『存在と時間』を読む Part.40

  第41節 気遣いとしての現存在の存在

 ここで一度、これまでの分析をおさらいしながら、この節で行われる考察につなげてみましょう。

 これまで現存在の根源的な開示性として、語り、理解、情態性が考察されてきました。「語り」は現存在の知的な世界理解と感情的な気分としての情態性を根拠づけ、「理解」は現存在の語る活動と感情的な気分を支え、「情態性」が現存在の語る活動と世界の理解を可能にするのです。
 ところが現存在は頽落して生きているのであり、語りは「世間話」としてその固有の存在可能から目を背けさせ、理解は「好奇心」として人々に世界のさまざまな出来事への関心をもたせることで実存から逸脱させ、情態性は「曖昧さ」として現存在が世界で起こる出来事をすでに了解していたものと勘違いさせ、そのように語らせるのです。
 この頽落には、2重の意味があることが、第38節の頽落の分析から明らかにされてきました。1つは「動性」としての頽落です。現存在は実存から世人へと転落し、頽落しているのであり、このように本来的な存在から非本来的な存在へと落下する運動性が、動性としての頽落です。
 この頽落は、現存在が自己の固有の可能性に直面することで、取り除くことができるものとされています。そして現存在がこの自己に固有の可能性に直面することができるようになるのは、自己のさまざまな可能性の完全な消滅である死に直面することによってです。「不安」は、現存在をそのような死の可能性に直面させる現象として、語り、理解、情態性という3つの等根源的な開示性よりもさらに根源的なのでした。
 頽落にはさらに、世界へと転落した現存在を世界に馴染ませるという静的な頽落としての意味がそなわっています。現存在は世界の日常性に馴染み、そこに居心地のよさを感じています。現存在にとっては、配慮的な気遣いのもとで、手元存在に囲まれて生きるのが、もっとも楽な生き方なのです。
 すでに考察してきたように、現存在は被投された世界内存在として、世人の公共性のうちに投げ込まれ、日常的に解釈されたことのうちで生きているのであり、これは現存在にとっての「地平」のようなものです。現存在が実存するのは、この地平から外に抜け出すことによってではなく、不安に動かされて、この地平の中で、自己の可能性に直面することによってです。この頽落は決して堕落ではないのであり、現存在が世界のうちで生きる地平としての頽落なのです。

 このようにしてみると、不安がはたす役割は2重のものであることがわかります。第1に、不安は死の可能性に目覚めさせることによって、世人への逃避という動性から現存在を連れ出して、現存在に自己に固有の可能性に直面させる役割をはたします。第2に、不安は同じく死の可能性に目覚めさせることによって、現存在を世界内存在として安住していた地平から離脱させる役割をはたします。これによって現存在は、自己の頽落したありかたそのものに目を開かれるのです。
 この地平から離脱させる不安の役割は、第1の役割よりも根源的だと言えます。世間話や好奇心、曖昧さは、現存在が自己のありかたに反省するかぎりで、自覚できる性質のものです。しかし現存在が世界内存在として生きることは、それ自体は現存在にとって自己の生を維持するという意味での本質的に重要なことです。
 このように考えると、現存在の頽落が2種類あるように、世界における現存在の基礎的な存在様態もまた2種類のものが考えられます。世人への頽落という「動性としての頽落」の視点からは、現存在はまず、語り、理解、情態性という基本的な開示性のうちにあり、これらの開示性が日常性のうちで頽落した存在様態が、世間話、好奇心、曖昧さです。この頽落は、現存在が世界内存在として存在し、自己の実存から転落している存在であることとみなすものです。この動性としての頽落は、存在論的な用語では「実存的な」頽落と呼ぶことができるでしょう。
 これにたいして地平としての頽落という観点からは、現存在はそのような頽落からの不安による覚醒という形で、実存へと立ち戻るべき存在とみなすことはできません。この頽落は、現存在が世界内存在として、世界のうちで存在することから生まれる事実としての頽落なのであり、現存在にとってもっと根源的な事態を示しているからです。この「地平としての頽落」という観点からみると、現存在の「基本的な存在論的な性格」は、さらに異なる形で表現されることになります。

Der Gesamtbestand dessen, was in ihr liegt, läßt sich in formaler Aufzählung registrieren: Das Sichängsten ist als Befindlichkeit eine Weise des In-der-Welt-seins; das Wovor der Angst ist das geworfene In-der-Welt-sein; das Worum der Angst ist das In-der-Welt-sein-können. Das volle Phänomen der Angst demnach zeigt das Dasein als faktisch existierendes In-der-Welt-sein. Die fundamentalen ontologischen Charaktere dieses Seienden sind Existenzialität, Faktizität und Verfallensein. (p.191)
不安のうちに含まれている事柄の全体を形式的に列挙してみると、まず、不安を感じることは情態性としての世界内存在の1つのありかたであること、次に、不安が〈それについて〉不安を感じているものは、被投された世界内存在であること、さらに不安が〈そのために〉不安を感じているものは、世界内存在可能であることである。このため不安の完全な現象は、現存在を、事実的に実存する世界内存在として示していることになる。この存在者の基本的な存在論的な性格は、実存性、事実性、頽落存在である。

