『存在と時間』を読む Part.20

  第21節 「世界」についてのデカルトの存在論の解釈学的な考察

 実体についての存在者的な意味での語りと存在論的な意味での語りの混乱は、「世界」についてのデカルトの問いの混乱と結びつくことになりました。この節の初めの段落で、ハイデガーはデカルトの存在論について3つの問いを立て、その3つの問いにいずれも否定の答えをつきつけます。

Die kritische Frage erhebt sich: sucht diese Ontologie der >Welt< überhaupt nach dem Phänomen der Welt, wenn nicht, bestimmt sie zum mindesten ein innerweltliches Seiendes so weit, daß an ihm seine Weltmäßigkeit sichtbar gemacht werden kann? Beide Fragen sind zu verneinen. Das Seiende, das Descartes mit der extensio ontologisch grundsätzlich zu fassen versucht, ist vielmehr ein solches, das allererst im Durchgang durch ein zunächst zuhandenes innerweltliches Seiendes entdeckbar wird. Aber mag das zutreffen, und mag selbst die ontologische Charakteristik dieses bestimmten innerweltlichen Seienden (Natur) - sowohl die Idee der Substanzialität wie der Sinn des ihre Definition aufgenommenen existit und ad existendum - ins Dunkel führen, es besteht doch die Möglichkeit, daß durch eine Ontologie, die auf der radikalen Scheidung von Gott, Ich, >Welt< gründet, das ontologische Problem der Welt in irgendeinem Sinne gestellt und gefördert wird. (p.95)
ここで批判的な問いが問われる。この「世界」についての存在論は、そもそも世界の現象について探求しているのだろうか、そうでないというのであれば、少なくとも世界内部的な存在者について十分に規定し、それによってその世界適合性を明らかにできるようになっているのだろうか。”このどちらの問いにも、否定で答えねばならない”。デカルトが広がりによって根本的に存在論的に認識しようと試みた存在者はむしろ、さしあたり手元にある世界内部的な存在者を吟味した後でしか、露呈させることができないような性格のものである。それはそうなのであるが、それでも”この”特定の世界内部的な存在者、すなわち自然の存在論的な特徴づけを試みても、すなわち実体性の理念と、実体性の定義のうちにとりいれられている<存在する>とか<存在するためには>という語の意味を明らかにしようと試みても、やはり暗がりへと迷い込んでしまうのである。それでも、神、自我、「世界」を根源的に分離しようとする存在論によって、何らかの意味で存在論的な問題が立てられ、問いが進められるという可能性だけはあるのではないだろうか。

 第1の問いは、デカルトの世界の存在論が、「そもそも世界の現象について探求しているのだろうか」という問いです。デカルトが探し求めているんは世界という現象ではないので、この問いには否定的に答えねばなりません。こうした現象は、デカルトの「懐疑」の際にまっさきに否定されるものだからです。
 第2の問いは、デカルトの存在論は、「世界内部的な存在者について十分に規定し、それによってその世界適合性を明らかにできるようになっているのだろうか」という問いです。この問いにも否定で答えなければなりません。デカルトがみいだした「広がり」という属性は、「世界適合性」を示すにはまったく不適切なものです。「広がり」とはデカルトの懐疑において世界というものの特性がすべて消去された後にも残り続ける、無世界的な特性だからです。
 第3の問いは、先の2つの問いが否定された後に、ただ可能性としてのこりうるもの、すなわち「神、自我、<世界>を根源的に分離しようとする存在論によって、何らかの意味で存在論的な問題が立てられ、問いが進められるという可能性だけはあるのではないだろうか」という問いです。しかしこの問いに対しても否定で答えざるをえません。デカルトの問いはたしかに、実体という概念から、神と、被造物としての人間と「世界」を根源的に分離しているようにみえます。しかしデカルトの世界は伝統的な「世界」の概念にすぎず、「世界」が意味するのは世界の内部に存在する事物としての存在者にすぎません(括弧つきの「世界」についてはPart.13参照)。そのためこうした「根源的に分離しようとする存在論」によっては、世界において内部的に存在する事物と、世界内存在する現存在の違いという存在論的に重要な区別を提起することは、最初から不可能になっています。
 デカルトの問題構成は、「広がり」という属性をもつ実体としての事物と、「考えるもの」という属性をもつ実体としての人間の精神を区別することによって、事物と人間を存在論的に区別するようにみえますが、この区別は本来の存在論的な考察を行うためには不適切です。というのは、2つの存在者はまったく異なる属性をもつ独立した実体とされているために、それらがたがいに関係をもつことは困難であることが論理的に帰結するからです。そしてこれが、心身問題と呼ばれる哲学の謎につながっていくことになります。
 このように、人間が世界のうちに存在することは、哲学の出発点とも言うべき自明の事実でありながら、デカルトの哲学においては、その事実そのものが「謎」となってしまいました。そのため、デカルトの解釈は、世界の現象についても、手元に存在する世界内部的な存在者の存在についても「飛び越してしまった」と言わざるをえません。その理由はどこにあるのでしょうか。

