしがいることを示すこの「ビン」という語は、「~のもとに」(バイ)と関係がある。「わたしがいる」(イヒ・ビン)とはここでも、<このようにして馴染んでいる世界のうちに・・・わたしは住んでいる、滞在している>ということなのである。「わたしがいる(イヒ・ビン)」の不定法としての「存在すること」(ザイン)は、実存カテゴリーとして理解すれば、<~のもとに住む>とか<~と馴染んでいる>を意味する。"このように内存在とは、世界内存在を本質的な機構とする現存在の存在を、形式的に実存論的に表現したものである"。

 「うちにある」ということがカテゴリー的なのに対して、「内存在は、現存在の存在機構であり、"実存カテゴリー"の1つ」です。これを先の3つの条件について比較しながら、内存在の特徴を見てみましょう。
 第1点目は、「空間内存在条件」でした。実存カテゴリーが適用される現存在は、単に空間の「うちにある」ことはありません。現存在が空間のうちに存在するとしても、事物のようにでは決してなく、「住む」とか「馴染んでいる」「世話をする」といった様態で存在します。わたしたちが部屋の中にいるということは、ある空間座標上の1点において特定できるというようなことではなく、その部屋に住むとか馴染んでいるというようなことを指しているでしょう。
 ハイデガーは、事物の「うちにある」というありかたをすることと対比して、このような現存在のありかたを「~のもとに(バイ)」存在することと呼びます。上記の引用では、「このような意味での内存在をそなえた存在者を、わたしたちはそのつどわたし自身である(ビン)存在者として性格づけたのである。わたしがいることを示すこの<ビン>という語は、<~のもとに>(バイ)と関係がある」と言われています。これは日本語訳だととてもわかりにくい説明なのですが、原文を読むと次のようなことが言われているのがわかります。
 ドイツ語では、「わたしは存在する」ということを表現する際、「存在する」という動詞 >sein< を人称変化させて用います。>sein< は1人称(わたし)の語である >ich< と2人称(君)の語である >du< が主語の場合は、>ich bin< >du bist< と変化しますが、3人称の語 >er/sie/es< が主語の場合は、>es ist< というように変化します。1人称と2人称は、わたしにとって親しい人間の場合に使われる語であり、3人称は第3者や事物に対して使用される語となっています。ハイデガーは、1人称と2人称の際の >sein< の変化形である >bin< と >bist< の「ビ」の音に注目して、これが「~のもとに」を意味する >bei<(バイ) から派生したものだと指摘しているのです。「わたしが存在する」や「君が存在する」という表現は、単に空間に事物のように存在する(>ist<)ということではなく、「このようにして馴染んでいる世界のうちに・・・わたしは住んでいる、滞在している」ことを指す言葉なのです。このように、実存カテゴリーとしての「内存在」は、「うちにある」とは異なり、「<~のもとに住む>とか<~と馴染んでいる>」という特別な意味をそなえているのがわかるでしょう。
 第2点目は、「空間併存条件」でした。事物的な存在者にはそれが適用されるものの、現存在にはそうはいきません。ある空間に2人の現存在がいるとしても、2人が同じ資格でそこにいるわけではないからです。ある人はその部屋のホストかもしれませんし、ある人はゲストかもしれません。また2人がたまたま同様に部屋にいるとしても、やはりその空間にふさわしい態度をとることが求められるでしょう。このようにすべての現存在は、どこに存在するときにも、そのつどわたし自身である存在者として適した態度で存在しているのです。
 第3点目は「眼前存在条件」でした。現存在は眼前的な存在者のように、世界のうちに眼の前に存在するというありかたで存在することはできません。現存在は事物とは違って、そこに住む者として、そこに馴染んでいる者としてふるまうでしょう。このことをハイデガーは、「空間のうちにある」のではなく、「世界の<もとに存在すること>」と表現します。