 現存在とは、自己を存在するものであり、これが実存ということです。不安がまず第1に示すことは、現存在は気分をもった情態的な存在者として存在するということです。手元存在者や眼前存在者には、こうした情態性という存在性格は含まれておらず、現存在が情態的な存在であることは、現存在の実存という存在のありかたのためなのです。これが不安が明らかにする現存在の第1の存在性格としての「実存性」です。
 現存在が〈何について〉不安を感じているかというと、「被投された世界内存在である」という事実のためでした。不安が明らかにする第2の現存在の存在性格は、現存在が世界に被投された存在者であるという現存在の”被投性”であり、その「事実性」です。
 不安が明らかにする第3の性格は、不安が〈何のために〉不安を感じているかというと、「世界内存在可能であること」でした。これは現存在が世界において、世界内存在としての自己の存在可能に固執し、それを実現しようと願っている存在であることであり、現存在が自己に固有の本来の実存としての存在可能を忘却した「頽落存在」であるということです。現存在にとって頽落は本質的な性格であるのであり、これは先に指摘した「地平としての頽落」と呼べるものです。動性としての頽落が実存的な頽落であったのに対し、この「地平としての頽落」は、現存在の実存のありかたそのものを規定するものであり、「実存論的な」頽落と呼ぶことができるでしょう。

 したがって、現存在の根本的な3つの存在様態が、2通りに異なる形で表現されるのは不思議なことでありません。すでに指摘されてきたように、現存在の〈そこに現に〉の実存論的な構成では、現存在は「語り、理解、情態性」の3つの構造契機で規定されており、これらが世人において頽落した様態が、「世間話、好奇心、曖昧さ」でした。こちらの形は現存在が日常性においてどのように規定されているかを考察する実存論的な規定でした。
 これにたいして、現存在の世界内存在の構造全体の全体性を存在論的に把握しようとするなら、現存在が世人にどのようにして実存論的に頽落しているかという具体的なありかたを問うのではなく、現存在の全体性を存在論的に考察する必要があります。その際には、頽落は、現存在の構造契機がどのように世人に頽落しているかという観点からではなく、頽落そのものとして考察される必要があるのです。
 だからこそ、気遣いの考察においては、現存在という「存在者の基本的な存在論的な性格は、実存性、事実性、頽落存在である」とされるのです。現存在の根本性格が「語り、理解、情態性」という形と、「実存性、事実性、頽落存在」という形をとるのは、それぞれ”実存論的な”規定と”存在論的な”規定として提起されているからであり、ここにおいて後者の規定が登場してきたのは、第6章が気遣いとしての現存在の存在の”存在論的な”考察として展開されるようになるからです(ただし、現存在の存在は実存であるので、存在論的な規定として提起された性格は、同時に実存論的なものでもあります)。ですから、この2つの分析の次元が異なるものであることを無視して、情態性と事実性、理解と実存性、語りと頽落を同一のものと考えないように注意しましょう。

 さて、現存在の世界内存在の構造全体の全体性を存在論的に把握するために、ハイデガーは現存在の新たな定義を試みます。

Das Dasein ist Seiendes, dem es in seinem Sein um dieses selbst geht. Das >es geht um ...< hat sich verdeutlicht in der Seinsverfassung des Verstehens als des sichentwerfenden Seins zum eigensten Seinkönnen. Dieses ist es, worumwillen das Dasein je ist, wie es ist. Das Dasein hat sich in seinem Sein je schon zusammengestellt mit einer Möglichkeit seiner selbst. Das Freisein für das eigenste Seinkönnen und damit für die Möglichkeit von Eigentlichkeit und Uneigentlichkeit zeigt sich in einer ursprünglichen, elementaren Konkretion in der Angst. Das Sein zum eigensten Seinkönnen besagt aber ontologisch: das Dasein ist ihm selbst in seinem Sein je schon vorweg. Dasein ist immer schon >über sich hinaus<, nicht als Verhalten zu anderem Seienden, das es nicht ist, sondern als Sein zum Seinkönnen, das es selbst ist. Diese Seinsstruktur des wesenhaften >es geht um ...< fassen wir als das Sich-vorweg-sein des Daseins. (p.191)
現存在とは、みずからの存在において、この存在そのものにかかわっている存在者である。この「~にかかわっている」ということは、理解という存在機構において明確に示されたのであり、理解とは、自己にもっとも固有な存在可能へと、みずからを投企しながら存在していることである。この自己にもっとも固有な存在可能こそ、現存在がそのつどそのありさまで〈そのための目的〉として存在しているものなのである。このように現存在はその存在において、そのつどすでに自分自身の何らかの可能性と結びついている。自己にもっとも固有な存在可能〈”に向かって”開かれていること〉、すなわち本来性と非本来性の2つの可能性に向かって開かれていることは、不安のうちで根源的で基本的な姿において具体的なものとして現れる。しかし自己にもっとも固有の存在可能に向かって存在しているということは、存在論的には、現存在はその存在において、つねにすでに自己よりも”先立っている”ということである。現存在はつねにすでに「自己を超えている」のであるが、それは自己”でない”他の存在者にかかわる態度としてではなく、みずからがそのものである存在可能に向かう存在としてである。この本質からして「~にかかわる」という存在構造を、わたしたちは現存在の”みずからに先立つ存在”と呼ぶ。

