『存在と時間』を読む Part.19

 前回の節でA項が終わり、ここからB項に入っていきます、この項では、デカルトの実体の概念が「広がり」という空間的な概念に依拠するものであることを指摘しながら、このような実体の概念によって取り逃がされた存在論的な問題構成のありかを指摘しようとします。デカルトのこの概念は、ハイデガーの世界と世界内存在の概念による分析とは正反対なものとして「もっとも極端な事例」と言われていました(Part.18参照)。

 B 世界性の分析とデカルトによる世界の解釈の対比

 この項では、デカルトにおける「世界」の存在論の根本的な特徴の概要がまず手短に示され、さらにそれが前提にしているものは何であるかが問われます。ハイデガーはこれまでの現存在分析の成果に基づいて、こうした前提の特徴を明らかにしようとするのです。こうした解明によって、デカルト以前の世界の解釈はもとより、デカルトの後に登場した世界の解釈が、十分な吟味を経ていない存在論的な「基礎台」にどれほど依拠していたかが明らかになるでしょう。

Descartes sieht die ontologiche Grundbestimmung der Welt in der extensio. Sofern Ausdehnung die Räumlichkeit mitkonstituiert, nach Descartes sogar mit ihr identisch ist, Räumlichkeit aber in irgendeinem Sinn für die Welt konstitutiv bleibt, bietet die Erörterung der cartesischen Ontologie der >Welt< zugleich einen negativen Anhalt für die positive Explikation der Räumlichkeit der Umwelt und des Daseins selbst. Wir behandeln hinsichtlich der Ontologie Descartes' ein Dreifaches: 1. Die Bestimmung der >Welt< als res extensa. 2. Die Fundamente dieser ontologischen Bestimmung. 3. Die hermeneutische Diskussion der cartesischen Ontologie der >Welt<. Ihre ausführliche Begründung erhält die folgende Betrachtung erst durch die phänomenologische Destruktion des >cogito sum<. (p.89)
デカルトは、世界の存在論的な根本規定が広がりにあると考えた。この広がりは、空間性を構成するものであるが、デカルトは広がりは空間性そのものだと考えたのである。たしかに空間性は何らかの意味で、世界を構成するものである。だからデカルトの「世界」の存在論を解明してみれば、環境世界と現存在そのものの空間性を積極的に解明するための消極的な手掛かりがえられるはずである。わたしたちはデカルトの存在論を次の3点から考察する。1、広がりのあるものとしての「世界」の規定。2、この存在論的な規定の基礎。3、「世界」についてのデカルトの存在論の解釈学的な考察。以下で展開する考察の詳しい根拠づけは、「コギト・スム」の現象学的な解体によって、初めて確立されることになる。

 ハイデガーは現存在分析という存在論の観点からデカルトの「広がり」と「世界」の概念を批判することで、「環境世界と現存在そのものの空間性を積極的に解明するための消極的な手掛かりがえられる」と期待します。それが「消極的」なのは、「積極的」な解明である存在論的な考察のもつ威力を、その裏側から照らしだす役割をはたすためです。
 このデカルト批判は次の3つの段階で行われます。まず第19節では世界を「広がりのあるもの」と、空間的な概念によって規定したデカルトの考え方を分析します。第20節では、このように世界を空間的に規定することには、どのような存在論的な基礎があるかを調べます。第21節では、デカルトの世界の概念を存在論的に、そして解釈学的に考察します。

  第19節 広がりのあるものとしての「世界」の規定

 デカルトの考える実体とは、存在するためには他のいかなるものも必要としないもののことであり、これがまず神であるのは明白です。しかしそうなると、他の何も必要としない完全な実体としてみとめられるのは神のみということになりそうです。神以外の存在者は、それだけで原因となるようなものではないからです。しかしデカルトは実体の概念を2種類の実体として考えます。すなわち、実体とは1義的には完全な自己原因のことですが、「存在するためには、ただ神の協力のみを必要とすればよい」ものもまた、実体と呼ぶことにしたのです。
 そして、デカルトは「精神における思考」と「物体における広がり」を実体を示す2つの属性として主張したのでした。長さ、幅、深さにおける広がりが物体的な実体の本性をなしており、思考が考える実体の本性をなしているというわけです。