 実存カテゴリーとしてみると、こうした世界の「もとに存在すること」は、そこに登場する事物が<ともに並んで存在すること>を意味するのでは決してありません。ところで普段、わたしたちは事物的な存在者に対して「椅子が壁に<ふれあって>ある」とか、「机がドアの<もとに>ある」などと表現することがあります。この現象について、ハイデガーは以下のように述べます。

Voraussetzung dafür wäre, daß die Wand >für< den Stuhl begegnen könnte. Seiendes kann ein innerhalb der Welt vorhandenes Seiendes nur berühren, wenn es von Hause aus die Seinsart des In-Seins hat - wenn mit seinem Da-sein schon so etwas wie Welt ihm entdeckt ist, aus der her Seiendes in der Berührung sich offenbaren kann, um so in seinem Vorhandensein zugänglich zu werden. Zwei Seiende, die innerhalb der Welt vorhanden und überdies an ihnen selbst weltlos sind, können sich nie >berühren<, keines kann >bei< dem andern >sein<. (p.55)
椅子が壁に<ふれあう>ことができるためには、壁が椅子に「とって」、"出会う"ことができるものであることが前提となるだろう。ある存在者が世界の内部で眼前的に存在している他の存在者と<ふれあう>ことができるのは、その存在者が最初から内存在という存在様式において存在している場合に限られる。すなわちそれが現に存在しているものとともに、何か世界のようなものがすでにその存在者に対して発見されており、その世界のうちから存在者が<ふれあう>ようにみずからをあらわに示し、そうすることでそれの眼前存在に近づくことができるようになっている場合に限られるのである。世界の内部で眼前的に存在し、しかもそれ自体において"無世界的"に存在しているような2つの存在者は、たがいに「ふれあう」ことは決してできないし、一方が他方の"「もとに」"、"「存在している」"こともありえないのである。

 わたしたちが「椅子が壁に<ふれあって>ある」とか表現することはできるとしても、厳密にはそうしたことは不可能であるとハイデガーは言います。椅子が壁に接触しているようにみえるとしても、そうした事態は「ふれる」という言葉で表現するべきではないのです。というのも、あるものが他のものに「ふれる」ことができるのは、他のものに「出会う」ことができる場合に限られるのであり、そのような「出会い」とか「ふれあい」という関係を築くことができるのは、世界のうちに内存在する現存在だけであると考えるからです。
 ここでハイデガーによれば、眼前存在者について、「"無世界的"に存在している」という補足がどうしても必要であるとされます。無世界的ではない存在者、すなわち現存在であっても、世界のうちで眼前的に存在しているからであり、厳密にいえばある限界において、単に眼前存在するものとして把握することが可能であるからです。たとえば、戦争において人間が事物のように扱われることがある場合などです。現存在を眼前存在するものとみなすためには、内存在の実存論的な機構からまったく目を逸らすか、それを無視することが必要になりますが、人間を事物として把握することはある程度は可能ではあるのです。