 ハイデガーは序論において、すでに現存在の重要な特性を指摘していました。現存在は〈そこに現に〉ある存在として、そのつどわたしたち自身である存在者であり、何よりも問うということをみずからの存在の可能性の1つとしてそなえている存在者です。「あるものを眺めやり、それを理解して概念的に把握し、選択し、それに接近するということは、問うことを構成するさまざまな態度であり、ある特定の存在者のさまざまな存在様態そのものである。"この特定の"存在者とは、問う者として、そのつど私たちそのものである(Part.1参照)」。このような存在様態を、ハイデガーはまた実存と呼び、「現存在はつねに自らを自己の実存から理解している。現存在は自己自身であるか、あるいは自己自身でないかという、自己自身の可能性から、自己を理解しているのである(Part.2参照)」というように語っていました。
 この自己の可能性について「問う」という営みは現存在に本質的なものであり、現存在には問いかけ、それに答えるという形で「理解する」ことが本質的にそなわっています。この理解は、たんに物事をそのあるがままに理解するということではなく、現存在がまず問いかけ、そして理解するということです。
 ハイデガーは現存在のこの存在のありかたを「現存在とは、みずからの存在において、この存在そのものにかかわっている存在者である」と語り直します。そしてこの「~にかかわっている(>es geht um ...<)」ということが「理解という存在機構において明確に示された」ことを指摘しながら、「理解とは、自己にもっとも固有な存在可能へと、みずからを投企しながら存在していることである。この自己にもっとも固有な存在可能こそ、現存在がそのつどそのありさまで〈そのための目的〉として存在しているものなのである」と改めて定義します。(Part.1でも指摘したように、>es geht um ...<というのは、ふつうのドイツ語で使われる語であり、ここでは「~にかかわっている」と訳されますが、「~が問題である」というニュアンスをもっています。ですから、>Das Dasein ist Seiendes, dem es in seinem Sein um dieses selbst geht.<という文は、「現存在とは、みずからの存在において、この存在そのものが問題である存在者である」というように訳すこともできます。現存在の特性としての「問う」という営みに注目したい場合は、このように把握すると理解しやすいと思います)。
 現存在はこのように問い掛け、理解しながら、「自己にもっとも固有な存在可能」と「そのための目的」に向かって存在している存在者です。これは現存在は「つねにすでに〈自己を超えている〉」ということであり、現存在はそのつどの自己のありかた以上の存在者だということです。これをハイデガーは、「この本質からして〈~にかかわる〉という存在構造を、わたしたちは現存在の”みずからに先立つ存在”と呼ぶ」と言っています。

 この「みずからに先立つ存在」ということには、3重の意味がそなわっています。
 第1に、この存在は現在あるがままの自己に「先立つ」ということであって、自己についての意識をもつ以前から、この現存在は世界のうちに生まれ、育ってきているということです。わたしは生まれる場所ととき、両親や周囲の環境を選んできたのでしょうか。それは知ることはできません。わたしがこのようにして生まれてきたのは運命だったのであり、わたしが「みずからに先立つ存在」であるということは、「〈”ある世界のうちにすでに存在していることで自己に先立つ”〉」ことを意味するのです。

Diese Struktur betrifft aber das Ganze der Daseinsverfassung. Das Sich-vorweg-sein bedeutet nicht so etwas wie eine isolierte Tendenz in einem weltlosen >Subjekt<, sondern charakterisiert das In-der-Welt-sein. Zu diesem gehört aber, daß es, ihm selbst überantwortet, je schon in eine Welt geworfen ist. Die Überlassenheit des Daseins an es selbst zeigt sich ursprünglich konkret in der Angst. Das Sich-vorweg-sein besagt voller gefaßt: Sich-vorweg-im-schon-sein-in-einer-Welt. (p.192)
この構造は他方で、現存在の機構の全体にかかわるものである。〈みずからに先立つ存在〉とは、無世界的な「主観」のうちにある孤立した傾向のようなものを指すのではなく、世界内存在の性格を示すものである。ところが世界内存在とは、みずからに引き渡されて、そのつどすでに”ある世界のうちに”投げこまれている存在のことである。このように現存在がみずからに委ねられていることは、不安のうちで根源的に具体的な形で現れてくる。そのため〈みずからに先立つ存在〉ということをさらに詳しく表現すれば、〈”ある世界のうちにすでに存在していることで自己に先立つ”〉ということを意味するのである。