Innerhalb welchen Seinsverständnisses hat dieser das Sein dieser Seienden bestimmt? Der Titel für das Sein eines an ihm selbst Seienden lautet substantia. Der Ausdruck meint bald das Sein eines als Substanz Seienden, Sunbstanzialität, bald das Seiende selbst, eine Substanz. Diese Doppeldeutigkeit von substantia, die schon der antike Begriff der οὐσίᾱ bei sich führt, ist nicht zufällig. (p.89)
デカルトはいかなる存在了解のもとで、これら2つの存在者の存在を規定したのであろうか。それ自体で存在しているものの存在を表す名称は、実体である。この表現はあるときには、実体として存在するものの”存在”、すなわち”実体性”を指し、あるときにはその存在者そのもの、すなわち”1つの実体”を指す。実体にそなわるこの2重の意味は、ウ―シアという古代の概念にすでにつきまとっていたものであり、偶然のものではない。

 思考しない事物の属性を「広がり」のうちに求めるというのは、古代ギリシアの哲学的な伝統に依拠するものであると、ハイデガーは指摘します。実体(>substantia<)というラテン語は、ウ―シア(>οὐσίᾱ<)というギリシア語を翻訳したものですが、このウ―シアという語には「存在」という意味と、財産などの存在者という2重の意味がありました。だからこそデカルトは実体を考察する際に、つねに事物としての存在者を含めざるをえなかったのです。「実体にそなわるこの2重の意味は、ウ―シアという古代の概念にすでにつきまとっていたものであり、偶然のものではない」のです。

 デカルトによると、このように世界のうちに存在する事物の形や運動もまた、広がりという観点から考えることができますし、その観点からしか考えることはできないとされます。こうしたものはある事物を実体にする基本的な属性であり、「本性」です。それでは「広がり」にこのような重要な地位が与えられるのはどうしてでしょうか。

Ausdehnung ist die Seinsverfassung des in Rede stehenden Seienden, die vor allen anderen Seinsbestimmungen schon >sein< muß, damit diese >sein< können, was sie sind. Ausdehnung muß dem Körperding primär >zugewiesen< werden. Dementsprechend vollzieht sich der Beweis für die Ausdehnung und die durch sie charakterisierte Substanzialität der >Welt< in der Weise, daß gezeigt wird, wie alle anderen Bestimmtheiten dieser Substanz, vornehmlich divisio, figura, motus, nur als modi der extensio begriffen werden können, daß umgekehrt die extensio sine figura vel motu verständlich bleibt. (p.90)
広がりは、ここで検討している存在者の存在機構”そのもの”であり、この存在機構が先立って「存在している」のでなければ、他のいかなる存在規定も、存在規定として「存在する」ことができないのである。だからこの広がりは、物体的なものに、第1義的に「割り当て」られなければならないのである。これに応じて、広がりの証明も、広がりという特性によって性格づけられる「世界」の実体性についての証明も、他のすべての規定性、とくに分割、形、運動が、広がりのたんなる諸様態としてしか捉えることができず、その反対に、形や運動なしの広がりも理解できることを示すという形で遂行しなければならないのである。

 広がりに本性として特別な地位が与えられるのは、それが「存在者の存在機構”そのもの”であり、この存在機構が先立って<存在している>のでなければ、他のいかなる存在規定も、存在規定として<存在する>ことができない」ようなものだからです。この本性としての「広がり」とは別に、事物には「力」「固さ」「重さ」「色」などの性質が、つまり「分割、形、運動」などの規定性がそなわっていると考えることができますが、こうしたさまざまな規定を事物からとりのぞいても、事物は事物のままであるとデカルトは主張します。これらの規定は、事物の本来的な存在(本性)を構成するものではなく、それらの規定がある場合にも、それらは「広がり」の諸様態として考えられるからです。
 たとえば、コップには固さや色がそなわっています。私たちはそれに触れることによって固さを認識し、それを見ることによって色を認識します。ここで仮に、私がコップに触れようとしたとき、そのコップがつねに私の出した手と同じ速さと方向で動き、一切触れることができなくなったとします。すると私はコップに固さという規定を見出すことができなくなり、コップに固さは「存在しない」ということにもなるでしょう。しかしだからといって、コップ自体が存在しないとはまったく考えられません。このように、「固さ」というものが不可能になったとしても、事物が事物としての存在を維持するのであれば、固さはこうした存在者の存在には属さないことになります。
 これらの性質とは違って広がりだけは、その物体のこうむるさまざまな変化のうちでも維持され、残り続けるものです。これは事物に本来そなわる属性であり、これが「実体の実体性」であるとされるのです。