 デカルトは、存在者において数学をつうじて近づくことのできるものが存在者の存在を構成すると考えました。

Die einzige und echte Zugang zu diesem Seienden ist das Erkennen, die intellectio, und zwar im Sinne der mathematisch-physikalischen Erkenntnis. Die mathematische Erkenntnis gilt als diejenige Erfassungsart von Seiendem, die der sicheren Habe des Seins des in ihr erfaßten Seienden jederzeit gewiß sein kann. Was seiner Seinsart nach so ist, daß es dem Sein genügt, das in der mathematischen Erkenntnis zugänglich wird, ist im eigentlichen Sinne. Dieses Seiende ist das, was immer ist, was es ist; daher macht am erfahrenen Seienden der Welt das sein eigentliches Sein aus, von dem gezeigt werden kann, daß es den Charakter des ständigen Verbleibs hat, als remanens capax mutationum. Eigentlich ist das immerwährend Bleibende. Solches erkennt die Mathematik. (p.95)
この存在者に近づくための唯一で真正な通路は、認識作用であり、しかも数学的かつ物理学的な意味での認識であるという。そしてこの数学的な認識とは、この認識によって捉えられた存在者のうちで、つねにその存在者の存在を確実に手元に確保しておくことができるような認識様式とされている。これによると、本当の意味で”存在する”ものというのは、その存在様式からして、数学的な認識によって近づくことができる存在にもっともふさわしい形で存在するものであるということになる。この存在者は、”つねにそれがあるところのものでありつづける”ような存在者である。そこで世界のうちで経験される存在者について、さまざまな変化をこうむりながらも維持されるものという意味で、”つねに残りつづけるもの”という性格をそなえていることが示されうる存在が、本来の存在であるということになる。本当の意味で”存在する”ものは、つねに残りつづけるものであり、数学は、このようなものを認識するのである。

 デカルトにとって学問とは、理性による認識の体系であり、この確実な認識を保証するのは、直観に基づいた数学的な認識でした。そのために世界の事物を考察するための「唯一で真正な通路は、認識作用であり、しかも数学的かつ物理学的な意味での認識である」と考えられ、「本当の意味で”存在する”ものというのは、その存在様式からして、数学的な認識によって近づくことができる存在にもっともふさわしい形で存在するものであるということになる」という結論に至ることになったのです。そして数学によって認識できるものは、形や重さや数などの量であり、さまざまな変化を通して「”つねに残りつづけるもの”という性格をそなえている」ものです。このことは、存在とは、たえず眼前的に存在するものであるという理念に依拠するということを意味します。

Descartes braucht das Problem des angemessenen Zugangs zum innerweltlichen Seienden nicht zu stellen. Unter der ungebrochenen Vorherrschaft der traditionellen Ontologie ist über die echte Erfassungsart des eigentlichen Seienden im vorhinein entschieden. Sie liegt im νοεῖν, der >Anschauung< im weitesten Sinne, davon das διανοεῖν, das >Denken<, nur eine fundierte Vollzugsform ist. Und aus dieser grundsätzlichen ontologischen Orientierung heraus gibt Descartes seine >Kritik< der noch möglichen anschauend vernehmenden Zugangsart zu Seiendem, der sensatio (αἴσθησις) gegenüber die intellectio. (p.96)
デカルトには、世界内部的存在者にどのような通路によって近づくのが適切かという問題を立てる必要がなかった。伝統的な存在論の優位が揺らいでいなかったので、本来の意味で存在する者を捉える真正な把握方法はどのようなものであるかが、あらかじめ決定されていたのである。その方法はノエイン、すなわちもっとも広義に理解した「直観」であった。そしてディアノエイン、すなわち「思考」は、このノエインに基礎づけられた遂行方法にすぎなかった。デカルトはこのような根本的な存在論的な方向性に基づいて、存在者に近づくことを可能にするその他の直観的で知覚的な方法、すなわち知性と対比した意味での感覚(アイステーシス)にたいして、「批判」を加えたのである。