 わたしが現在ここにあることの意味は、すでに過去によって、わたしがこれまで過ごしてきた人生の過去と、生まれてきたこの場所が含んでいる地球的な歴史という過去によって規定されています。これは「みずからに先立つ存在」としての現存在における”過去”の時間的な意味です。
 第2に、この「みずからに先立つ存在」であるということは、「自己にもっとも固有な存在可能」に向かう存在であるということであり、このことは、わたしが今、自己にもっとも固有の存在可能を実現している存在者ではないことを自明の前提としています。この存在可能は、わたしにただ可能性として与えられているだけであり、わたしはその可能性に向かって進むことを決意することができるにすぎないものです。この存在可能はわたしが過去に存在していたものでも、現在に存在しているものでもなく、わたしの未来において実現されるべきものなのです。これは「みずからに先立つ存在」の”未来”の時間的な意味です。
 第3に、この「みずからに先立つ存在」は、このようにして現在の時点において、現在のわたしを可能にしている過去の時間的な意味と、わたしが自己の存在可能に向かう存在であることで、未来のわたしに向かっているという未来の意味を統一する形で、現在の世界に存在しています。わたしは「ある世界のうちに存在している」という意味で、”現在”の時間的な意味をそなえています。
 現存在にとってのこの「みずからに先立つ存在」のもつ”過去”の時間的な意味は、「すでに”ある世界のうちに”投げこまれている」ことのうちに示されており、その”未来”の時間的な意味は、「みずからに先立つ」ことのうちに示されています。そしてその”現在”の時間的な意味は、「~のうちに存在する」ことのうちに示されています。現存在はこのようにして現在において過去と未来を統一する存在なのです。この現存在の時間的な意味は、やがて詳しく展開されることになります。

 現存在はこのように3つの時間的な意味で「自己に先立って」存在していますが、現存在の存在論的な考察においては、この未来、現在、過去という3つの時間的な意味が、現存在の実存性、頽落、事実性という3つの根源的な存在様態を示すものとなります(ただし、ハイデガーは後に、未来、現在、過去という用語は通俗的な時間概念であると批判し、これらの用語の使用を避けます)。
 第1に、現存在は自己について問うという意味で実存する存在であり、これはすでに確認されたように、現存在がその本質において存在する存在者ではなく、自己の本来の可能性について、自己について問い掛けながら投企することで実存する存在者であるということです(Part.8参照)。これは現存在が自己に固有のありかたを問いかけ、「現存在はその存在において、つねにすでに自己よりも”先立っている”」ということ、未来の時間へと先駆することができる存在だということです。実存という存在様態は、未来という移管的な意味から訪れるのであり、これは現存在が”未来”という時間へ向けて”実存する存在者”であることを意味しています。
 第2に、現存在は実存するものであると同時に、「〈”ある世界のうちにすでに存在していることで自己に先立つ”〉」という形で存在するものです。これは現存在が実存することで、すでに過去の時間から、世界のうちに投げ出されて存在してきたということでした。このように現存在が「みずからに引き渡されて、そのつどすでに”ある世界のうちに”投げこまれている存在」であるということ、現存在がこのように「みずからに委ねられていること」を、不安は根源的に示すのでした。これをハイデガーは事実性を呼ぶのであり、現存在はそのありかたを1つの運命のように、受けいれているのです。

Sie ist vielmehr der phänomenale Ausdruck der ursprünglich ganzen Verfassung des Daseins, dessen Ganzheit jetzt explizit abgehoben ist als Sich-vorweg-im-schon-sein-in ... Anders gewendet: Existieren ist immer faktisches. Existenzialität ist wesenhaft durch Faktizität bestimmt. (p.192)
これはむしろ現存在の根源的で全体的な機構を現象的に表現するものであり、その現存在の全体性が、〈~のうちにすでに存在していることで自己に先立つ〉こととして、明示的に浮き彫りにされたのである。言い換えると、実存することはつねに事実的に実存することである。実存性は本質からして、事実性によって規定されているのである。

 これは現存在の”過去”の時間性から生まれる存在様態であり、このことは現存在が、過去の時間においてすでに世界に投げ込まれているという”事実性の存在者”であることを意味しています。
 第3に、この現存在の事実的な実存は、たんに世界のうちに投げ込まれているだけではなく、実存論的にも存在論的にも、すでに「〈~のもとに〉頽落している」のであり、「つねにすでに配慮的に気遣われた世界のうちに没頭している」のです。

Und wiederum: faktisches Existieren des Daseins ist nicht nur überhaupt und indifferent ein geworfenes In-der-Welt-sein-können, sondern ist immer auch schon in der besorgten Welt aufgegangen. In diesem verfallenden Sein bei ... meldet sich, ausdrücklich oder nicht, verstanden oder nicht, das Fliehen vor der Unheimlichkeit, die zumeist mit der latenten Angst verdeckt bleibt, weil die Öffentlichkeit des Man alle Unvertrautheit niederhält. Im Sich-vorweg-schon-sein-in-einer-Welt liegt wesenhaft mitbeschlossen das verfallende Sein beim besorgten innerweltlichen Zuhandenen. (p.192)
さらに現存在の事実的な実存は、たんに一般的な事柄として無差別に、被投された〈世界内存在可能〉であるというだけではなく、つねにすでに配慮的に気遣われた世界のうちに没頭しているのである。このように〈~のもとに〉頽落している存在のうちに、不気味さからの逃走が行われていることがみてとれるのであり、それは明示的なものかどうか、理解されたものかどうかを問わない。世人の公共性は、馴染みのないすべてのものを抑圧してしまうので、この不気味さはたいていは、潜在的な不安とともに覆い隠されたままである。このように〈ある世界のうちにすでに自己に先立って存在すること〉のうちに、配慮的に気遣われた世界内部的な手元存在者の”もとに”頽落しながら”存在する”ということが、その本質からして含まれているのである。