Mit dieser möglichen Auffassung des >Daseins< als eines Vorhandenen und nur noch Vorhandenen darf aber nicht eine dem Dasein eigene Weise von >Vorhandenheit< zusammengeworfen werden. Diese Vorhandenheit wird nicht zugänglich im Absehen von den spezifischen Daseinsstrukturen, sondern nur im vorherigen Verstehen ihrer. Dasein versteht sein eigenstes Sein im Sinne eines gewissen >tatsächlichen Vorhandenseins<. Und doch ist die >Tatsächlichkeit< der Tatsache des eigenen Daseins ontologisch grundverschieden vom tatsächlichen Vorkommen einer Gesteinsart. Die Tatsächlichkeit des Faktums Dasein, als welches jeweilig jedes Dasein ist, nennen wir seine Faktizität. Die verwickelte Struktur dieser Seinsbestimmtheit ist selbst als Problem nur erst faßbar im Lichte der schon herausgearbeiteten existenzialen Grundverfassungen des Daseins. Der Begriff der Faktizität beschließt in sich: das In-der-Welt-sein eines >innerweltlichen< Seienden, so zwar, daß sich dieses Seiende verstehen kann als in seinem >Geschick< verhaftet mit dem Sein des Seienden, das ihm innerhalb seiner eigenen Welt begegnet. (p.55)
「現存在」をこのようにある種の眼前的な存在者として、ただ眼の前にあるように存在するだけのものとして把握することが可能であるからといって、そのことが可能であることを、現存在に"固有な"「眼前性」のありかたと混同してはならない。この眼前性には、現存在だけに特殊な構造から目を逸らすことによってではなく、こうした特殊な構造をあらかじめ了解することによってでなければ、近づくことはできないのである。すなわち現存在はみずからに最も固有な存在を、ある意味では「実際に眼前存在するもの」という意味で了解しているのである。しかしみずからの現存在が実際にそうであるという意味でのこの「実際のありかた」は、存在論的にみるならば、ある種の岩石が実際に眼の前にある場合とは根本的に異なるのである。それぞれの現存在がそのつどそのように存在しているという意味で、現存在という事実が実際にそうしたありかたをしていることを、現存在の"事実性"と呼ぶことにしよう。この存在規定は、きわめて複雑な構造をそなえているものであり、まず現存在の実存論的な根本機構を浮き彫りにしておいて、その根本機構という光のもとで眺めなければ、この複雑な構造を"問題として"捉えることはできないのである。この事実性の概念のうちには、「世界内部的な」存在者の世界内存在が含まれている。その際にこの存在者はその「運命」において、みずからの世界の内部で出会う存在者の存在としっかりと結びつけられているものとして、みずからを理解しうるのである。

 ハイデガーは、現存在が眼前的な存在者のように把握されることはありえるけれども、そのことを「現存在に"固有な"<眼前性>のありかた」と混同してはならないと言います。現存在を事物としてみることは、現存在の実存論的な機構を無視することによって可能になるのでした。これに対して「この眼前性には、現存在だけに特殊な構造から目を逸らすことによってではなく、こうした特殊な構造をあらかじめ了解することによってでなければ、近づくことはできない」のだと言われています。「現存在はみずからに最も固有な存在を、ある意味では<実際に眼前存在するもの>という意味で了解している」というのが示しているように、現存在は内存在という実存カテゴリーが適用可能な存在者ではありますが、それと同時に眼前存在のありかたをしている面もあるというのです。「しかしみずからの現存在が実際にそうであるという意味でのこの<実際のありかた>は、存在論的にみるならば、ある種の岩石が実際に眼の前にある場合とは根本的に異なる」と述べられているとおり、同じ眼前存在でも、現存在のそれは事物のそれとは異なる固有な眼前性を有しているのです。このような現存在に固有の眼前性は、「事実性」と呼ばれます。
 後の節で説明されることになりますが、ハイデガーは、この2つの眼前存在のありかたについて、現存在に適用される実存カテゴリーとしての「事実性」と、現存在ではない存在者に適用されるカテゴリーとしての「実際のありかた」を区別します。眼前存在について語られる「実際のありかた」は、客観的な事実として確認できる事態というように提起されますが、これに対して「事実性」は、「それぞれの現存在がそのつどそのように存在しているという意味で、現存在という事実が実際にそうしたありかたをしていること」として提起されます。しかし「事実性」と「実際のありかた」については、この節ではあまり説明されていません。ここでは、「この存在規定は、きわめて複雑な構造をそなえているものであり、まず現存在の実存論的な根本機構を浮き彫りにしておいて、その根本機構という光のもとで眺めなければ、この複雑な構造を"問題として"捉えることはできない」ことが指摘されるにとどめられます。そして、上記の引用に登場する「運命」ということについては、この段階ではまだほのめかされているにすぎません。これについても後に語られることになります。