 デカルトのとった方法とは、対象の認識において、「もっとも広義に理解した<直観>」であるであるノエインという営みを重視するということであり、このノエインの能力である知性に依拠するということです。これは同時に、感覚的な知覚の能力であるアイステーシスを軽視し、その能力を批判するということを意味します。感覚的な知覚の力は、対象の客観的な認識には貢献しないと考えられていたのでした。

 このように、デカルトが確実な知をもたらすものを、身体的な感覚の力ではなく直観としてのノエインに求めたときに、そしてすべての存在者の実体性を、変化のうちにあって残りつづけるものである「広がり」に求めたときに、存在者の存在が眼前存在性に限定されることになったのです。
 ハイデガーは、デカルトがそれまでの伝統的な哲学の伝統に依拠していたために、世界のすべての事物を「広がり」のあるものという観点から眺めることになったことを指摘します。この指摘に基づいて、デカルト哲学がもたらした3つの重要な帰結が語られます。

Daß die aller positiven Kritik entbehrende ontologische Grundorientierung an der Tradition ihm die Freilegung einer ursprünglichen ontologischen Problematik des Daseins unmöglich machte, ihm den Blick für das Phänomen der Welt verstellen mußte und die Ontologie der >Welt< in die Ontologie eines bestimmten innerweltlichen Seienden drängen konnte, sollten die vorstehenden Erörterungen erweisen. (p.98)
わたしたちがこれまでの解明で証明したことは、まずデカルトがいかなる積極的な批判も加えずに、存在論的にみて根本的に伝統的な立場に依拠して考察していたために、現存在について、根源的で存在論的な問題構成を確立すべき場所を拓くことができず、そのために世界という現象を捉えるまなざしが歪められてしまったこと、さらに、「世界」の存在論が、特定の世界内部的な存在者の存在論のうちに押し込まれざるをえなかったということである。

 第1にデカルトは、人間を世界の事物とは異なる存在者であると考察しながらも、その違いを、世界の事物は「広がり」だけをもち、人間だけが「広がり」と思考の結合体であることに求めました。そのためこれが、人間と世界のその他の事物との二元論的な対立を生みだしたのです。そして思考するものであるはずの人間が、「広がり」をもつだけの事物とどのように交渉することができるのか、とくに人間が自分の身体とどのようにかかわることができるのかということが解きがたい謎となりました。そのために人間という「現存在について、根源的で存在論的な問題構成を確立すべき場所を拓くこと」ができなくなったのです。
 第2に、第1の帰結の裏面として、二元論的な対立のために、人間は、自己についてだけでなく世界についても、存在論的な問いを問うことができなくなりました。これによって「世界という現象を捉えるまなざしが歪められてしまった」のです。
 第3に、この2つの帰結のもたらす結果として、世界の事物の存在がただ「眼前存在性」という観点からしか規定できなくなりました。世界におけるさまざまな事物が、ただ数学的な認識の対象としてしか、その広がりという属性からだけ考察されるべき対象としてしか、把握されなくなったのです。しかし世界の事物は、数学的に認識する対象である以前に、人間が自分たちの生活の便宜のために作りだした事物であるという存在論的な特徴をそなえています。デカルトの観点からは、こうした存在論的な考察を行うことはできず、世界はただ眼前存在性という「特定の世界内部的な存在者の存在論のうちに押し込まれざるをえなかった」のです。

 デカルトの思考の道筋は、近代哲学の行方を決定した重要なものでありましたが、デカルトが暗黙のうちに採用していた前提によって行き詰まることになります。ハイデガーはこうした行き詰まりの原因を明らかにし、それを突破しようと試みます。