 現存在は不安のもたらす不気味さから逃走して、世界と世人のうちに安住しているのであり、現存在は「配慮的に気遣われた世界内部的な手元存在者の”もとに”頽落しながら”存在する”ということが、その本質からして含まれている」のです。これは現存在が自己にもっとも固有の存在可能から逃避しているということであり、現存在は「~のもとに存在する」という”現在”の時間的な意味のもとで、”頽落している存在者”であることを示すものです。

 このように、現存在の存在論的な機構は、「自己に先立つ存在」としての未来、過去、現在の3つの時間的な意味に基づいて、それぞれ実存性、事実性、頽落存在という3つの存在様態によって規定されることになります。

Die formal existenziale Ganzheit des ontologischen Strukturganzen des Daseins muß daher in folgender Struktur gefaßt werden: Das Sein des Daseins besagt: Sich-vorweg-schon-sein-in-(der Welt-) als Sein-bei (innerweltlich begegnendem Seienden). Dieses Sein erfüllt die Bedeutung des Titels Sorge, der rein ontologisch-existenzial gebraucht wird. Ausgeschlossen bleibt aus der Bedeutung jede ontisch gemeinte Seinstendenz wie Besorgnis, bzw. Sorglosigkeit. (p.192)
このように、現存在の存在論的な構造全体の形式的で実存論的な全体性は、次のような構造のものとして把握しなければならない。〈(世界内部的に出会う存在者)のもとにある存在〉として、〈(世界の)うちですでに自己に先立って存在している〉ことである。このような存在は、”気遣い”という用語の意義を満たすものであり、この用語は純粋に存在論的かつ実存論的な意味で使われている。だから〈心配〉とか〈苦労知らず〉といった存在者的な意味の存在傾向は、この用語の意義からは、除外しておく必要がある。

 現存在とは、まず現在の時間的な意味を示すものとして、「〈(世界内部的に出会う存在者)のもとにある存在〉」と規定されます。そしてこの現在の時間において現存在は、過去と未来の時間を統合する存在者として、「〈(世界の)うちですでに自己に先立って存在している〉」存在者なのです。現存在は日常性のうちで生きることで、現在の時間において自己に固有の可能性に向かうことを忘却し、「頽落」した存在者であり、このように頽落した存在であることによって、世界のうちにすでに存在するという意味で、過去の時間からすでに「事実性」のもとにある存在者です。しかしそれでありながら、「自己に先立って存在している」存在者として、未来の時間へ向けて「実存」する存在者なのです。
 この現存在の3つの根本的な存在様態は、どれも「”気遣い”」によって貫かれていることに注目しましょう。現存在は頽落した存在者として、日常生活と現存在の生活に不可欠な道具類の目的連関のうちに存在し、この存在様態においては、現存在はそうした存在者たちを配慮的に気遣いながら暮らしています。そして同時に、現存在は世界内部的に出会う他者たちの共同現存在とともにある存在として、他者に顧慮的な気遣いをしながら生きる存在でもあります。
 この配慮的な気遣いと顧慮的な気遣いは、現存在における頽落のありかたを示すものですが、同時にそこには〈~のうちにすでに存在していること〉と〈~のもとで存在していること〉ということがともに定立されているのであり、これは過去の事実性における気遣いでもあります。現存在はこのように、手元的な存在者や共同現存在する他者に気遣いながら、世界に投げ込まれた被投性という事実性に気遣いながら存在しています。そして、現存在の自己は根源的に、存在論的に、〈自己に先立つ存在〉として性格づけられているというありかたをしているのであり、これらの気遣いの根底には、現存在が未来における自己の実存へ向ける気遣いが存在しているのです。