  第20節 「世界」の存在論的な規定の基礎

 デカルトは実体の概念を、自己原因として定義しながらも2義的に使っていました。神と人間や事物には、同じように「存在する」という語が使用させますが、当然こちらにも2通りの意味があることになります。
 まず「神は存在する」と語るときの「存在する」は、他のいかなるものの助力なしで、自己原因としてそれ自体で存在するということです。これに対して「人間が存在する」とか「地球が存在する」と語ったときの「存在する」は、神がまずそれらを創造することで「存在する」ようになったこと、そしてそれを維持するために別のものを必要とすることを意味します。

Jedes Seiende, das nicht Gott ist, ist ens creatum. Zwischen beiden Seienden besteht ein >unendlicher< Unterschied ihres Seins, und doch sprechen wir das Geschaffene ebenso wie den Schöpfer als Seiende an. Wir gebrauchen demnach Sein in einer Weite, daß sein Sein einen >unendlichen< Unterschied umgreift. So können wir mit gewissem Recht auch geschaffenes Seiendes Substanz nennen. Dieses Seiende ist zwr relativ zu Gott herstellungs- und erhaltungsbedürftig, aber innerhalb der Region des geschaffenen Seienden, der >Welt< im Sinne des ens creatum, gibt es solches, das relativ auf geschöpfliches Herstellen und Erhalten, das des Menschen zum Beispiel, >unbedürftig ist eines anderen Seienden<. Dergleichen Substanzen sind zwei: die res cogitans und die res extensa. (p.92)
神ではないすべての存在者は、”被造物”である。神と被造物という2つの存在者のあいだには、それぞれの「存在」について「無限の」差異がある。それでもわたしたちは被造物も創造主も、どちらも”存在者”と呼ぶのである。だからわたしたちは存在という語を、こうした「無限の」差異を包括するほどの広い意味で使っているわけである。そのためわたしたちが、被造物である存在者も実体と呼んでいるのは、ある程度は正当なことなのである。しかしこの存在者は、神との対比では制作され、維持される必要があるものであるが、創造された存在者の領域の内部には、すなわち被造物の意味での「世界」においては、被造物(たとえば人間)の制作と維持にたいして、「ほかの存在者を必要とせずに」存在しているものがある。このような実体には2種類ある。思考するものと広がりのあるものである。

 以前から指摘されてきたように、伝統的な哲学においては、神ではない存在者は「被造物」としてみられてきました。このことは、「神と被造物という2つの存在者のあいだには、それぞれの<存在>について<無限の>差異がある」ということを意味します。そうだとすると「存在する」という語は、これら2つの存在者を1義的に意味することはできないことになるでしょう。序論でみたように、アリストテレスにならって言うなら、「存在は多様に語られる」ということです(Part.1参照)。このように「存在」という語の多義的な使い方を認めるなら、「わたしたちは存在という語を、こうした<無限の>差異を包括するほどの広い意味で使っている」ことになるでしょう。したがって、デカルトがしたように「被造物である存在者も実体と呼んでいるのは、ある程度は正当なこと」だと言えるのです。

 ところがデカルトは、このように多様に類比的に語られる存在そのものの意味がどのようなものであるかという問いについては、ほとんど問い質すことをせず、むしろこの問題の考察を回避したと、ハイデガーによって指摘されます。