 これまで語られたことから察することができるように、内存在は実存カテゴリーであり、眼前的な存在者どうしの「うちにある」ということはカテゴリーです。そしてこの「うちにある」ということは「内部性」と呼ばれます。注意しなければならないのは、内存在を内部性から区別したとしても、現存在には何らの「空間性」もないということにはならないということです。眼前性と同様に、現存在にはそれに固有の空間性がそなわっているのですが、これについても、世界内存在一般に基づいてしか可能にならないのだと言われます。世界内存在を現存在の本質的な構造として了解しない限り、現存在の実存論的な空間性を洞察することはできないのです。

 さて、世界内存在の3つの構造契機は、「世界内」「存在者」「内存在」でした。ここまで説明されてきたこと振り返ってみると、これらの契機について、事物的な存在者に適用されるカテゴリーと、現存在に適用される実存カテゴリーを対比して検討されてきたことがわかります。「内存在」については、事物的な存在者については「内部性」のカテゴリーが提示され、現存在については「内存在」の実存カテゴリーが提起されました。そして後に詳しく説明されることになりますが、「実際のありかた」というカテゴリーと、「事実性」という実存カテゴリーは、「世界内」という契機についてあてはまるものとなっています。この節でハイデガーは、3つの契機のうちの内存在に注目して考察を進めると断っていましたが、世界内存在という機構を構成するどの契機をとりあげても、残りの2つの契機がかかわり、そのつど全体の現象を眺めることになります。だから、これら3つの契機が個々の契機として完全に独立して語られることはできないのです。「内存在」に注目しているなかで、「世界内」の考察の領域に入っていったのは、このような世界内存在の性格ゆえなのです。

Das In-der-Welt-sein des Daseins hat sich mit dessen Faktizität je schon in bestimmte Weisen des In-Seins zerstreut oder gar zersplittert. Die Mannigfaltigkeit solcher Weisen des In-Seins läßt sich exemplarisch durch folgende Aufzählung anzeigen: zutunhaben mit etwas, herstellen von etwas, bestellen und pflegen von etwas, verwenden von etwas, aufgeben und in Verlust geraten lassen von etwas, unternehmen, durchsetzen, erkunden, befragen, betrachten, besprechen, bestimmen ... (p.56)
現存在の世界内存在は、その事実性によって、そのつどすでに内存在の特定のありかたのうちに分散され、寸断されている。内存在のこうした多様なありかたは、次のような実例によって模範的に示すことができる。たとえば、<何かと関係をもつ><何かを作りだす><何かを整理し、手入れする><何かを使用する><何かを捨て去り、失う><企てる><やりとげる><探す><問い掛ける><考察する><論じあう><規定する>などである。

 「世界内」と「内存在」の契機については、「現存在の世界内存在は、その事実性によって、そのつどすでに内存在の特定のありかたのうちに分散され、寸断されている」という表現にまとめられています。
 それではもう1つ契機である「存在者」についてはどうでしょうか。上記の引用文に続けて次のように述べられます。

Diese Weisen des In-Seins haben die noch eingehend zu charakterisierende Seinsart des Besorgens. Weisen des Besorgens sind auch die defizienten Modi des Unterlassens, Versäumens, Verzichtens, Ausruhens, alle Modi des >Nur noch< in bezug auf Möglichkeiten des Besorgens. (p.57)
これらの内存在のありかたは、"配慮的に気遣う"という存在様式にあり、これについてさらに詳細に特徴づける必要がある。この配慮的に気遣うというありかたには。その"欠如的な"様態として、<やめる><怠る><諦める><休む>などの様態もあるし、さらにさまざまな配慮の可能性との関連で、「わずかにただ~するだけ」という様態もある。

 <何かを使用する>のような積極的な意味も、<やめる>のような欠如的な意味も、「"配慮的に気遣う"という存在様態」にあると言われています。実はこの「配慮的な気遣い」という表現が、「存在者」にあたる実存カテゴリーになります。