Wir deuteten schon an (§ 14), daß das Überspringen der Welt und des zunächstbegegnenden Seienden nicht zufällig ist, kein Versehen, das einfach nachzuholen wäre, sondern daß es in einer wesenhaften Seinsart des Daseins selbst gründet. Wenn die Analytik des Daseins die im Rahmen dieser Problematik wichtigsten Hauptstrukturen des Daseins durchsichtig gemacht hat, wenn dem Begriff des Seins überhaupt der Horizont seiner möglichen Verständlichkeit zugewiesen ist und so auch erst Zuhandenheit und Vorhandenheit ontologisch ursprünglich verständlich werden, dann läßt sich erst die jetzt vollzogene Kritik der cartesischen und grundsätzlich heute noch üblichen Weltontologie in ihr philosophisches Recht setzen. (p.100)
すでに第14節で示したように、世界を飛び越してしまい、もっとも身近に出会う存在者を飛び越してしまうことは偶然ではないし、すぐに取り返しのつく見誤りでもない。これは現存在そのものにそなわる本質的な存在様式が原因となって起こることなのである。本書での現存在の分析論によって、この問題構成の枠組みでもっとも重要な現存在の主要な構造が見通せるようになるはずであり、存在一般の概念を理解するために必要な地平が定められるはずである。そのようにして初めて、手元存在性や眼前存在性が、存在論的にみて根源的に理解できるようになるはずである。これが実現された後になって初めて、わたしたちがデカルトの世界存在論に加えた批判と、原則として現在でも一般にみられる世界存在論にたいしてこれまで加えてきた批判に、どのような哲学的な根拠があるかが、明らかになるだろう。

 ハイデガーが提示する方法は、次の3点に要約されます。第1は、「広がり」のある物質と「思考するもの」である精神の2元論的な対立を克服することです。そのためにハイデガーが提示したのが、世界内部的な存在と世界内存在という新たな2元論でした。ただしこの2元論は、精神と物質というまったく独立したものが対立する2元論とは異なり、その対立の根底に、世界内存在として、世界内部的な存在者と交渉をもつ現存在についての存在論的な考察があります。この現存在についての存在論的な考察は、この世界の内部的な存在と世界内存在という見掛けだけの対立を克服する土台となることができるのです。これが現存在についての基礎存在論の考察です。
 第2は、この基礎存在論に依拠することで、世界内部的な存在者と世界内存在する現存在の対立の土台となる「存在一般」についての考察を展開することです。これが「存在一般の概念を理解するために必要な地平」となるでしょう。この存在一般についての考察こそが、ハイデガーが目指す存在論の核心となるものです。『存在と時間』は現存在についての考察を中心とする基礎存在論の枠組みを越えて、存在一般についての存在論的な考察を展開するはずでした。
 第3は、この地平に依拠しながら世界の事物について、現存在の観点から考察することにより、現存在でない世界の事物の「手元存在性や眼前存在性が、存在論的にみて根源的に理解」できる道を探ることでした。

 ハイデガーはこれらを実現するために、次の4つの問いを提起しています。これらの問いは、執筆させなかった第1部第3編「時間と存在」において考察されるはずだったものです。

1. Warum wurde im Anfang der für uns entscheidenden ontologischen Tradition - bei Parmenides explizit - das Phänomen der Welt übersprungen; woher stammt die ständige Wiederkehr dieses Überspringens?
2. Warum springt für das übersprungene Phänomen das innerweltlich Seiende als ontologisches Thema ein?
3. Warum wird dieses Seiende zunächst in der >Natur< gefunden?
4. Warum vollzieht sich die als notwendig erfahrene Ergänzung solcher Weltontologie unter Zuhilfenahme des Wertphänomens? (p.100)
1 わたしたちにとって決定的に重要な意味をもつ存在論的な伝統の端緒において、とくにパルメニデスに顕著にみられるように、どうして世界の現象を飛び越してしまったのだろうか。どうして、このように飛び越してしまう試みが繰り返されるのだろうか。
2 飛び越された現象の代わりに、どうして世界内部的な存在者が、存在論の主題として登場してくるのだろうか。
3 どうしてこの存在者がさしあたり、「自然」のうちに発見されるのだろうか。
4 このように世界存在論を補足する必要が生じたときに、どうして価値の現象に助力を求めたのだろうか。

 第4の問いの「価値」という概念については、本節で言及されているのでみてみることにしましょう。ハイデガーは、価値という概念によってデカルト以降の近代哲学の行き詰まりを突破しようとした価値哲学を批判する目的で、この概念には存在論的にみていくつもの欠陥があることを指摘します。