 この実存性、事実性、頽落存在の関係は2重になっていることが指摘できます。現存在は本来的に実存することも、非本来的に実存することもできるからです。

Im Sich-vorweg-sein als Sein zum eigensten Seinkönnen liegt die existenzial-ontologische Bedingung der Möglichkeit des Freiseins für eigentliche existenzielle Möglichkeiten. Das Seinkönnen ist es, worumwillen das Dasein je ist, wie es faktisch ist. Sofern nun aber dieses Sein zum Seinkönnen selbst durch die Freiheit bestimmt wird, kann sich das Dasein zu seinen Möglichkeiten auch unwillentlich verhalten, es kann uneigentlich sein und ist faktisch zunächst und zumeist in dieser Weise. Das eigentliche Worumwillen bleibt unergriffen, der Entwurf des Seinkönnens seiner selbst ist der Verfügung des Man überlassen. Im Sich-vorweg-sein meint daher das >Sich< jeweils das Selbst im Sinne des Man-selbst. Auch in der Uneigentlichkeit bleibt das Dasein wesenhaft Sich-vorweg, ebenso wie das verfallende Fliehen des Daseins vor ihm selbst noch die Seinsverfassung zeigt, daß es diesem Seienden um sein Sein geht. (p.193)
〈自己に先立って存在すること〉とは、みずからにもっとも固有な存在可能に向かって存在することであり、そのうちには、さまざまな本来的で実存的な可能性に”向かって開かれていること”を可能にする実存論的かつ存在論的な条件が含まれている。この存在可能こそ、現存在がその事実的な存在において、そのつど〈それを目的として〉存在しているもののことである。しかしこの存在可能に向かってこのように存在することが自由によって規定されているために、現存在はみずからのさまざまな可能性に向かって、”その意図に反して”ふるまうことも”できる”。現存在は非本来的に存在することが”できる”のであり、事実としてはさしあたりたいていは、このようなありかたで存在しているのである。本来的に〈それを目的として〉いるものを選びとることがなく、現存在自身の存在可能を投企することは、世人の恣意に委ねられている。だから〈自己に先立って存在すること〉で語られている「自己」がそのたびごとに示しているのは、世人自己の意味での自己なのである。非本来性においてすら、現存在はその本質からして、〈自己に先立って〉いる。それは、現存在が自分自身から頽落しながら逃走することによって、この存在者が”みずからの存在にかかわる”存在者であるという”まさにその”存在機構を示しているのと同じである。

 現存在は世界に投げ出された事実性を認識しながら、そして日常性において頽落していることを自覚しながらも、現存在は、「みずからにもっとも固有な存在可能に向かって存在する」ものとして、「さまざまな本来的で実存的な可能性に”向かって開かれている”」存在であることができます。現存在はいつでもこの未来の可能性に向かって生きることを決意できるという意味で、本来的な実存を生きているのです。
 しかし現存在はこのように、事実性に直面し、日常性において頽落しながら生きていることを自覚しながらも、「みずからにもっとも固有な存在可能」についての解釈を、世人に委ねてしまうことがありえます。現存在は、「本来的に〈それを目的として〉いるものを選びとることがなく、現存在自身の存在可能を投企することは、世人の恣意に委ねられている」ことが多いのです。
 このときこの「みずから」、この現存在にとっての自己は、「みずからにもっとも固有な存在可能」における自己ではなくなっています。このみずからは、「世人自己の意味での自己」へと落ち込んでいるのです。現存在は日常的には、本来的な自己に直面することなく、非本来的な自己にみずからを委ねているのです。
 すでに、「自己に先立って」存在することは、過去と現在の自己が、本来あるべき自己に先立つという被投性の意味での自己に先立つことと(これは過去の観点からみた自己への先駆です)、未来の自己が、本来あるべき自己として、現存在の自己に先立つという意味での自己に先立つこと(これは未来の観点からみた自己への先駆です)という2重の意味があることを確認してきました。さらにこの自己への先駆は、現在にかかわる意味もまたそなえています。現存在は頽落した存在として、本来の自己とは異なる世人のうちに頽落した世人自己というありかたをしていることが多いです。このありかたでは「現存在が自分自身から頽落しながら逃走することによって」、現存在は「〈自己に先立って〉いる」のです。これは現存在の日常性における現在の頽落という観点からみた自己への先駆です。
 このように、「非本来性においてすら、現存在はその本質からして、〈自己に先立って〉いる」のであり、このことは、現存在が「”みずからの存在にかかわる”存在者であるという”まさにその”存在機構を示している」と言えます。

 これまで確認されてきた現存在の実存性、事実性、頽落のすべては、気遣いという存在のありかたによって貫かれています。この気遣いというありかたは、こうした現存在の存在様態を貫くもっとも根底的なありかたなのです。

Die Sorge liegt als ursprüngliche Strukturganzheit existenzial-apriorisch >vor< jeder, das heißt immer schon in jeder faktischen >Verhaltung< und >Lage< des Daseins. (p.193)
このように気遣いは、根源的な構造の全体性であるから、現存在のそれぞれの事実的な「態度」や「状態」に、実存論的かつアプリオリに「先立って」いるのであり、つねにすでにそれらのそれぞれの”うちに”ひそんでいるのである。
Daher mißlingt auch der Versuch, das Phänomen der Sorge in seiner wesenhaft unzerreißbaren Ganzheit auf besondere Akte oder Triebe wie Wollen und Wünschen oder Drang und Hang zurückzuleiten, bzw. aus ihnen zusammenzubauen. (p.193)
そのために、その本質からして分断しえない全体性のうちにある気遣いという現象を、意欲や願望、衝動や性向などの特定の行為や欲動に還元しようとしたり、あるいはこれらのものから合成しようとする試みは、つねに失敗するのである。