Gegenüber diesen vorwissenschaftlichen, ontischen Bedeutungen wird der Ausdruck >Besorgen< in der vorliegenden Untersuchung als ontologischer Terminus (Existenzial) gebraucht als Bezeichnung des Seins eines möglichen In-der-Welt-seins. Der Titel ist nicht deshalb gewählt, weil etwa das Dasein zunächst und in großem Ausmaß ökonomisch und >praktisch< ist, sondern weil das Sein des Daseins selbst als Sorge sichtbar gemacht werden soll. Dieser Ausdruck ist wiederum als ontologischer Strukturbegriff zu fassen (vgl. Kap. 6 d. Abschn.). Der Ausdruck hat nichts zu tun mit >Mühsal<, >Trübsinn< und >Lebenssorge<, die ontisch in jedem Dasein vorfindlich sind. Dergleichen ist ontisch nur möglich ebenso wie >Sorglosigkeit< und >Heiterkeit<, weil Dasein ontologisch verstanden Sorge ist. Weil zu Dasein wesenhaft das In-der-Welt-sein gehört, ist sein Sein zur Welt wesenhaft Besorgen. (p.57)
これらの例は、前学問的で存在者的な語義であるが、これらとは対照的に以下の探究ではこの「配慮的な気遣い」という表現を存在論的な用語として、すなわち実存カテゴリーとして使うのであり、その場合には世界内存在に可能な何らかの存在のありかたを示すために使うのである。この語を選んだのは、現存在がさしあたりは、そしてほとんどの場合には実利的で「実践的」に存在しているからではなく、現存在の存在そのものが"気遣い"としてあることを示したいからである。この気遣いという表現も、存在論的な構造概念として把握する必要がある(本書の第6章を参照されたい)。この語は、どの現存在のうちにも存在者的にみいだされる「辛苦」「憂愁」「生の心配」などとはまったくかかわりがない。これらの語が存在者的に可能となるのは、そして「苦労知らず」や「陽気さ」などの語が可能となるのは、現存在が"存在論的に"理解するならば、気遣いだからである。現存在は、その本質からして世界内存在であるから、世界にかかわるその存在のしかたは本質的に、<配慮的な気遣い>なのである。

 配慮的な気遣いと訳す >Besorgen< という語の根本にあるのは >Sorge< という語であり、これは「気遣い」と訳されます。この概念こそが最も根本的な「存在論的な構造概念」であり、さらに詳細に検討されるべきものとなっています。というのも、「現存在の存在そのものが"気遣い"」であるというのが、ハイデガーが主張するところであるからであり、現存在の存在の意味はここに着地することになるからです。また、「存在者」という契機については、「現存在は、その本質からして世界内存在であるから、世界にかかわるその存在のしかたは本質的に、<配慮的な気遣い>なのである」と言われます。わたしたちは配慮的に気遣うという様態で存在する存在者なのです。ただしここでは「配慮的な気遣い」についても、「気遣い」についても、立ち入った考察は差し控えられており、これらについての詳細な考察は後の節を待つこととなります。

 ここでハイデガーは、世界内存在の概念に立ち戻って、これまでの伝統的な世界概念に含まれていた問題点について、さらにその当時に注目されていた「環境世界」の概念と、本書における「世界」の概念の違いについて考察しようとしています。

Die heute vielgebrauchte Rede >der Mensch hat seine Umwelt< besagt ontologisch solange nichts, als dieses >Haben< unbestimmt bleibt. Das >Haben< ist seiner Möglichkeit nach fundiert in der existenzialen Verfassung des In-Seins. Als in dieser Weise wesenhaft Seiendes kann das Dasein das umweltlich begegnende Seiende ausdrücklich entdecken, darum wissen, darüber verfügen, die >Welt< haben. Die ontisch triviale Rede vom >Haben einer Umwelt< ist ontologisch ein Problem. Es lösen, verlangt nichts anderes, als zuvor das Sein des Daseins ontologisch zureichend bestimmen. (p.57)
最近では「人間は固有の環境世界をもつ」と語られることが多いが、この「もつ」という語が規定されない限り、存在論的には何も語っていないのである。この「もつ」という語は、その可能性から言えば、内存在という実存論的な機構を基礎としたものだからである。現存在は、本質的にこのような内存在というありかたをする存在者であるから、環境世界で出会うその他の存在者を明確に発見し、それについて知り、それを自由に処理して、「世界」を"もつ"ことができるのである。「環境世界をもつ」という表現は、存在者的にはありきたりの言い方だが、存在論的には1つの問題になる。この問題を解くためには、それに先立って、なによりも現存在の存在を存在論的に十分に規定する必要があるのである。