Descatres weicht der ontologischen Frage nach der Substanzialität nicht nur überhaupt aus, er betont ausdrücklich, die Substanz als solche, das heißt ihre Substanzialität, sei vorgängig an ihr selbst für sich unzugänglich. Verumtamen non potest substantia primum animadverti ex hoc solo, quod sit res existens, quia hoc solum per se nos non afficit*. Das >Sein< selbst >affiziert< uns nicht, deshalb kann es nicht vernommen werden. (p.94)
デカルトは、実体性についての存在論的な問いを総じて回避しているだけではなく、実体そのもの、実体の実体性は、あらかじめそれ自体に問い掛けても、それ自体だけでは近づくことのできない性格のものであることを、明示的に強調している。「しかしながら、実体は存在している事物であるからといって、すぐさま見いだされうるものではない。というのも、このことだけでは、われわれを触発することがないからである」。すなわち「存在」そのものはわたしたちを「触発する」ことがない、だから知覚できないのである。(*原文のこの箇所はラテン語で書かれています。邦訳は光文社の中山元訳『存在と時間 3』にしたがっています)

 デカルトは神ではない存在者の実体について、「被造物の意味での<世界>においては、被造物(たとえば人間)の制作と維持にたいして、<ほかの存在者を必要とせずに>存在しているものがある」と指摘していました。それこそが「思考するものと広がりのあるもの」です。しかし、こうした実体についての定義は、ある存在者の存在様態から定義したものです。
 デカルトは実体については「それ自体で存在するもの」と答えましたが、これは実体をその本質から定義するものであり、存在論的で内包的な定義と考えることができます。ところが世界や人間についても実体であると指摘しながら、それが自己原因ではなく、他の原因を必要とするということからではなく、広がりをもつといったような外延的で存在者的な定義を採用しています。デカルトがこのように、神以外の実体について、実体そのものについてや実体性の観点から考察しなかったのは、実体の存在そのものは「わたしたちを<触発する>ことがない、だから知覚できない」と考えたからです。これは実体とは何かという問いに対して、「知覚できること」を、実体性の条件として定めたということを意味します。

Damit wird grundsätzlich auf die Möglichkeit einer reinen Problematik des Seins verzichtet und ein Ausweg gesucht, auf dem dann die gekennzeichneten Bestimmungen der Substanzen gewonnen werden. Weil >Sein< in der Tat nicht als Seiendes zugänglich ist, wird Sein durch seiende Bestimmtheiten des betreffenden Seienden, Attribute, ausgedrückt. Aber nicht durch beliebige, sondern durch diejenigen, die dem unausdrücklich doch vorausgesetzten Sinn von Sein und Substanzialität am reinsten genügen. (p.94)
こうして存在について純粋に問うための問題構成の可能性が原理的に断念されたのであり、その代わりに1つの逃げ道が探された。すでに述べた実体についての諸規定は、その逃げ道の途上で獲得されたものである。すなわち「存在」にはたしかに”存在者から”近づくことはできないのであるから、存在をそれぞれの存在者にそなわる存在者的な規定、すなわち属性によって表現することにしたわけである。ただし任意の属性ではなく、暗黙のうちに前提されていた存在の意味と実体性の意味にもっとも純粋にふさわしいような属性で表現するのである。

 デカルトは、実体についての外延的な定義を行う場合には、「暗黙のうちに前提されていた存在の意味と実体性の意味にもっとも純粋にふさわしいような属性で表現」しました。だからデカルトが、実体には「広がりのあるもの」と「思考するもの」という2種類のものがあると考えたときには、実体の「存在」についての存在論的な見地から考察することなく、その顕著な属性の違いによって分類するという存在者的な方法を採用したことになります。これは「存在について純粋に問うための問題構成の可能性が原理的に断念された」ことを意味します。
 このように実体は、あるときには存在論的な意味で語られ、あるときには存在者的な意味で語られ、そして多くの場合、違いがはっきりと示されないままに存在者的あるいは存在論的な意義で語られてきました。こうした些細に思える意義の区別の背後には、「存在論的な差異」という根本的な存在問題がひそんでおり、この混乱を解決するためには、実体についての存在者的な意味と存在論的な意味を明確に区別した存在論的な問いが必要になるのです。


 今回は以上になります。次回もよろしくお願いします。

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