 ハイデガーは気遣いを、現存在のもっとも根源的な性格であると考えています。伝統的な哲学や人間学においては、「意欲や願望、衝動や性向」などの「特定の行為や欲動」の概念が重視されてきました。ハイデガーは本書では、これらの現象について詳細に検討することは避けて、これらの現象が実存論的にどのように気遣いに基礎づけられているかを示すにとどめようとします。したがってこのnoteでも(紙幅の関係もあり)ハイデガーが検討する「意欲」についてだけ、ご紹介したいと思います。

 ここで「意欲」と訳した>Wollen<とは、英語の>Will<と同様に、「意欲、意志」を意味する語です。意志の概念は、ニーチェの「力への意志」の概念に代表されるように、哲学の重要なテーマでした。この概念を人間の認識能力と実践的な能力の中心的な概念として提示したのはカントです。
 カントは、人間の認識能力の要となる知性(悟性)は、認識の対象だけにかかわるものである一方で、実践的な能力の要となる意志は、意識を規定する根拠となると考えました。カントは『実践理性批判』にて、意志とは、人間がみずからを原因として規定する能力のことであり、人間がみずから「原因」となって行為する自由な存在者であることを規定するものだと説明しています。人間を自由な存在者として規定する意志によってこそ、人間は善をなすことができるのであり、この能力が道徳性を可能にするものなのでした。
 これにたいしてハイデガーは、意欲について次のように語ります。

Im Wollen wird ein verstandenes, das heißt auf seine Möglichkeit entworfenes Seiendes als zu besorgendes bzw. als durch Fürsorge in sein Sein zu bringendes ergriffen. Deshalb gehört zum Wollen je ein Gewolltes, das sich schon bestimmt hat aus einem Worum-willen. Für die ontologische Möglichkeit von Wollen ist konstitutiv: die vorgängige Erschlossenheit des Worum-willen überhaupt (Sich-vorweg-sein), die Erschlossenheit von Besorgbarem (Welt als das Worin des Schon-seins) und das verstehende Sich-entwerfen des Daseins auf ein Seinkönnen zu einer Möglichkeit des >gewollten< Seienden. Im Phänomen des Wollens blickt die zugrundeliegende Ganzheit der Sorge durch. (p.194)
意欲においては、理解されたある存在者が、すなわちその可能性に向かって投企された存在者が、配慮的に気遣われるべきものとして把握されているか、あるいは顧慮的な気遣いによって、その存在へともたらされるべきものとして把握されている。意欲にはそのつど意欲されたものがすでにそなわっているのは”そのため”であり、この意欲されたものは、すでに何らかの〈そのための目的〉に基づいて規定されているのである。意欲することが存在論的に可能になるための構成的な条件はまず、〈そのための目的〉一般があらかじめ開示されていること(〈自己に先立つ存在であること〉)であり、次に配慮的な気遣いをすることが可能なものが開示されていること(これはすでにある存在が〈そのうちで〉存在する世界である)、そして「意欲されている」存在者の何らかの可能性に向かった存在可能へと、現存在が理解しながらみずからを投企することである。このように意欲という現象には、その根底に気遣いが存在する全体性を見通すことができるのである。

 ハイデガーは、人間が何かを意欲することができるためには、「理解されたある存在者が、すなわちその可能性に向かって投企された存在者が、配慮的に気遣われるべきものとして把握されているか、あるいは顧慮的な気遣いによって、その存在へともたらされるべきものとして把握されている」場合にかぎられると指摘します。現存在が手元的な存在者を意欲する場合には配慮的な気遣いが働き、他者にたいしてみずからの行為を意欲する場合には顧慮的な気遣いが働くのであり、いずれにしても、こうしたものへの意欲は、気遣いのもとで規定される「〈そのための目的〉」のもとにあると考えるのです。
 ハイデガーは、現存在が意欲することが可能となるために必要な条件として、次の3つの条件を提起します。第1の条件は、現存在がある手元存在者を獲得しようと意志するか、ある行為をなそうと意志する場合には、その手元存在者の入手の目的もその行動の目的も、1つの目的連関のうちに存在していなければならないことです。現存在が意欲するその手元存在者は、特定の目的のために存在する必要があり、その行為は特定の目的を実現するために実行する必要があります。どちらにしても、現存在の〈そのための目的〉のためといった目的連関が定められ、現存在にとってそれが認識できるものとなっている必要があります。意志が可能となるための第1の条件は、「〈そのための目的〉一般があらかじめ開示されていること(〈自己に先立つ存在であること〉)」です。
 第2に、現存在がその手元存在者を意欲することができるためには、手元的な存在者を利用することのできる世界そのものが、すでに開示されていなければなりません。どのような場面で、何が必要であり、何を入手するかを意志すべきであるかは、それが使われる世界によって規定されているからです。意欲が可能となる第2の条件は、「配慮的な気遣いをすることが可能なものが開示されていること(これはすでにある存在が〈そのうちで〉存在する世界である)」です。このことは、手元存在者への意欲に限らず、現存在の他者を顧慮した行動についても該当することです。
 第3に、このような意志の対象にたいして現存在が意欲し、行動することが可能であることが、現存在によってすでに理解されている必要があります。世界のうちで特定の目的連関のために、現存在が行為する可能性そのものが理解されていなければ、誰も何も意志することがないでしょう。「〈意欲されている〉存在者の何らかの可能性に向かった存在可能へと、現存在が理解しながらみずからを投企すること」が、意欲に不可欠な第3の条件です。
 こうして、ハイデガーが語るように、「意欲という現象には、その根底に気遣いが存在する全体性を見通すことができる」のです。このように意欲、意志という現象は、実存論的に気遣いに基礎づけられているのであり、その他の特定の行為や欲動も、やはり気遣いから説明することができます。これらの現象は、気遣いの諸現象の存在者的な変様なのであって、気遣いそのものこそが、現存在の実存論的かつ存在論的な根本現象であると考えるべきなのです。