 第1に「価値」という概念は、「広がり」の概念を前提として、自然の事物に人間的な「財」の概念を後からつけ加えようとするものです。しかしこのように「つけ加える」ことできるためには、すでに自然の事物が眼前存在であることが前提とされていなければならないのであり、このような前提のもとで、存在論的な考察が不可能にされてしまっています。

Der Zusatz von Wertprädikaten vermag nicht im mindesten einen neuen Aufschluß zu geben über das Sein der Güter, sondern setzt für diese die Seinsart purer Vorhandenheit nur wieder voraus. Werte sind vorhandene Bestimmtheiten eines Dinges. (p.99)
価値を示す述語をつけ加えたところで、財の存在について、いかなる新たな解明が行われることもない。むしろそのように追加するということそのものが、”これらの財について、純粋な眼前性という存在様式をふたたび前提するものである”ことを示すのである。価値とは、ある事物の”眼前的な”規定なのである。

 第2に、事物の事物性とは別に、それとは独立したものとしての価値の概念を「つけ加える」ことができると考えることは、「財」とみなされた自然的な事物に、「”純粋な眼前性という存在様式をふたたび前提する”」ことにしかなりません。しかし手元存在者としての道具についての考察されてきたことからも明らかなように、「財」としての事物には、たんなる事物性だけでは完全に理解することのできないものがあるのです。

Was bedeutet ontologisch dieses >Haften< der Werte an den Dingen? Solange diese Bestimmungen im Dunkel bleiben, ist die Rekonstruktion des Gebrauchsdinges aus dem Naturding ein ontologisch fragwürdiges Unternehmen, von der grundsätzlichen Verkehrung der Problematik ganz abgesehen. Und bedarf diese Rekonstruktion des zunächst >abgehäuteten< Gebrauchsdinges nicht immer schon des vorgängigen, positiven Blicks auf das Phänomen, dessen Ganzheit in der Rekonstruktion wieder hergestellt werden soll? Wenn dessen eigenste Seinsverfassung zuvor aber nicht angemessen expliziert ist, baut dann die Rekonstruktion nicht ohne Bauplan? (p.99)
事物に価値が「付帯する」というのは、存在論的にどのようなことなのだろうか。こうした規定が暗闇のうちにとどまるかぎり、使用される事物を自然の事物に基づいて再構成する試みは、それによって問題構成が完全に転倒してしまうだけでなく、存在論的にみていかがわしい試みである。この試みは、まず使用される事物の「皮を剝いでおいて」、それから再構成することを試みるものである。しかしそのためには、つねにすでに”この再構成がひとつの全体としてふたたび作りだそうとしている現象について、あらかじめ積極的なまなざしを向けておく必要がある”のではないだろうか。そしてそれにもっとも固有の存在機構があらかじめ適切な形で説明されていないのであれば、その再構成というものも、実は設計図なしで行われることにならないだろうか。

 第3に、価値の概念を事物に「つけ加える」という作業を、何らかの「設計図なしで」行うのは無意味なことであり、そこにはすでにある暗黙的な存在論的な前提がもちこまれているのです。価値をもつという性質に逃げ込んでも、手元的な存在としての存在を捉えることはできません。むしろこのように事物に「価値」という概念を「つけ加える」ことで、近代哲学の問題が解決されると思い込まれたところに、伝統的な哲学の存在論的な欠落が露呈していると言えるでしょう。

 このようなハイデガーによる伝統的な存在論に対する批判は、古代ギリシアの哲学から現代の価値哲学にいたるまでの哲学の流れの全体を批判しながら、これまでの哲学では存在論の真の意味が忘却されてきたことを論難するものとなっています。そしてハイデガーは、自らが展開する存在論が、その忘却から哲学を目覚めさせるという展望を示すものだと考えています。
 このハイデガーの存在論は、人間が生きる世界という場について、その空間的な特性を環境世界という観点から考察するとともに、その時間的な特性を歴史という観点からだけでなく、人間の死と実存という観点から考察するものとして、注目されることになります。続くC項ではまず、世界の環境性と現存在の空間性についての考察が展開されることになります。


 以上で第21節は終わり、第3章のB項が完了しました。世界と世界性の分析が進むにつれ、だんだんと考察に厚みが増してきましたが、この展開についてきていますでしょうか。内容についてのご質問や、解釈についての異議などがございましたら、お気軽にコメントしていただければ、可能な範囲で反応させていただきたいと思います。

 それでは、また次回もよろしくお願いします。

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