 ハイデガーはまず、ユクスキュルが提唱した「環境世界」という概念について、「<人間は固有の環境世界をもつ>と語られることが多いが、この<もつ>という語が規定されない限り、存在論的には何も語っていないのである」と批判します。
 既に第10節において、生物学と存在論の関係について語られていました(Part.9参照)。生物学が研究の領域の確定のために依拠する「生命」という概念は、存在論の考察の領域であり、その点において生命の科学としての生物学は、現存在の存在論のうちに基礎をもつとされたのでした。「<環境世界をもつ>という表現は、存在者的にはありきたりの言い方だが、存在論的には1つの問題になる」と言われるとおり、生物学は、その実証的な科学としての限界のために、「環境世界をもつ」という構造についても、それをみずから発見したり規定したりすることは決してできず、それを前提にして使う必要があるのです。

Die Struktur selbst kann aber auch als Apriori des thematischen Gegenstandes der Biologie philosophisch nur expliziert werden, wenn sie zuvor als Daseinsstruktur begriffen ist. Aus der Orientierung an der so begriffenen ontologischen Struktur kann erst auf dem Wege der Privation die Seinsverfassung von >Leben< apriorisch umgrenzt werden. Ontisch sowohl wie ontologisch hat das In-der-Welt-sein als Besorgen den Vorrang. In der Analytik des Daseins erfährt diese Struktur ihre grundlegende Interpretation. (p.58)
構造そのものは、生物学の主題的な対象のアプリオリなものとして、哲学的に解明されるべきなのであり、そのためにはまずそれを現存在の構造として概念的に把握する必要がある。このように把握した存在論的な構造を手掛かりにして、欠如というありかたに注目する方法によって、はじめて「生命」にそなわる存在機構をアプリオリに規定することができるようになる。配慮的な気遣いとしての世界内存在は、存在者的にも存在論的にも優位に立っているのである。そしてこの世界内存在という構造は、現存在の分析論において、根本的に解釈されるのである。

 ハイデガーは、「生命」という概念がうまれたのも、そもそも人間の存在についての考察が出発点になったと考えます。「欠如というありかたに注目する方法」というのは、まず人間を「生命」として把握しておいて、そこからただ生きているだけという欠如の状態に還元していき、その最も単純だと思われるところから考察しようとする方法のことです。生物学はこのように、単純なものから出発して、それにさまざまなものを追加して複雑なものに到達しようとする方法を採用する学問だと言われます。
 しかし「生命」という基本的な概念の考察の源泉が人間にある以上、人間についての存在論的な考察は必要不可欠です。同様に、世界や環境という概念を考察するためにも、やはり人間の世界内存在についての存在論的な考察が必要であることが理解できるでしょう。そのことをハイデガーは、「このように把握した存在論的な構造を手掛かりにして、欠如というありかたに注目する方法によって、はじめて<生命>にそなわる存在機構をアプリオリに規定することができるようになる」と指摘します。生物が環境のうちで生きるという事態を理解するためには、人間が環境世界のうちで生きるという事態の存在論的な考察が必要なのです。