 『存在と時間』の第1部第1篇では、「現存在の基礎分析」として、現存在の存在を気遣いとして考察するに至りました。しかしそれはさらに第2篇で、気遣いの現存在を存在論的に「現存在と時間性」として考察するための準備的な考察にすぎません。

Der Ausdruck >Sorge< meint ein existenzial-ontologisches Grundphänomen, das gleichwohl in seiner Struktur nicht einfach ist. Die ontologisch elementare Ganzheit der Sorgestruktur kann nicht auf ein ontisches >Urelement< zurückgeführt werden, so gewiß das Sein nicht aus Seiendem >erklärt< werden kann. Am Ende wird sich zeigen, daß die Idee von Sein überhaupt ebensowenig >einfach< ist wie das Sein des Daseins. Die Bestimmung der Sorge als Sich-vorweg-sein-im-schon-sein-in ... - als Sein-bei ... macht deutlich, daß auch dieses Phänomen in sich noch struktural gegliedert ist. Ist das aber nicht das phänomenale Anzeichen dafür, daß die ontologische Frage noch weiter vorgetrieben werden muß zur Herausstellung eines noch ursprünglicheren Phänomens, das die Einheit und Ganzheit der Strukturmannigfaltigkeit der Sorge ontologisch trägt? (p.196)
このように「気遣い」という表現は、実存論的かつ存在論的な根本現象を示すものであるが、この現象の構造は、”単純なものではない”。存在を存在者から「説明」することができないのと同じように、気遣いの構造の存在論的に基本的な全体性を、何らかの存在者的な「基本要素」に還元することはできない。結局のところ、存在一般の理念もまた、現存在の存在と同じように、「単純な」ものではないことが明らかになるだろう。これまで気遣いを〈~のもとにある存在として、~のうちにすでに存在していることで、自己に先立って存在していること〉と規定してきたが、この規定はこの気遣いという現象が、それ自身において構造として”構成されている”ことを明らかにしている。そうだとするとこれが現象的に示しているのは、わたしたちの存在論的な問いをさらに深めて、気遣いの構造的な多様性の統一性と全体性を、存在論的に支えている”さらに根源的な”現象を取りだす必要があるということではないだろうか。

 気遣いについて、単に存在者的な現象として考察するのではなく、「わたしたちの存在論的な問いをさらに深めて、気遣いの構造的な多様性の統一性と全体性を、存在論的に支えている”さらに根源的な”現象を取りだす」ことをする必要があります。すなわち、これを時間性という観点から考察する必要があるのであり、これが第2篇に引き継がれる課題となります。

 ただしハイデガーは、第2篇の考察を始める前に、これまでの研究を次の3つの観点から補足する必要があると考えています。
 第1の補足は、気遣いという概念は、ハイデガーがことさらに考えだした何らかの理念のようなものではなく、哲学のこれまでの伝統において、存在者的かつ実存的にすでに開示されている概念を、実存論的に示したものであることを明らかにする作業です。これは「気遣い」の概念の哲学史的な考察であり、第42節の課題となります。
 第2の補足は、伝統的な哲学史における重要な論争点である観念論と実在論の対立を、この現存在の気遣いという観点から考察する作業です。これは世界の実在性をどのように考察するかという哲学的な問いにかかわるものであり、第43節の課題となります。
 第3の補足は、これも伝統的な哲学において最も重要な概念の1つであった「真理」という概念が、この現存在の気遣いという根本概念から考察した場合に、どのように理解できるかを考察しようとするものです。これは真理概念の哲学史的な考察を、現存在の問題として考え直すことを目的としたものであり、第44節の課題となります。
 第2、第3の補足の部分で検討される世界の実在性と真理という2つの概念は、伝統的な哲学史においても考察の中心的な軸となる2つの重要な問題構成であり、これらを考察することで、ハイデガーの存在論の哲学史的な射程の深さが明らかにされることになるでしょう。


 今回は以上になります。現存在の基礎分析は、「気遣い」という概念にたどりつき、第1部第1篇の主な目的は、この節で達成されたと言えるでしょう。しかし本書の分量的には、実はまだ半分にも達していません。このnoteもまだまだ続く予定ですので、どうぞよろしくお願いします。

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