 先に「<環境世界をもつ>という表現は、存在者的にはありきたりの言い方だが、存在論的には1つの問題になる」と述べられていましたが、ハイデガーは、人間が環境世界を「もつ」という点を批判し、環境世界とは人間がそのうちで生きている場であることを主張します。世界を現存在から切り離して抽象的に、人間という種を取り囲む生物学的な「環境」のようなものとして理解することはできないのです。世界とはこのように、現存在の存在様態と密接に結びついているものであるために、それだけに世界を理解することは困難になるのです。

Der phänomenologische Aufweis des In-der-Welt-seins hat den Charakter der Zurückweisung von Verstellungen und Verdeckungen, weil dieses Phänomen immer schon in jedem Dasein in gewisser Weise selbst >gesehen< wird. Und das ist so, weil es eine Grundverfassung des Daseins ausmacht, insofern es mit seinem Sein für sein Seinsverständnis je schon erschlossen ist. Das Phänomen ist aber auch zumeist immer schon ebenso gründlich mißdeutet oder ontologisch ungenügend ausgelegt. Allein dieses ,in gewisser Weise Sehen und doch zumeist Mißdeuten' gründet selbst in nichts anderem als in dieser Seinsverfassung des Daseins selbst, gemäß derer es sich selbst - und d. h. auch sein In-der-Welt-sein - ontologisch zunächst von dem Seienden und dessen Sein her versteht, das es selbst nicht ist, das ihm aber >innerhalb< seiner Welt begegnet. (p.58)
世界内存在について現象学的に提示しようとするときには、歪曲や隠蔽を退けるという性格をおびざるをえない。それはこの世界内存在という現象が、それぞれの現存在において、ある種のありかたで、つねにすでに「見てとられている」"から"なのである。それというのも、この現象は現存在の根本的な機構であり、そのようなものとして、現存在の存在において、その存在了解のために、つねにすでに開示されている"から"である。しかしこの世界内存在という現象はまた、多くの場合はつねにすでに、同時に根本的に誤解されているか、存在論的に不十分に解釈されているにすぎないかのどちらかなのである。もっともこのように「ある種のありかたで見てとられているが、たいていは誤解されている」ということそのものも、現存在自身のこの存在機構に基づくことなのである。すなわち現存在は、この世界内存在という存在機構に基づいてみずからを、そしてまたみずからの世界内存在を、存在論的には自分では"ない"存在者の側から、みずからの世界の「内部で」出会うところの"まさにその"存在者とその存在の側から、さしあたり了解しているのである。

 世界とは現存在が生きている場そのものであり、人間の生き方によって形成されるものです。そのため世界は、現存在にとってはみずから存在していることと同様に自明なものとして把握されることになりますが、こうした素朴な把握は現象に対して歪曲や隠蔽を持ち込むことになります。「世界内存在という現象が、それぞれの現存在において、ある種のありかたで、つねにすでに<見てとられている>」だとか、「この現象は現存在の根本的な機構であり、そのようなものとして、現存在の存在において、その存在了解のために、つねにすでに開示されている」という表現は、こうした世界の近さを示しており、そして世界とはこのように近いものである「"から"」、理論的に認識することが困難になるのです。
 現存在にとって世界はあまりにも身近であり、自分が生きている世界を、自分とは別のものとして理解することは困難です。それだけに現存在は、世界を自分とは何か別のものであるかのように説明することはできません。だから、そのような世界について説明しようとすると、それを自分でないものの側から説明するという方法をとらざるをえません。すなわち、自分と世界とが一体になっていることからそれらを切り離し、世界があたかも自己とは別の異なるものであるかのように語るしかないのです。「現存在は、この世界内存在という存在機構に基づいてみずからを、そしてまたみずからの世界内存在を、存在論的には自分では"ない"存在者の側から、みずからの世界の<内部で>出会うところの"まさにその"存在者とその存在の側から、さしあたり了解している」という指摘は、こうした事態を示しています。

Im Dasein selbst und für es ist diese Seinsverfassung immer schon irgendwie bekannt. Soll sie nun erkannt werden, dann nimmt das in solcher Aufgabe ausdrückliche Erkennen gerade sich selbst - als Welt-erkennen zur exemplarischen Beziehung der >Seele< zur Welt. Das Erkennen von Welt (νοεῖν), bzw. das Ansprechen und Besprechen von >Welt< (λόγος) fungiert deshalb als der primäre Modus des In-der-Welt-seins, ohne daß dieses als solches begriffen wird. (p.58)
この世界内存在という存在機構は、現存在自身において、また現存在自身にとって、つねにすでに何らかの形で知られている。ところがこれを認識しようとすると、その課題のうちで明示的なものになる"認識"が、まさに"おのれ自身を"、世界を認識するものとして、「心」と世界の模範的な関係と考えてしまう。そうすると世界について認識すること(思考すること)が、あるいは「世界」について語りかけ、論じあうこと(語り)が、世界内存在の第一義的な様態として機能してしまうのであり、世界内存在そのものは把握されなくなってしまう。

 世界があたかも自己とは別の異なるものであるかのように語られるとき、世界はわたしたちが認識する(ノエイン)もの、わたしたちが語る(ロゴス)ものとなるでしょう。そしてこのような語りの様式が「世界内存在の第一義的な様態として機能してしまう」ことになるでしょう。そして「世界内存在そのものは把握されなくなってしまう」のです。

Das In-der-Welt-sein wird - obzwar vorphänomenologisch erfahren und gekannt - auf dem Wege einer ontologisch unangemessenen Auslegung unsichtbar. Man kennt die Daseinsverfassung jetzt nur noch - und zwar als etwas Selbstverständliches - in der Prägung durch die unangemessene Auslegung. Dergestalt wird sie dann zum >evidenten< Ausgangspunkt für die Probleme der Erkenntnistheorie oder >Metaphysik der Erkenntnis<. Denn was ist selbstverständlicher, als daß sich ein >Subjekt< auf ein >Objekt< bezieht und umgekehrt? Diese >Subjekt-Objekt-Beziehung< muß vorausgesetzt werden. Das bleibt aber eine - obzwar in ihrer Faktizität unantastbare - doch gerade deshalb recht verhängnisvolle Voraussetzung, wenn ihre ontologische Notwendigkeit und vor allem ihr ontologischer Sinn im Dunkel gelassen werden. (p.59)
世界内存在というありかたは、前現象学的に経験されており、知られていることであるが、存在論的には不適切に解釈されるために、"見てとれないもの"となる。そのために現存在の存在機構について、不適切な解釈によって浮き彫りにされた形でしか知らないことになり、しかもそれがごく自明なことでもあるかのようにうけとられるのである。こうして現存在という存在機構は、認識の理論や、「認識の形而上学」のさまざまな問題を展開するための「明証的な」出発点とされることになる。そもそも「主観」というものが「客観」というものと関係し、反対に「客観」が「主観」と関係するということほど、自明に思われることが他にあるだろうか。するとこの「主観と客観の関係」を、前提にしなければならないことになる。たしかにこうした関係の事実性は否定できない前提ではあるが、それだけに、この前提の存在論的な必然性が、そして何よりもその存在論的な意味が暗がりのうちに放置されているならば、これはきわめて災いに満ちた前提なのである。

 世界を自己と切り離して捉えるとき、認識する<わたし>が認識の「主観」とみなされ、世界は認識されるべき「客観」とみなされることになるでしょう。この世界の認識における主観と客観のモデルについては、次以降の節で詳細に検討されることになります。そこでは、世界認識そのものが、内存在の実存論的な様態であることが明らかにされるのです。


 第12節は以上となります。分量的に、今までの投稿で最も長いものとなってしまいましたが、それだけ「世界内存在」や実存カテゴリーといった『存在と時間』における重要な概念が含まれているように感じます。この段階ではまだ素描にすぎませんが、後の考察に行き詰ったときには、全体を俯瞰するような形でこの節を参照することもできるかもしれません。

 今回もありがとうございます。また次回、よろしくお願いします。

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